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胃袋を掴む恋

作者: 藤英




 ―――熱い。

 ゆらゆらと揺れる視界の中で、炎を背にして立つ男がいた。突き刺すような視線はさながら獲物を追い詰めた狩人のようだ。けれどその獲物に当たるはずの自分には恐怖も怯えもなく、かわりに熱に浮かされた思考が短い言葉を弾き出していく。

 なぜ。どうしてここに。この男が。来てくれたのか。

 ……ああ、熱い。熱い、熱い。

 目の前に立つ男を眺める自分は、一体どのような顔をしているのだろう。喜び、悲しみ、呆れ、絶望、諦念。どの感情だ。何も分からない。ただ、熱い。

 揺らめく炎を艶やかに映し出した刃が、静かに首元に突きつけられる。

 なぜ。この男は、一体何を?

 何も分からない。ひたすらに熱い。じりじりと肌を焦がす熱が脳内まで侵食していくようだ。

 炎に取り巻かれながら、目の前の男は密やかに笑った。

「どうあがいても共に生きられないのなら、……それならば、共に果てたいと願ってはならないか」

 はてる?

 鈍重な思考でその言葉を反復した。そして唐突に理解する。ああそうか。この男は。私は。

 気付けば、笑っていた。炎に混じって引っ掻くような笑い声はどこまでもこの場に不釣り合いで、それがまたおかしさに繋がる。

「最初から最後まで、あなたはわたくしの思い通りにはならないおつもりですか」

「冗談を。最初から最後まで、俺の思い通りにならなかったのはお前の方だろう。初めて会ったあの時から、どれだけこちらを振り回した、お前は」

「そうですね。それでもわたくしは心のどこかで、他でもないあなたになら……殺されてもいいと思っていました。逃げながらもきっと、その場所を探していたのでしょうね」

「それならばここがその場所だ。お前の全てを寄越せ、俺に」

 縋るようなその瞳は、見たことがなかった。いつだって彼の瞳は、強い意志と執着を見せつけていたのだから。

するりと、まるで愛撫のように喉を切っ先が滑る。冷たいような熱いような、曖昧なその感触を覚えるように瞳を閉じた。

 この男とはずっとすれ違い続けてきた。それは素直になれなったからか。いや、素直になることを自分に許さなかったからだ。そのままにすれ違い続けて、そして今ここにいる。

 そっと目を開ければ、変わらぬ表情の男がいる。彼へのあふれる想いは、欠片でさえもこの口から出したことがない。きっと、これからも告げることはないのだろう。

 最後まで。そう、この場所で終末を迎えても。……ああ、それならば。

「わたくしの全てをあなたに?……嫌ですわ」

 炎を切り裂く硬質な音が高く響いた。

 衝動だったのか。それともずっと心の奥底で願い続けてきた願望だったのか。他人事のように、自分が男の剣を弾いたのを見ていた。くしゃりと、男の表情が歪む。突き刺した手の感触は、切ないほどの喜びをもたらした。

「おま、え……っ」

 彼を見上げて笑みを向ける。何もかも分かったのか、男はほっとしたように微笑んだ。

「やはり、お前は俺の、思い通りには、ならないな。……先に、待っている」

 震える男の指が持ち上げられて、そっと目の下を拭うような仕草をした。おかしなことだ。涙など、流れるはずもないのに。

 がくりと崩れ落ちた彼の身体と共に、地に膝をつく。今なら分かる。自分は今、これまでで一番素直に笑えている。

「……残されるのは、わたくしで良いのです」

 もう一度剣を取った。

「あなたの全ては、その死でさえもわたくしのものにしたかった。例え一瞬でも、わたくしのいない時間をあなたに生きて欲しくはありませんから」

 刃先を己に向けて振り上げる。

「だから、これで良かったのです。……ええ、あなたのお言葉の通りに。わたくしもすぐに参りましょう」

 鈍い衝撃。痛みなど、感じなかった。視界に映るのは彼の姿だけだ。指を伸ばして男の頬に触れる。いつだったか、指先に想いの全てが宿ると聞いた。……この想いは、言葉のかわりに彼に届いているだろうか。いや、もう遅いか。全ては終わった。終わらせたのだから。それでも、……ああ、なんと幸せなのだろう。

 炎に包まれた、ここは自分と彼、二人だけの楽園だ。

 神の存在など信じてはいないが、もしいるのなら言ってやってもいい。この楽園をありがとうと。

 最後、開きかけた口が何を紡ごうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、指先で彼の存在を抱き締めていた。






 「―――『炎の楽園、究極の愛』」

 少女が、机の上に並べられた料理を次々と口へ運んでいた。所作は美しいが、一連の動作を繰り返すその速さは尋常ではなく、まるで何日もの絶食を超えて好物にありついたような、そんな必死さがあった。

「人気作家シャルド=アンヴィが今期の脚本を担当した、フロスルードの新作『楽園(カエルム)』が、先日初公演を迎えた。当初、小説家が脚本を担当することに批判もあったが……」

 少女の喉が、メインである鶏肉のソテーのひとかけらを嚥下してこくりと動く。薔薇色に頬を染めて、彼女はほっと満足そうな息を吐いた。しかしそれで食事が終わるはずはなく、皿の上の料理へと再び手が動いていく。

「関係者によると、当初の作品名は『楽園の虚実(ファルサス・カエルム)』であったと言う。……へぇ、そうなんだ?―――ところが、団員たちの希望で現在の作品名へと変えられた。いわく、主役二人が最後に選んだその道は、客観的に見れば虚実であっても、二人にとってはそれが紛れもない本物の楽園であるから、とのことだ。既に新作をご覧になった方には頷いて頂けるであろう。……うーん、まあどうでもいいな。ん?あ、あったあった、ルナのこと書いてあるよ」

 ルナ、と呼びかけられた少女だったが、彼女が顔を上げることはなかった。落ちてきたほつれ毛を耳に掛け直しながらも、食事を続ける。

「主演の一人で、最注目されていたルナティアには、新作公開前に記者が尋ねていたが、当時ルナティアは何一つ質問に答えなかった。ただその時に述べた一言、「私のことが知りたいのなら、舞台を見に来て下さい」とのことば通り、我々はまたもや彼女の非凡さを見せ付けられたと言える。中盤でルナティア演じる女主人公が秘めた恋の苦しみを歌う牢での場面もさることながら、やはり特筆すべきは最後であろう。それまで淡々としていた彼女が、燃え盛る炎の中で激しい執着を発露する場面は想像を絶する。……へぇ。ルナ、すごく褒められてるよ。あ、食べ終わった?」

 フォークを置いて満足げに笑った少女、ルナティアは、そこで初めて同じテーブルの向かい側に着く青年へと目を向けた。

「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」

 くしゃりと顔を崩して小さく頭を下げたルナティアに、青年も笑みを返した。

「いいえー。いつものことながら、これだけ綺麗に食べてもらうと作り甲斐があるよ。ところで、俺の音読聞いてた?」

 青年は手に持っていた情報紙を逆向きにしてテーブルに置き、ルナティアの方へと向けた。

 『フロスルード完全密着。話題のルナティア』、見出しで大きく書かれたそれを見て、当の本人であるルナティアは顔を背けた。

「聞いていましたが……そんなもの、全く意味を為しません」

「何で?俺のルナを、さも何もかも知ってるみたいに書いちゃってさ。妬けちゃったくらいに褒められてるのに」

「褒め言葉など、所詮は後付けです」

 簡潔に答えて、ルナティアは食器を片づけるために立ち上がった。食事直後の幸せそうな雰囲気は一瞬でなりを潜め、触れれば切れそうな冴え冴えとした表情へと変わる。

「私の劇は舞台の上だけじゃない。観客席を含めた劇場全体が私の舞台、私の劇です。私が舞台に立ったなら、観客の目も耳も、全部私が支配する。瞬き一つ、息を飲む瞬間、思考の一つでさえ、私が支配する。……だから分かるんです。私の劇を見て下さる人たちは、褒め言葉など考えている暇はありませんよ。だから、そんな紙に書いてあることなどただの後付けです。どうしても書きたいのなら正直に、全部持って行かれたと、そう書けばいい。それが事実でしょうから」

 自尊でもなんでもなく、それが紛れもない本当のことだという口調に、青年はにやりと笑う。

「うーん堪らないな、ルナのそういうところ」

「何がですか?」

 きょとんと年相応の幼さを見せたルナティアになんでもないと手を振って、青年はところでと話を変えた。

「ルナ、明日は何が食べたい?」

 ルナティアの返事はいつも決まっている。それでも青年がこの質問をしなかったことはない。

「何でもいいです。何でも、おいしいですから」

 やはり同じ。彼がいつも少しの落胆を覚えていることなど、彼女は知らない。青年としては、もう少し彼女のわがままが欲しいのだ。ルナティアが食べたいというのなら、例え伝説の食材スティラを取ってくることだって辞さないのに。彼女ときたら、舞台の上では様々な人間性や感情を千変万化に演じて見せるのにも関わらず、私生活ではどこまでもあっさりしている。舞台の上に全部置いてきてしまったのではないかと、本気で思ってしまうくらいには。

「じゃあ明日のメインは羊か豚の肉かなー。どうしようかなー」

 青年が呟いている間にも、ルナティアは手際よく食器を洗い場に運び、皿洗いに取りかかろうとしていた。それに気付いて、慌てて青年は彼女の手から皿を奪う。

「ああっ、ちょっとちょっと!いつも言ってるだろ?それくらい俺がやるって」

「夕食を作って下さるだけで十分です。それに……」

 奪い返そうと彼女の手が伸びるのを妨害しながら、青年は小さなつむじを見下ろす。言いよどんだ言葉の続きを待っていると、奪い返すのを諦めたのかルナティアはすっと青年を見上げた。

「申し訳ない、ですから」

 また、少しの落胆。自分がどんな言葉が欲しかったのか青年自身にも分からなかったが、少なくとも申し訳ないなんて言葉は聞きたくなかった。

 無償奉仕。青年がやっていることは、そんな言葉で言い表されるのだろう。だがそれだって彼女の、ルナティアの心が欲しいからなのだ。申し訳なさなんて覚えなくていいから、心をくれ。そう言いたい。

 洗い場から無理やり彼女を追い出し、それでもまだうろうろしているルナティアを洗い場に入れないように防ぎながら、青年は心の中でため息をついた。

 ―――胃袋を掴めばっていうのは間違っていたのか?

 もう一年にもなる。でも進展していない。

 隙を見て再び入ってこようとしたルナティアに、青年はあっち行けと手を振った。

「ほら、明日も本番なんだろ」

 これは魔法の言葉である。言えばしぶしぶながら彼女は引き下がって行った。

 その背筋の伸びた後姿を見送りながら、青年は先程の思考を再び頭から引っ張り出した。

「一年、もう一年か」

 彼女に出会ってから。彼女に恋に落ちてから。―――彼女を、殺そうとしてから。




 青年、トワは殺し屋である。人から依頼を受け、相応の報酬がもらえるならば国の要人から一般人まで幅広く殺す。その世界では腕が良いと評判で、ルナティアを除いて失敗したことはなかった。

 一年前、トワはルナティアを殺すように中間者を通じて依頼を受けた。ルナティアがいなければ、国で一番、いや大陸で一番の役者というその座をほしいままにできた、さる女性からの依頼だった。

 まあつまり殺しの理由はくだらない嫉妬だったわけだが、そんなことはどうでも良かった。人間、誰かを殺したいと思う理由はそれまでにトワが見てきただけでも様々だった。

 提示された報酬の額は素晴らしくて断る意味もなかったから、トワは快くその依頼を受けた。そしてある夜半にルナティアの住む下宿へと忍び込んだのだ。想像以上に防犯の甘い下宿は容易く侵入者を迎え入れた。この難易度なら報酬の額は相応以上だと得した気分でルナティアの居室へと足を踏み入れた。

 裏口から入ったトワがまず気付いたのは、部屋中に満ちる料理の残り香だった。それから、台所の端に積み上げられた大量の食材と、洗われたばかりのこれまた大量の食器。数人で食事会でもしたのかと思うほどの多さだったが、コップは一つだけだった。

 ―――大食漢、なんて話は聞いてないんだけれど。

 可憐な見た目からは想像できない事実に思わずくすりと笑ってしまってから、気を取り直してトワはルナティアの居場所を探った。気配は居間に隣接する部屋、事前に手に入れた情報では防音のその部屋は、ルナティアの個人練習に使われているらしい。

 その部屋にいるだろう時間を見計らっていたが、まさに計画通りだった。万が一気付かれて悲鳴を上げられても、防音ならば問題ない。本当に難易度の低い殺しだと思った。

 そしてトワは彼女がいる部屋にするりと入り込んだのだ。

 その部屋は広かった。夜半だというのに明かりは灯されておらず、一つだけある窓から零れる月の光が、その部屋とそこにいる少女をぼんやりと浮かび上がらせていた。そう、計画通りに標的はそこにいたのだ。彼女は広い部屋の真ん中にぺたりと座り込み、そして歌っていた。

 圧倒的な声量だった。部屋の隅々まで響き渡るその声には、あふれるほどの恋情があった。隠そうとしても抑え切れない、それでも隠し続けなければならない。胸を搔きむしるような苦しみ、血を吐くほどの切なさ。そんな思いにあふれた声がトワの耳に突き刺さった。

 伸ばされた細い腕は窓の外の月を乞うように伸ばされ、瞳はあらゆる感情を語りながら、愛しい相手をどこまでも求めていた。

 その時、トワは気付いた。―――彼女は、俺がここにいることを知っている。俺が見ていることを、俺が聞いていることを、知っている。

 観客がいて初めて彼女の世界は作られる。今この瞬間、間違いなく観客はトワ一人。―――それならば、今、この世界は俺だけのものか。

 その瞬間、彼女の世界に呑み込まれた。耳を、目を、感覚の全てを奪われ、やられた、そう感じた。

 「だめだ、これじゃあだめだ」

 歌いきった少女は、すっぽりと感情を顔から洗い落とした。唖然とするほどの早業だった。

「もっと、もっと強く抑え付けないと。限界まで抑え付けて、それでもこぼれてしまう想いを、切なさを歌うんだ。……ああ、でもそれだけじゃない。彼女の根底にあるのは激しい執着だから……だから、抑え付けた激しさの一端をここで見せないと。それじゃあ月を求めてちゃいけないのかな。牢の外の月は何のためにあるの?激しい想いに呑み込まれそうだから、助けを求めて?それもあるか。でも、そうだ、彼女だったら掴み取ろうとしなくちゃ。……そうですよね?」

 突然まっすぐに向けられた視線に、トワは生まれて初めて反応に困るという事態に陥った。彼女はまさかトワが自分を殺しに来たとは微塵も思っていないだろう。何を言えばいい。ところがトワが口を開く前に、彼女はぱっと視線を外して窓の外の月を見た。

「うん、やっぱりそうだ、そうなんだ。ありがとうございます」

 自己完結してなぜか礼を言い、あっさりとした表情で彼女はうんうんと頷いた。と、その動作がぴたりと止まる。

「あれ?ところで、どなたですか?」

「え、あー、うーん……殺し屋?」

「そうなんですか?」

 座り込んだ床から立ち上がろうとしたのか、ルナティアは床に手をついた。しかしすぐに小さくうっ、と呻くと反対の手を腹部に当ててくたりと背を縮めた。何が起こったのか分からないトワの耳に、力ない声が届く。

「だめだ……あれだけじゃ、足りない……」

 その静謐な顔に、わずかに苦悶が浮かぶ。

「お腹、減った……」

 その時のトワはぽかんと口を開けていたと思う。ただ、脳内を占めていたのは違ったことだった。

 何この子。―――かわいい。

 それからのトワの行動は早かった。理由など何でもいい、その時には彼女に興味を覚えていた。彼女のことが知りたかった。だからまずは大食漢であるらしい彼女の胃袋を掴んでみようと思い立ったのだ。

 無理やり食卓に座らされて待っていたルナティアは、あっという間に並べられた料理に長いまつげに縁どられた青い瞳を瞬かせた。そして次には、ぱっと頬を薔薇色に染めた。それだけでもものすごくかわいかったのだが、彼女は心底嬉しそうにぺろりとトワの料理を平らげた。

「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」

 満足げにへにゃりと笑った彼女を見た時には、トワの頭の中からここに来た理由などすっかり消えていた。

 とは言え、結果報告をせずにいるというのも職務上よろしくないわけで、トワは翌日には中間者に依頼は失敗したと伝え、受け取っていた前払い金を全て返した。ついでに目を白黒させている中間者に脅しもつけておいた。「これから先、ルナティアを狙う者がいたら俺が返り討ちにする」、と。そしてその日の夜には再びルナティア宅へ無断でお邪魔し、劇団から帰宅した彼女を作った夕食と一緒にお迎えしたのである。




 まるで押しかけ女房。いや、我ながら涙が出るほどの純情ぶりだ。トワはこの一年を思い出して遠い目をした。目の前には夜食であるリゾットを熱心に口に運ぶルナティアがいる。

 ―――本当に、かわいいと思う。こちらが食べてしまいたいくらいに。

ルナティアが好きで好きで仕方がなかった。その思いは一年前からさらに広く深くなって、もう手の施しようがない。

 まずは一生懸命料理を食べるその姿が好きだ。おいしかったと笑う顔も好きだ。毎日飽きずに繰り返される洗い場での攻防だって、実は楽しい。ちょっと必死になって皿を奪おうとするところがかわいくてたまらない。舞台について語る時だって、まあその熱弁ぶりにかなり妬けてしまうとは言え、はっとするほど綺麗で、好きだ。舞台の上とは違って私生活のルナティアはあっさりしているが、それかと言って感情がないわけではなく、大きく顔に出ないだけだとこの一年で知った。ルナティアの見せるその感情の変化一つ一つが好きだ。いやそれだけではない、もうルナティアの一挙一動全てが好きだ。

 劇団フロスルード。その意味は、「花に遊ぶ」。紛れもない、ルナティアはフロスルードの手折られない花なのだ。トワはその花を自分のものにしたくて仕方がない。

 本当なら、攫うことだってできる。生憎金には全く困っていないし、誰にも見つかることなくルナティアを囲ってしまうことなど容易い。トワとて、健全ないい年の男である。目の前で無防備にひょこひょこと動いているルナティアを見ていて、ちょっと触りたいとかちょっと抱きしめたいとか思うのだ。でもそれすらできなくて、もうそれならいっそ、などと思い詰めてしまってもおかしくないではないか。おかしくないはずだ。

 攫いたい。本当に攫いたい。あの『楽園』の結末のような「共に果てたい」に比べたら、攫いたいなどまだましではないか。いや。だが、しかし。

 目の前で静かに危うい思考にはまり込んでいる青年に気付いたのか気付いていないのか、ルナティアは珍しく食事中に口を開いた。

「……明日から、もう一つの演目の練習が始まるんです」

「うん?」

 思考の波からずぶずぶと引っ張り出されて、トワはどうにも間の抜けた返事をした。

「『楽園』とは別に、今年はもう一つ作品を公開するんです」

 ルナティアに関する情報は表からも裏からも手に入れている。フロスルードが新作『楽園』とは別に、昔から有名な作品である短い演目を配役を変えて公開することは知っていた。

「『二人の王女』。……私は姉姫の役をやらせていただくことになっているんですが」

「ああ、妹姫役の子が到着したのか」

「知っておられましたか」

 ルナティアはぱちぱちと目を瞬かせた。トワが知っていることに驚いたのだろうが、トワとしてはそれ以上の情報を持っている。本人に言うことはないが、誰であろうその妹姫の役を務めるアメリアこそが、トワがルナティアに出会うきっかけとなった人物、つまり一年前の依頼主なのだ。

「今日、アメリアさんと顔合わせをしました。初見でこんなことを言っては駄目なんですが、私は……彼女には妹姫の役が務まらないように思えます」

「へぇ、そうなの。俺にはぴったりな気がするけど」

 清純で真っ直ぐな姉姫と、妖艶で全ての黒幕である妹姫。題名こそ『二人の王女』だが、実際の主役は姉姫で、妹姫は悪役である。

 その妹姫に抜擢されたアメリアは一大財産を持つ商家の傲岸不遜な娘で、役者として名を上げたのは幼い頃からの教育の賜物だった。だからこそ自分の上に沸いて出た天才肌のルナティアが目障りだったのだろう。だがそこでルナティアを殺そうとした時点で、トワにとっては小物である。一年前は曲りなりにも仕事に対する矜持と提示された報酬ゆえに依頼を受けたが、実にくだらない殺しの理由だと思っていた。そんな小物が悪役とは、まさに適役ではないか。

「姉姫の清純さは、妹姫がいてこそ成り立ちます。姉姫はただ清純で真っ直ぐな言動をしていればいいだけだ。でも妹姫はその妖艶さで姉姫を引き立てなくてはならない。その重役は、あの程度の姿勢では務まりません」

「そういうものなの」

「私の主観です」

 最後の一口を大事そうに飲み込んでから、ルナティアは幸せそうに笑った。

「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」

「あーもーかわいいなー」

 頭を撫でるくらいは許されるだろう。トワは手を伸ばして向かい側の小さな頭をここぞとばかりに堪能した。きょとんとしながら不思議そうに見上げてくる彼女がかわいくて、手が止まらない。

「どうかされましたか」

「いいえー何でもありませーん」

 言いながら、頭の隅でアメリアはまだ諦めていないだろうなと思った。小物のしぶとさというのはトワも仕事上で経験済みだ。アメリアが主役ではなく悪役を割り振られたのなら、なおさらルナティアへの恨みを育てていそうだ。かといって、ルナティアがそのしぶとい小物の餌食になるのは許しがたい。というか、許さない。

 はたと気付いた。アメリアの魔の手からルナティアを守ったトワに、彼女が惚れるという可能性は……無きにしも非ず。ぐんと気分が浮上した。

「あの、そろそろ離していただけませんか」

「ん?嫌かなー」

 ルナティアは強敵だ。愛の手料理をいくら作っても、トワの想いは伝わらない。

 ―――ねえ、そろそろ俺のものになってよ。

 海より深いこの想いが指先から少しでも届くようにと、トワはわしゃわしゃとルナティアの頭を掻き回し続けた。






 ルナティアは一週間、我慢した。舞台に関しては妥協を許さないと自他共に認めている彼女が、一週間耐えた。もう、我慢ならない。そう思った。もう、限界だ。

「……いい加減にして下さいませんか」

 放った声は思っていたよりもずっと低く響き渡り、自覚している以上に自分は怒っているのだと、ルナティアは頭の隅で客観的にそう判断した。他の団員たちがやっちまったなと視線を逸らすのを感じる。だが、一言言葉を放ってしまえばもう止まらなかった。

「あなたは何をやっているんですか。本当にこの役を務める気があるんですか。失礼ですが、今のあなたの演技は妹姫には見えません。あなた自身ばかりが表面に押し出されて、妹姫の像が失われている」

 真っ直ぐに見据えた先の豊満な肢体を携えた少女は、憎々しげにルナティアを睨みつけた。その表情は、先程演技で見せたものと全く一緒だった。それは役者として、あってはならないことだ。

「降って沸いた素人が、偉そうにものを言わないで下さる?自分が姉姫だからって付け上がっているようね、なんて生意気な子なの」

「偉そうにものを言わせているのはあなたです、アメリアさん。自分の人間性を塗り替えてでも彼女たちになりきるのがこの仕事でしょう。登場人物の人間性を塗り替えてどうするんですか」

 アメリアはふんと鼻で笑った。

「私の非を責める前に、自分の演技を見直したらどう?ほら、姉姫の役があなたの手に余っているのが分かるのではないかしら?」

「そうであったとしても、今は私が姉姫でアメリアさんが妹姫です。一度役を与えられたのなら、その役を演じ切るのが玄人ではないですか。今のアメリアさんは妹姫をあなた自身でつぶしています」

「上から目線でよくも私にぺらぺらと御託を並べるわね。出自が知れるというものよ。分かっていないようだから教えてあげるわ。本当の玄人が最高の演技を見せるには適役というものがあるの。ご存知?適材適所という言葉」

 こちらの話を聞く気がないのかと思った。美しく妖艶で気高い、黒。ある意味無邪気で純粋、そんな妹姫を軽視しすぎている上に、アメリアは自分自身でその役を、妹姫という人間性をつぶしていることに気付いていない。気付こうとすらしていない。

 これでは、姉姫の引き立て役どころか、妹姫そのものさえ危うい。やはり第一印象は間違っていなかった。妹姫の役は彼女には務まらない。

 心底腹が立った。ルナティアはアメリアのことをフロスルード支部の頂点に立つ役者だと聞いていた。今年の『二人の王女』は、本拠地と支部の頂点が並び立つ大々的な演目になるだろうとも聞いていた。楽しみにしていたのだ。互いを高め合えるような関係になれるのではないかと。

 それがどうだ。自分の感情ばかりを表に出して「演じる」ことさえできていない、これが支部の頂点だと言うのか。彼女は舞台を何だと思っているのだろう。

 そこでルナティアは諦めた。簡単な話だ。アメリアに務まらないのなら、自分がやればいい。ルナティアはすっと顔を上げた。

「団長、アメリアさんと私の役を換えて下さい」

 周りの団員たちが息を飲んだのが分かった。対してアメリアはあら、と小さく呟くと勝ち誇った笑みを浮かべる。

「なかなか素直じゃない。見直してあげるわ。……そうね、私の方が実力も年齢も上だものね。その方がずっと自然だわ」

 団長はと言うと、難しい顔でルナティアとアメリアを交互に見つめていた。

「まだ情報は公開していないから交代は可能だが……だが、そうだな、その方がうまくいくのならそれで行こう」

「回りくどいことをせずに最初からそうすれば良かったのよ。どちらがこの役に合っているかなど、一目瞭然でしょう?」

 団長は空気を断ち切るように手を叩いた。

「気を抜いてないで、全員位置に付け。さっきのところからもう一度だ。……いけるか、ルナティア」

 目を閉じていたルナティアは、目を開くとうっすらと微笑んだ。偶然その顔を見てしまった団員は、誰もがぞっとした。この一週間、清楚な姉姫の顔を見続けていただけに、その一瞬での変わり様は凄まじいものがあった。そこにいたのは間違いなく妹姫だった。

「愚問だったな」

 笑う団長を団員たちは信じられない思いで見ていたが、ルナティアは気にすることなくしゃがみ込んで姉姫用の靴を脱いだ。横を通り過ぎたアメリアの声が降りかかる。

「せいぜい私の邪魔にならないようにしてちょうだい。まあ、そもそも妹姫なんて邪魔な役だけれど」

「……」

 ルナティアは無言で高いヒールの靴に履き替えると、俯きがちに指定位置へと立った。頭のてっぺんから指先、足先まで、自分自身が塗り替わっていく感覚は慣れたものだった。

 愛情を憎しみに染め、姉姫の全てを壊そうとする無邪気な少女。それが妹姫、―――私だ。

 開始の合図を聞くと同時に両手を広げれば、もうそこにルナティアという存在はいなかった。妹姫は、俯いたまま抑えきれない高い声で心底楽しそうに笑った。

「ああ!来たわ来たわ!何も知らない、馬鹿でかわいくてかわいそうなお姉さまが!」

 うふふ、と無邪気に笑うと妹姫は顔を上げてくるりと回った。

「お姉さまはこれからどんな顔をするのかしらね。驚き?恐怖?それとも……絶望?」

 足音が聞こえて、妹姫はその白い人差し指を立てて口元に当てた。

「アンジェ、そこにいるの?」

「ええ、そうよお姉さま!ここよ!……遅いじゃない、待ちくたびれちゃったわ」

 静々と歩いてきたアメリアに妹姫は駆け寄った。抱きついてその顔を笑顔で見上げる。ぴしりとアメリアの顔が強張った。

 その場にいた団員たちは、思った。―――ああ、呑まれたな、と。

 それからは妹姫、もといルナティアの一人芝居だった。

「だぁいすきなお姉さま。でもそれ以上に、私、お姉さまがだぁいきらい!」

 だから、と妹姫はとてつもなく綺麗に微笑んだ。

「ここでさようなら。……ね、お姉さま?」

 あくまで無邪気に、愛おしげに呼んで。そして。あるべきはずの姉姫の答えは無かった。




 「ほんっと、見事に固まったわね、あの子」

 ルナティアは夢中になって大量の昼食を食べていた。その横でルナティアの半分の量のおかずをちまちまとフォークでつついていた団員が口を開く。

「うちではいい加減に見なくなったもんね。みんなルナちゃんに鍛えられちゃってさ」

「ええ、久々だったわね。ま、いい気味だったけど」

 最初に言葉を発した団員が、ルナティアの三分の一のおかずを口に運びながらもごもごと言う。ちらりと彼女が視線をやった先には、食堂の隅でほんの一握りの昼食を無表情で取っているアメリアがいる。

「おもしろいほどにルナちゃんとは正反対で、見てて楽しいよ」

「ほんとほんと」

 相槌を打った彼女が視線を戻せば、どこに入れるんだというくらいにたくさんの料理を細い身体に詰め終わったルナティアがいた。これで夜の公演が終わる頃には空腹でよろよろしているのだから、ありえない。というのは団員の誰もが思っていることだ。

 しかし当のルナティアはごちそうさまでしたと呟くと、少し肩を落とした。

「あれ、ルナちゃんどうしたの」

「今日は、いつもより少ないです」

小さく呟かれた一言を聞きとがめて、はあ?と呆れまじりの声が周囲からいくつも上がる。

「それだけ食べといてまだ足りねぇってのかよ。さすがだな、ルナ坊は」

「まかないのおばちゃん、今日の分は出し切ったって言ってたぜ」

「ルナちゃん、夜公演の終わりまでもちそう?」

「……がんばります」

 ぽつりと答えたルナティアに、周囲の団員たちは揃って痛ましげな顔をした。誰もが一度は空腹で死にかけているルナティアを目撃しているのだ。

「あの、良かったら……」

「ああルナちゃん、そんな切ない顔しないで!お姉さんのをあげるから」

「私のも持っていけばいいわ」

「あのっ……」

「俺のパンも持ってくか?」

「あのっ、すみません!」

 わらわらとルナティアへの寄付に集まりかけた団員たちの動きを止めたのは、少し高い声だった。団員たちが振り返れば、くるりとした目が印象的なひょろりと背の高い少年が立っていた。その手には四角い包みが乗っている。

「ん?アレクじゃねぇか。どした?」

 周囲を囲まれていたせいで少年の姿が見えなかったルナティアは、アレクと聞いて思い出した。アメリアと同じく支部から本拠地へとやってきた、いくつか年上の少年だった。ただアメリアのように『二人の王女』ではなく、『楽園』の方で団長に引き抜かれたため、去年からの顔見知りではある。

 緊張のせいか頬をうっすらと赤くしたアレクは、団員たちに押し出されるとルナティアに包みを差し出した。

「よ、良かったら、食べて下さい。いつも足りなさそうだったので、作ってきました」

 舌を噛みがちに言われた言葉に、どうやら弁当らしいと、ルナティアは思わずまじまじとアレクの手の上の包みを見つめてしまった。

「私に、下さるんですか」

 少年を見上げて聞けば、彼は機械のようにがくがくと何度も頷いた。

「は、はいっ。ルナティアさんが良かったら、ですけどっ」

 断る理由などなかった。これで夜公演を乗り切れるというのもあるが、ルナティアに作ってきたと言うのなら、むしろ断っては悪い。

 わずかに震えながら差し出された包みを受け取ると、周りから口笛と歓声が上がった。

「弁当貢がせるとは、さっすがルナ坊!」

「普通は逆じゃないの?」

「確かに!」

 にぎやかな笑い声に包まれながら、ルナティアはさっそく包みを開いていた。手作り料理のふわりとしたいい匂いが鼻をくすぐっていたし、それ以前にルナティアのために作ってくれたというのが純粋に嬉しかったのだ。

 バスケットに丁寧に詰められたサンドイッチを手にしながら、ふと思い出した。自分のために作られる料理にとても憧れていた、昔の自分を。

 フロスルードに入団して、死に結び付く飢餓とは無縁になった。それでもどこか寂しかったのは、遠い世界だったからだ。例えば誕生日のごちそう、風邪を引いた時のミルクスープ。誰でもいい、ルナティアのためだけに作られた料理が食べたい、ずっとそう思っていた。だが、たくさんの人に囲まれる世界に足を踏み入れても、やはりその世界は遠かった。

 願いを叶えてくれたのは、突然現れた青年だった。彼の料理を初めて食べた時の感動は忘れられない。ルナティアただ一人のために作られた料理が、あれほどおいしいとは思わなかった。

 ―――もう、一年にもなる。

 手の込んだサンドイッチを黙々とほおばりながら、ルナティアは頭の隅でそう思った。いつまで彼はルナティアに料理を作ってくれるのだろう。いつか突然彼がいなくなったその時、昔の自分に戻れるだろうか。戻りやすいようにと、毎日せめて食器洗いぐらいはしたいと思うのに、青年はそれさえもさせてくれない。だからよけいに不安は募る。幸せで贅沢な毎日が終わる日を思うと。

 悩む性質ではないルナティアが悶々とそんなことを考えているとは露知らず、周りの団員たちは好き勝手に騒いでいた。

「大丈夫よ、アレク。一心不乱に食べてるってことはおいしい、ってことだから」

「違いねぇ。だが、ほんっとにルナ坊は見ていて気持ちのいい食べっぷりだよなぁ」

「人間の原動力は食事なんだって、思い知らされるわよね」

「そう言えば、ルナちゃんが来てからみんな食べるようになったよね。この前おばちゃんが、ついに運んでもらう食材を増やしたって言ってたし。あんたなんかあれでしょ、昔は体型気にしてほとんど食べなかったじゃん?」

「ルナ見てると全部あほらしくもなるわよ。……だってこれよ?」

 神妙な顔でうんうんと頷く女性団員たちに見守られながら、ルナティアは完食した。

 最後の一口を飲み込んで、優しい味だったな、と思う。文句なしにおいしかった。でもどこか青年の作る料理と違うのはなぜだろう。

「おいしかったです、ごちそうさまでした」

 少しの違和感を覚えながらも正直に言えば、アレクは心底嬉しそうに笑った。その裏表のない笑顔を見てふと思う。もし、ルナティアがトワのために料理を作ったら、彼は喜んでくれるだろうか。

 例えいつまでも続くものではないとしても、ルナティアは彼の作る料理で幸せをもらってきた。当たり前のようにそれを享受して、もう一年。ちょうど一年だ。そろそろ同じ幸せを返したい。……彼が去ってしまう前に。

 そして願うならば、と思う。彼はいつもルナティアが食べるのをにこにこと笑って見ている。そんな彼にずっと言いたかったことがあった。一緒に食べて欲しい、と。彼と一緒に食べれば、もっともっと料理はおいしくなる、そんな気がするのだ。

 彼にずっと言えなかった言葉を言ってみよう。これから先を思って不安になるよりも、今できることをする。当たり前のことではないか。

 ルナティアは空になったバスケットを見下ろした。アレクのサンドイッチで、何だかすっきりした気がした。ついでに、勇気をもらった気がした。

「ありがとうございます」

 心から言えば、アレクはトマトのように真っ赤になった。




 劇団フロスルードで人気の絶頂にあるルナティアが、実は下町の下宿に住んでいることを知る人間は少ない。入団してから頂点に登りつめるまで、団長には何度も引っ越しの打診をされていたが、ルナティアとしては年季が入って少しかび臭くなった現在の下宿が気に入っていた。昔フロスルードが安く買い取って改築したという現在の下宿には、意外にも防音まで施された立派な練習室がついている。練習室と台所があるならば、ルナティアは他がどれほど狭くても気にならなかった。アメリアに「出自が知れる」と言われたとおりに大層な生まれではないし、お金を多く払って豪華な下宿に移っても逆に居心地が悪いのでもったいない。

 ただ一つの問題は、劇場から下宿まで少なからず距離があるということだ。夜公演を終えてさらに少し練習をして帰宅となると、随分と夜も深まる。団長が心配するのもその点だが、下町の下宿は治安があまりよろしくないのだ。薄暗い物影も目に付くし、泥酔して見境のなくなっている男性や何やら怪しい商人に遭遇したことも間々ある。

 そういった光景はルナティアが物心つく前から見慣れたものであり、対処についても慣れたものだ。しかし、もう自分一人だけの身体ではないのだといつになく真剣な顔で団長に言われてからは、それとなく周りに注意して帰宅するようになっていた。

 ところがこの日、ルナティアは散漫になっていた。他でもない下宿で待っているだろう青年のことを考えていた。話をどう切り出そうか、もし話せたとして、彼はどんな反応をするだろうか。そんなことが頭の中にふわふわと漂ってばかりいた。空腹さえも忘れるほどに。

 そのせいで、ルナティアはつけられていることに気付かなかった。―――そして。一際薄暗く、人気の少ない路地に入った時、それは起こった。

 後方から足音を消して近付く影。その手に握られた刃は闇にきらめきながらルナティアを狙っていた。

「……っ」

 一瞬の出来事だった。寸前で身をよじって避けたルナティアは、通り過ぎた刃が間違いなく鳩尾を狙っていたことに戦慄した。

 鳩尾。人体の急所。骨に邪魔されずに貫通する。女でも狙いやすい。

 昔学んだことが細かく再生される。そしてはっとした。

 走った勢いのままに突き刺すつもりだったのだろう。その人物は、ルナティアが思いがけずに避けたことでよろめいていた。振り向きざまにルナティアは、刃渡りが長い果物ナイフが握られた華奢な手を掴んで捻り上げた。

 きゃぁ、という高い声と一緒に、痛みと力に耐えきれずにナイフが重い音を立てて落ちる。悲鳴でその人物が誰なのか確信したルナティアは、命を狙われた恐怖ではなく昼間の怒りが再び身の内にくすぶり出すのを感じた。

 ―――何をやっているのだろう、この人は。

「アメリアさん、本当に、いい加減にして下さいませんか」

 見下ろせば、痛みのせいで涙目になっている美少女がいた。失敗した悔しさのせいか、震えながらも彼女はルナティアを睨みつけた。

「お前のせいよ!お前さえいなければ!離しなさい!殺してあげるわ!」

 アメリアは力を込めて掴まれた手を振り払おうとするが、ルナティアの力の方が強かった。目の前で躍起になってばたばたしている彼女を見て、何だろうこの三文芝居は、なんてことを思う。

「殺す!殺してやるわ!」

「嫌です。それよりも何をやっているんですか、私を殺すよりも他にやることはたくさんあるでしょう」

 静かに言えば、今度はぽたりぽたりと涙を落とし始めた。ナイフを見て本当に息が止まるほど驚いたのに、犯人がこれでは気が抜けるというものだ。怒りを通りすぎたルナティアの感情は呆れになった。

「お前が……っ、お前がいなければ!お前のような貧民に!」

「出自については否定できません。でもその貧民が今フロスルードの頂点にいるんです。今日の昼間でお分かりになったでしょう。実力の差です」

「黙りなさい!お前がいなければ私がここの頂点だったのよ!死ねばいい、死ねばいいわ!出てきた時から邪魔だったのよ、貧民の癖して周りにちやほやされてっ……!このっ大食らいの……豚女!」

 貧民だの豚だのと、酷いことを言われているとは思った。だが昔はもっとずっと汚くて突き刺さるような言葉を言われたこともあるのだ。アメリアは必死で罵っているつもりなのだろうが、やはりいい所育ちのお嬢様だった。

「何度も言いますが、私が今ここにいるのは、実力です。アメリアさんが頂点になれなかったのは、あなたの実力が私に及ばなかっただけでしょう。本当にここの頂点に立ちたいのなら、こんなところで油を売っている暇があるんですか」

「黙りなさい!死ねばいいのよ、邪魔なんだから!」

「まだ言いますか。それなら私も言わせて頂きますが、私はいくら邪魔と言われようと死ぬ気はありません。……まだ、見たい景色があるんです」

 握っていた手を放したが、アメリアの手は涙の粒と一緒にそのままぱたりと落ちた。

「今、私は名実ともにフロスルードの頂点です。それでもまだ私にとっての最高ではありません。まだ上があることは分かっているんです。私はもっと上を目指したい。上の景色を見たい。でも、そこへ行くためにどこへ向かえばいいのか今の私には分からない」

 言葉が止まらなかった。自覚はしていなかったが確かに存在していたルナティアの迷いは、一本道の階段にいながら迷走しているアメリアが相手だからこそ、次々とあふれ出していた。

「今アメリアさんの上に私が立っていると言うのなら、私はアメリアさんが羨ましい。越えなければいけない壁がそこにあるんでしょう?私という壁があるんでしょう?目指す場所があるのが、私は羨ましいです。支部の頂点が来ると聞いて、私はずっと楽しみにしてました。私にとっての壁ができるんじゃないかと思って。それなのに、来たのは演じることも満足にできていないあなただったんです。本当に、残念でした。今、私の前には何もない。どこに向かって行けばいいのか、分からなくなる」

 歌い、踊り、演じる。必死でこなしてきて、ある日目の前が開けたと思ったら、道標も何もない場所だった。そこが頂点だというのなら、頂点というのは荒野だと思った。

「私は、まだ上に行きたい。そのためには、まだやらなければいけないことがたくさんある。アメリアさんもそうでしょう。馬鹿なことに力を注ぐ前に発声練習でもしたらどうですか」

 ルナティアがはっと気付けば、アメリアは顔を俯けていた。小さな嗚咽と一緒に依然としてぽたぽたと滴が地面に染みを作っているから、泣き止んではいないのだと分かる。下宿で青年が心配しているはずだし、早く帰りたかったが、このままこの場所に泣いているアメリアを放って帰るのも気が引けた。どうすればいいのだろう。困ってうろうろと視線をさまよわせた時だった。

「あーあ」

 聞きなれた声が頭上から聞こえた。第三者の声に驚いたアメリアも涙でぐちゃぐちゃの顔を上げる。

「俺の出番ないじゃん。何なの、ほんと」

 軽い音を立ててルナティアの横に着地した青年は、苛立ちを隠さない視線でアメリアを見た。

「小物のくせに、何の役にも立ちやしないんだから」

「なっ……誰が小物ですって!!」

 先程までのしおらしさはどこへやら、ばっと顔を上げたアメリアは真っ赤な瞳でトワを睨みつけた。だが彼は気にする様子もない。

「あんただよ、一年前の依頼者さん。一応あんたには感謝してたんだけどね、ルナと出会うきっかけになったんだから。まあでも今回のこれで帳消しでしょ」

 トワの言葉に気付いたのか、アメリアは目を見開いた。

「まさかあなた……あの役立たずの!」

「何とでも。それより俺、中間者に言ったはずなんだけどなー。依頼者のあんたには届いてなかったのかな?―――ルナを狙う者がいたら返り討ちにする、って」

 静かな、けれど強大な殺気がアメリアに向かう。どこから取り出したのか、青年の指の間には大きなサバイバルナイフが挟まれていた。アメリアの持っていた果物ナイフとは違い、それは完全に人を殺すための道具だった。アメリアの顔は明らかに青ざめた。

「お前、ルナがあの時避けなかったら、これの餌食になってたよ?」

 すっとナイフの刃を撫ぜて、トワはにぃ、と口の端を持ち上げた。

「俺としてはその方が良かったけど。残念」

「な、なによなによ!あなたのような役立たずに私が殺せるわけが……」

「ん?試したいの?喜んで」

「結構よ!」

 大声で叫ぶと、アメリアはいまだ真っ赤な目で、呆然と立ちつくしていたルナティアを睨みつけた。

「覚えてらっしゃい!」

 そして、なかなかの速さで路地を駆け去って行った。






 トワはその日、苛立っていた。

 ルナティアに付いた害虫(アメリア)を追い払った。ほぼ全てルナティアが自分で追い払ったようなものだが、もう手出しはしてこないまでにはできた。しかし、トワの苛立ちは収まらなかった。

 アメリアの捨て台詞の後、ぽかんとしていたルナティアの手をさりげなく握って彼女の下宿へ帰った。彼女は握り返してくれることこそなかったが、それでもトワの手を振りほどかなかった。それで少しだけ苛立ちは収まった。

 部屋にはもちろん、トワが作った夕食が湯気を立てていた。食べ始めるころにはとっくに気を持ち直していたルナティアが、いつも通り一生懸命に食べ始める姿を見た。……それでまた、苛立ちが大きくなった。

 非常事態だった。かわいい、好きだ、と思うのはいつものことだが、彼女が料理を食べる姿で苛立つことなんて今まで一度もなかったのに。

 原因は分かっていた。だから、トワは仕掛けることにした。

「ルナ、もしかしてあんまりお腹減ってないんじゃない?」

 一拍おいて、きょとんとルナティアはトワを見上げた。

「とても空腹ですが」

「そう?いつもよりも食べてない気がするんだけどなー」

 もちろん真っ赤な嘘だった。横目で確認すれば、何のことか分からないというように不思議そうにしている彼女がいる。だからもうひと押し、押した。

「ほら、お昼にいつもよりたくさん食べたとかさ」

 これならどうだ。これで知らないふりをしたり、嘘をついたりしたら、その時は……攫おう。そうしよう。本気で思った。

「お昼は……そうですね、今日はお昼ご飯の他に、お弁当を頂きました」

「へぇ?」

 残念半分、安心半分。

 知らず声が冷たくなったのか、ルナティアは一瞬何か言いたそうな顔をしたが、すぐに何かの決意をしたようで、かちゃりと持っていたフォークを置いた。それを見てトワはおや?と思った。ルナティアが食事を中断するなんて、この一年で見たことがない。

「アレクという、先輩が作って下さったサンドイッチだったんですが」

「へぇ」

 うん、知ってる。とは言えるはずがない。―――でも、君がその男の料理をどんな顔で受け取ってどんな顔で食べてどんな顔で礼を言ったのかも知っている。それが今の苛立ちの原因だとも知っている。

「おいしかったです。でも、それで、一つあなたに……いえ、トワさんに、言いたいことができたんです」

 自分の瞳が影を帯びるのに気付いたが、どうしようもなかった。何を言い出すのだろう、この子は。

「言いたいこと、というか、わがままなんですが」

 どす黒い感情が胸の内に広がっていく。ずっと願っていたルナティアのわがまま。だが、こんな形で言われるわがままとは一体何だ。考えたくもないことばかりが浮かぶ。あの男の料理の方が好きだとか?これからはあの男の料理を食べたいとか?想像しただけで、胸を引き裂かれるような気がした。今トワがいる場所にあの男が座る?「おいしかった」の言葉を、ルナティアの笑顔を全部あの男が?ああだめだ、そんなことは許せない。許せるはずがない。そんなことを言われたら、ルナティアを……ころして、しまいそうだ。

 そんなトワの心情など知るはずもなく、ルナティアはおずおずと口を開いた。

「明後日の休日は、私が自分で料理を作りたいんです」

「……どういうこと。俺の料理、嫌になったの?」

「とんでもないです!」

 ぶんぶんと首を振って、彼女は少し頬を赤くした。

「トワさんが料理を作って下さるようになって、もう一年です」

「うん」

「この一年で、私はトワさんから、たくさん幸せを頂きました」

「え」

 すごく馬鹿な顔をしていたと思う。だがその時のトワは耳を疑って、ルナティアをまじまじと見つめることでいっぱいだった。

「私は、その、両親もいなくて……誰かが私のためだけに作ってくれる料理というのに、ずっと憧れていました。それをトワさんが叶えて下さって……すごく、幸せだったんです。だから、だからトワさんがいなくなってしまう前に、同じ幸せを少しでも返したいと思って」

 必死で言い募るルナティアがかわいい。……ではなくて。

 トワは思わず顔を両手で覆った。しかしそれをするとルナティアの顔を見れなくなってしまうのに気付いて慌てて外した。おかげで崩れた顔をさらすことになったが、気にする余裕もなかった。―――ああ、どうしよう。もう、すでに幸せだ。ルナティアがそんなことを思ってくれていたなんて。

 もう一度脳内でルナティアの言葉を再生して、トワは聞き捨てならない言葉があったのに気付いた。

「ん?俺、いなくなるなんて言ったことあるっけ?」

「ない、ですけど……一年もいて下さったので、もうそろそろかな、と」

 一年で培った、ルナティア観察の実力はだてではない。トワはルナティアが寂しそうな表情をしたのに気付いた。それでまた、一気に喜びが襲ってきた。

 ルナティアはトワがいなくなることを恐れているのだ。そんな日など永遠に来るはずがないのに。

 もしかして、とトワは思い出した。最近食後の皿洗いが少し強情になったのもそれが原因なのかもしれない。トワがいなくなっても、辛くないように。

 たまらなくて、トワは素早く回り込むといすに座るルナティアを全身全霊で抱き締めた。そのしなやかな身体を、ふわりと香る彼女の匂いを存分に堪能する。体格のいい大の男に抱きつかれて、ぐふっと妙な声がしたが、構っていられなかった。

「かわいい!大好き!愛してる!俺がルナを離す日なんて、一生来ないから!」

「あ、ありがとうございます。それで、その……」

「うん、分かってる。俺も食べたい、ルナの手料理。幸せ、ちょうだい?」

 腕の中を覗き込めば嬉しそうに笑うルナティアがいて、トワはますます腕に力を込めた。

 苛立ちも黒い思いも全部霧散した。でもそれ以上に強く芽生えた感情があった。

 ―――本当にもう、離せない。

 ぎゅうぎゅうと抱き締める腕に抵抗して必死で顔を上げたルナティアは、再びためらいがちに口を開いた。

「トワさん。あの……もう一つ、わがままがありまして」

「何でも言って!何でも聞くから!」

「では、その……これからは、一緒に食べて欲しいんです。トワさんの料理はいつもおいしいですが、一緒に食べたらもっとおいしくなるような気がするので」

 わがままがいちいちかわいい。一生懸命言ってくる彼女に、いたずら心が芽生えても仕方がない。

 トワはあっさりと腕を離すと、あくまで爽やかに笑った。

「いいよ。じゃあ早速今日から一緒に食べようか。ちょっと分けてよ、ルナ」

「え?」

 食べかけの料理を見下ろして、ルナティアは困った顔をする。それでも覚悟を決めたのか、いすから立ち上がろうとした。ルナティアの中で空腹とトワの天秤が、トワに傾いた瞬間だった。

「スプーンとフォークを持ってきます」

「いいよ、ちょっとでいいから。食べさせて」

「いいんですか?」

「うん」

 いいもなにも最高だ、とはさすがに言えずに、トワは緩みそうな口を抑えて神妙な顔をして待った。彼女にとっては大きいのだろうひとかけらを、ルナティアは恐る恐る自分のフォークを使ってトワの口に入れた。じわりと口の中で広がる味をトワは噛みしめた。

「ん、おいしい。自分の料理なんておいしくないと思ってたけど、ルナが食べさせてくれるとおいしくなる」

 視線の先には微妙な顔をしているルナティアがいた。これは一緒に食べると言うのだろうか、きっとそんなことを考えているに違いない。深く考えさせる前にとトワは言った。

「これからは二人分作るから」

「はい」

 食事を再開したルナティアを正面に座ってにこにこと眺めながら、トワはこの一年を思った。

 気付かないところで、胃袋を掴む作戦は成功していたらしい。

 神様なんて信じてはいないが、もしいるのなら言ってやってもいい。この楽園をくれて、ありがとう。






 翌日、ルナティアは早朝の練習を終えて食堂で朝食を取っていた。彼女の頭の中は、明日トワに作る料理の予定でいっぱいだった。

 彼は何が好きなのだろう。嫌いなものはあるだろうか。

 ルナティアはたくさん食べる分、舌もそれなりに肥えていると自負している。だから料理も苦手ではなかった。自分がおいしいと思うものを作れば、なかなかのものができるのだ。トワが来るまでは、夕食もせっせと自分で作っていた。

 いつも通りたくさんの朝食を次々と口に運びながら、あれやこれやと考えていたルナティアは、突然隣からどすんという重い衝撃を受けて顔を上げた。横を見れば、ルナティアに負けず劣らず大量の料理を乗せたプレートを今まさに食べにかからんとするアメリアがいた。

「おはようございます、アメリアさん」

 昨日無事にあの場から帰ることができたのか、それとなく心配していたルナティアは、彼女の元気そうな姿を見て少し安心して、ちょっと笑って挨拶をした。それに鼻でふん、と息をすることで答えたアメリアは、勇ましくフォークを構えて料理と戦うようにして食べ始めた。しかし、ものの五分と経たないうちに苦しげな顔になっていった。

「アメリアさん、料理は無理して食べるものでは……」

「……黙りなさい!私は……あなたを、越えてやるんだから……っ」

 ―――食事でルナティアを超えるのは無理だろう。

 その場にいた団員たちの誰もがそう思ったが、実際に口に出す者はいなかった。

 勝敗の決まった食べ比べをしているようなルナティアとアメリアの近くには、今日も包みを抱えたアレクがいた。

 我慢できず、トワがやたらと凝った弁当をルナティアに持たせるようになるのは、そう遠くない話である。






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― 新着の感想 ―
[一言] 楽園という話も面白かったです。
[良い点] 素敵な作品に出会えました。 御馳走様です
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