第六話 世界
相変わらず川は遥か遠くまで緩やかに流れているし、小鳥たちは高いところで穏やかに囀りあっている。
ただその目を眼下へと向けると驚きのあまり飛び去ってしまうだろう。
人が集中した範囲の中に無造作に転がっている。川中の丸みのある石に抱きついているものや仰向けに伸びているもの。その姿に一つとして同じ物はない。彼らに共通しているのは必ず顔のどこかに痣があることと、病院へ行けば骨折を数箇所していることが判明するであろうこと位のものだ。
その中心にいるのが僕。
僕は大きく深呼吸をして息を整える。
「七分か。」
大きく息を吐き出すと、伸びている人たちの間を縫うように進んだ。
「チュー。」
「ああ、大丈夫。相手が弱かったからね。レベルEの雑魚みたいな。もうとっくにクリアした課題だっての。」
チュー吉は別に僕の安否を気遣ったわけではなかろう。それでも僕は初陣で高ぶる神経を落ち着かせるために自然とチュー吉に返事をする。
僕は地面と抱き合っている男たちの間を縫うように移動した。
腹の出た相撲取りのような男を飛び越え、細身でがりがりの後頭部を踏みつけると目的の人物がいた。
それは小競り合いを始める前に集団を代表して僕と交渉を行おうとしたリーダー格の男だった。
うつぶせになり、尻をつきだした格好は子供たちが見たら大爆笑間違いなしだろう。僕が近づいても男は気がつく気配も無かった。仕方なく木刀のさきっちょで後頭部を突付く。
気がつく気配がない。
仕方なく木刀で尻の辺りを軽く叩く。
気がつく気配が無い。
「仕方なく木刀を大上段から振り下ろすか。」
別に誰に言ったわけでもないのだが、その一言で男は目覚めの呪文を唱えられたかのように猛然と立ち上り、僕との間に逃げられない程度の間合いをとった。
「あ、気がついた。もう少し寝ていてくれれば快適な目覚めを演出してあげることができたのに。」
「おい、おい。勘弁してくれよ。素敵な死での旅を演出されちゃかなわないよ。気づいてたんだろ。」
「さぁ、なんのことだか。」
男がとっくに目を覚ましていて死んだふりをしていたことなんて、僕は全然しらない。
「なんだよ。言とくけどな、俺はびた一文ももってないからな。俺から銭ふんだくろうったてそうはいかねぇぞ。」
男は腕組みをし、子供のように幼い仕草でその場にふんぞり返る。じつにふてぶてしい男だ。
僕は笑顔を男に向け右手に握られた木刀を軽く動かした。この「軽く」というのはあくまで僕の意識であって、相手にそれがどう捉えるかについての責任は一切負えない。
「痛ぇ! テメェ、何しやがるんだ、この野郎。俺を一体誰だと、」
二発目。
「くそっ! 痛ぇじゃねぇか、このガキ。テメェ、覚えてろ、」
三発目。
「痛い。おい、何で殴るんだよ。頼むから辞めろって。」
もう少しかな。大上段からの四発目。
「くぅ。割れる。頭が。わ、分かったよ。悪かった。謝る。この通りだ。勘弁してくれ。」
うーん。もう一押し。
回転しながらの脇腹への五発目。
「いたっ! すまん。許してくれ、いや許してください。なっ。お願いしますよ、坊ちゃん。」
とうとう男は僕にすがりつき両手を組んで懇願してきた。その姿は当初の威厳など欠片もない。
思わず笑い出してしまいそうな衝動を堪え、僕はなんとか厳粛な表情を保ちながら男を見下ろす。すると男は一層かしこまってしまい、それがさらなる笑いのツボとなって僕を苦しめた。
「うむ。許そう。くれぐれも上下関係を忘れるなよ。」
「へへぇ。」
男がかしこまるのを見て僕はふと思った。今少しだけ兄貴やイコ爺の気持ちが理解できたと。
ロジャー・スピン。
またの名を戸無しのロッチ。職業は元泥棒。
彼の手に掛ればどんなに複雑な錠もまるで自分から開け放ったかのように一瞬のうちに開いてしまう。自ら白旗をあげたかのように一瞬でだ。
破られた貴族や富裕層の金庫は数知れず、どんなに警固な扉も彼にとっては自宅のドアを開けるのと同じようなものだった。被害総額は一億ゼルにものぼるとか。警察の第一種指名手配リストにものった超有名人だとか。
とかとか。
「そんなに有名なのにこんな山奥で山賊かよ。」
「へい、坊ちゃん。そうなんですよ。情けない話なんですが、その通りです。」
凄腕の泥棒は今では僕の横で腰を低くして揉み手をしながら追従している。
先へと続く小道はぐねぐねと蛇行し、連なる木々のカーテンにより行く末を確認することはできない。
うっそうと茂る森は相変わらず空からの太陽光を遮蔽している。それは僅かな清涼を肌へと与えてくれるが、それにしても暑い。日も大分傾いてきたので、もう少しすれば外気の温度も大分変わってくるはずだ。
僕は額の汗をぬぐうような仕草をしながら尋ねた。
「何で? 警察に追われてるから?」
「いえ、いえ。坊ちゃんにはまだ分からないかもしれませんけど、警察ほどちょろいものはありませんよ。あいつら相当縄張り意識が強いですからねぇ。ちょっと国境を越えると、面子やらプライドやらが邪魔してがんじがらめ。蜘蛛の糸に絡まった蝶のように動けなくなるんです。その間にあっしは逃げ続けると。間抜けな話でしょう。」
なるほどと感心してしまう。さすがに元経験者が語る話には含蓄がある。
「じゃあ、なんで隠れてんの? 逃げ続けてリッチな生活を送ればいいじゃん。」
あまり犯罪を推奨するのもどうかと思うが、取り合えず悪事の対象がお金持ちなので対した同情は買わない。こう言うとお金持ちの皆さんに石を投げられてしまいそうだが投げられてくる石も案外値打ちものだったりするのだろう。
「そこなんです。警察は大したことないんです。問題は同業者なんです。ここだけの話なんですけど、」
そういうとロジャーはまるで僕に悪事をもちかけるかのように声を潜めた。
「工場長に狙われちまってるんですよ。」
「工場長?」
なんじゃそりゃ?
僕が疑問を持って聞き返すとロッチは慌てて僕の口を押さえた。
「声が大きいですって。もしかして、坊ちゃん。『工場長』を知らないんですか。」
卵を産む猫を見たようなロジャーの驚きようにたいして、僕はきょとんとすることしかできなかった。
「いやー、驚いた。坊ちゃんの前でこういうのもなんですけどねぇ。坊ちゃんは世間について疎すぎですって。あっ、いやいや。けっして坊ちゃんのことを馬鹿にしているわけじゃありませんよ。ですから木刀の柄から手を離してくださいよ。」
ロジャーは僕が腰に差している木刀の柄に手を置く様を見て慌てて距離を置いた。なるべくさりげない動作に努めたつもりだが、どうやらロジャーは中々優れた観察眼をしているようだ。そこは元泥棒という設定が生きているのかもしれない。
「それで、『工場長』ってのは?」
「ええと。じゃあ多分、坊ちゃんは『リサイクリング・ファクトリ』って名詞も知らないでしょう。」
首を横に振る。なんだその地球に優しそうなエコロジー団体は。
「『リサイクリング・ファクトリ』ってのはあっしらの業界一位の盗賊集団のことです。それこそ『椎本総合商社』や『常夏の夢』が霞んでしまうほど突出した集団なんっすよ。本当に聞いたことないですか?」
気遣わしげに確認してくるロジャーに対して再び首を振る。
「『使われてない物は回収せよ』をモットーに動く少数精鋭でしてね。金持ちの屋敷の奥底には誰の目にも触れることのないお宝が数え切れないほどあるんですよ。それをやつらは回収して売りさばく。」
ありとあらゆる手段を使い盗み、奪う。
目的が全てで手段には無頓着と思えてしまうほど節操が無い。
爆破、誘拐、殺人。
「メンバーの数は不明。何処にいるかも不明。分かっていることは物を回収すると必ずその場所に苗木を一本置いて帰るそうで。」
やはりエコロジ精神にとんだ集団だ。
「それにしても奴らは強い。どうも全員が魔法使いらしいんですけど、この噂もさだかではありません。手口と団体名。それ以外は全くといほど謎に包まれた集団なんですよ。」
僕は魔法使いという言葉に眉を潜めた。
魔法使いという単語は南から来た言葉で、どうやら世間ではそちらの方が広く認知されているらしい。
注意しようと思って口を開いたが、寸での所で言葉を飲み込んだ。
イコ爺に言生を使うことは固く禁じられている。それならばいっそこの旅では僕が言生師であることは口にしないほうがあれこれ詮索されずにすむので無難なのではないだろうか。
何で言生が使えないのか? 師匠に禁止されているから。
師匠は誰か? よぼよぼのお爺さん。しかも竜。
という具合にイコ爺の名前があがるとそれだけ、その正体が竜であることをしゃべってしまうリスクが発生する。
君子危うきに近寄らず。よし僕は剣士だ。少なくともこの旅の間だけは。
「それで、その盗賊団とあんたがどう絡んでくるんだよ?」
「へい。そこなんですよ。『リサイクリング・ファクトリ』別名を『屑屋』とも言うんですけどね。そこのトップをやつらは『工場長』という俗称で呼ぶそうです。」
「はあ、はあ、なるほど。それで工場長に狙われてる。つまりそのリサイクなんとやらに追われてると。でもどうしてそいつらにロッチが追われてるわけ?。」
「そこなんですよ。あっしもあっしなりに情報筋は持っているんですが、いくら調べてもいまいち要領を得ないんですよね。どうもあっしの筋の情報によるとあっしの息子に用があるみたいなんですけど、何故なのかはさっぱり。」
「へぇ。ロッチ、子供いるんだ。」
「へい、馬鹿なガキですけど一人います。ですから警察は怖くないんです。ただ同業者となるともうこれはお手上げでして、はい。何せ、業界最大手の組織ですから。その情報網は半端じゃない。自慢じゃないですけどねぇ、あっしは痛いのに弱いんですよ。注射ですら震え上がっちまう。もしまかり間違って捕まっちまって拷問でも受けたら、倅の居場所を間違いなく吐いちまう。だからほとぼりの冷めるまで、こうした片田舎で山賊業をしながら細々と暮らしている次第です。」
「難儀な話だな。」
ロジャーは相槌を打つかのように「全くで」と答えた。
「でも俺にそんなこと話しちゃっていいの?」
意地悪い一言でロジャーの顔ははっとなり、ついで見る見る青くなった。その様子が余りにも可哀想で逆に笑えた。どうやら根は悪い奴じゃないようだ。
「いえ、それは。はぁ。」
ロジャーは何かを諦めたかのように大きく息を吐き出した。
「これは坊ちゃんとあっしだけの秘密ってことでお願いできますか。坊ちゃんの人柄を信頼してのことです。」
真面目な顔をして懇願するロジャーに僕は快く頭を上下する。
「助かります。いえ、普段でしたら、あっしは背中を鉈で割られて鉛を流し込まれても口を割らないほど口の堅い人間なんです。」
さっきほどの発言と食い違いがあるが、ここはあえて突っ込むまい。
「ですが山賊に見を落として一年。さすがに色々とストレスが溜まっていまして。誰かに聞いて欲しいという願望が心のどこかにあったのかもしれません。でも手下に話す訳にもいかず、いっそどこぞの木の下に穴でもほって、そこに向かって大声で叫んでやろうかとすら考えていた所です。」
「はは、王様の耳はなんとやらだね。子供はどこにいるの?」
「すいません、坊ちゃん。世界で一番安全な施設に預けているとしか。年は坊ちゃんより大分下だと思いますよ。」
ロジャーはそれだけはと言うように片手を体の前に垂直にあげる。あまりに申し訳なさそうにしていたので、それ以上の追及はしなかった。
ロジャーには道案内を頼んでいた。イコ爺が書いた地図ではやはりその目的地は分かりそうも無く少し困っていたのだが、そこに山賊が襲ってきてくれたのだから、これは天啓というほかに説明のしようがない。
山賊なのだからこの辺の地理には詳しいはずだと考え、そして僕の推理は見事に的中し、見逃してやる代わりに地図の目的地と町までの間の道案内を要求したのだ。
嘘をつかせないためには相手に恐怖を植え付けるのが手っ取り早い手段だ。だから執拗にロジャーを木刀で小突いたのだが、これは案外癖になりそうだった。
最初は他所他所しかったロジャーも二時間も歩いたころにはいい話相手となっていた。
そしてその会話から如何に自分が世界を知らないかを痛感した。
どうやら世界は自分が考えていたよりもずっと広いらしい。イコ爺の山から見えていた景色が全てだった僕にとってそれは新鮮だった。
山を超えたら町がある。では町を越えたら何があるのだろうか。果てしなく先へとすすんだら一体最後には何があるのだろうか。
それは今から確かめればいい。
自分の時間の全てをかけて。
「ああ、坊ちゃん。あそこですよ。」
ロジャーが指差す先から白い煙が立ち昇っていた。
お世辞にも大きとは言えない丸太小屋。こちらから見える小屋の二面は腕ほどの丸太が綺麗に並ふ。壁の縦と横の中ほどには窓があり、窓枠にとりつけられている引き戸がつっかえ棒により開いていた。小屋の横には薪がうずたかく積まれている。三角形をした屋根は板張りで、頼りなさそうな煙突が一本立っている。
その横にはさらに小さな小屋があり、こちらは小屋というより石造りの釜戸のように、ブロック石の積み重ねでできているようだ。
沈みかける斜光が小屋の壁面を赤く染め、目に映る景色をそのまま写真に収めればさぞ温かい絵ができることだろう。道は小屋の手前で途切れ、小屋の半径十メートルほどは木が一本もなく、背の低い雑草が生えている。
ポートンにある自分の小屋を思い出す。目の前の小屋は僕の住んでいたそれより若干大きいようだ。周辺が牧草地帯でなくうっそうと生い茂る木々に囲まれている点は大きな違いだが。
二人して小屋の入り口へと回りこむ。
小屋には無駄な装飾は一切ない。扉も簡素なもので、縦の木目が均等に線を引いている。ドアノブなどは無く、扉の中ほどに無造作にコの字をした金具がついていた。その金具もすでに大分さび付いている。
僕はここに来てようやく考える。一体どのような人物が住んでいるのかと。旅の道中はロジャーとの世間話に夢中でこれからどんなイベントが待ち受け散るのか全くといっていいほど考えをめぐらしていなかった。それだけロジャーの話してくれた僕の知らない世界の話は魅力的だったのだ。
イコ爺は確か御褒美があると言っていた。言っていたのに荷物は持たせるわ、寄り道はさせるわで全くもって意味不明だ。意味不明なのは今に始まったことじゃないのだが、少しは予想を張り巡らして難事を回避したいものだ。
それが経験上不可能なことが他でもない僕がよく知っているのだが。
腰が少し引けたが残されている選択肢はそれほどない。木目の粗い扉へと自分の握り拳を近づけ扉を叩く。緊張の一瞬だ。
「ごめん下さい。」
しばらく待っても返事が無いのでもう一度一連の動作を繰り返した。
「よく分からないですけど、留守なんですかね。」
それは困る。背中に在る荷物は確かにここに届けなくてはならない。重さはそれほど気にならないし、担ぐのに体力的には問題ないが、背負う紐が両肩に食い込んで不快このうえなかった。
あ、そうか。降ろせばいいのか。
ずっと荷物を背負っていたので思考が盲目的になっていたようだ。そんな単純なことに気がつかなかった自分が少し恥ずかしくなり、腰の背骨の辺りに蟲がうごめくようなこそばゆい感覚を覚える。
ちょうど荷物を降ろそうとした時、金きり声を上げながらドアが開いた。
勢いよく。
しかもこちらに向かって。
避けようとする自分と、もう避けられないと悟り諦める自分との間の刹那の葛藤が行動を縛りつけた。するとドアは案の定僕の額に見事に命中したわけで、ちかちかとしたものが瞼の裏に浮ぶ。
「何だ。誰だ、お前たち。」
見ると小柄な老人がいるではないか。ややしゃべり方に南方なまりが在る。
男はでっぷりとした腹とがっちりとした筋肉を纏った二の腕が見事なコントラストをなしている。長いズボンは足首できゅっと締められ、上に着ているのは肩がむき出しの下着のようなシャツだ。よくよくみると老人というには語弊があるかもしれない。だが中年というには余りにも年を食いすぎている。
ようするにどちらに分類していいか迷うような年頃ということだ。
すると今度は予告も無く脳天に衝撃が加わり、たまらず頭部を両手で押さえた。持っていた荷物が大きな音と共に地面へと落下する。
「お前、今失礼なことを考えてただろう。」
壮年の男はどうやら並外れた観察力を保有しているらしい。図星だけどそれだけのことで僕は殴られたのだろうか。
それは脳天を襲う焼けたような痛みを納得させる理由としては弱すぎる。
目の前の人物はじっとりと僕の顔と横に居るロジャーの顔を見ると、
「それにしても人がくるとは珍しい。用件は? 用件を言ってとっとと帰れ。」
壮年の人物は眉間に皺をよせ、口を開くのが億劫なのかちょぼちょぼとしゃべる。どうやら遊んでいる子供を怒鳴り散らして退散させてしまうようなタイプの頑固オヤジらしい。
「あの、イコ爺さんのお使いでここまで来ました。」
ささっと用件を済ませるべきと感じた僕は、さっさとイコ爺から言われた通りの台詞をそのまま口にする。というよりもそれしか口にすることができなかったと表現したほうが正しい。
だがイコ爺の名前を聞いた途端壮年の興味の度合いががらりと変化した。
「イコ爺? あの爺さん、まだ生きていたのか。さっさと死ねばいいものを。ということは何か。お前はもしかして。アドラ・バティックかい。いや、まさか。そんなはずは無い。あの爺さんがベタ褒めした奴がこんなひょろひょろしたガキだなんて。いや、でも。おい小僧。」
「はいっ!」
老人の迫力に思わず小学生のように元気よく返事をしてしまった。そんな自分にまたもや背中で蟲がうごめく。
「その荷物。あけてみろ。」
やや戸惑いながらも指示された通りに荷物へと向かい合う。荷物は一番上の一箇所で包むように紐で結ばれている。その固結びを解こうと懸命に努力するが、焦れば焦るほど指先は動かない。
ひぐらしの鳴く声がした。誰も何もしゃべろうとしないので、その高くけたたましい「かなかな」という音がやけに耳についた。それは一瞬懐かしい気持ちを換気したが、すぐに現実が僕をあせりと緊張の海へとひきづりこんだ。
そんな様子を見て老人は小屋の奥へと姿を消す。
それを不振に思う間もなく、男はすぐに戻ってきて、先ほど違いその手には刀があった。
「どけ、小僧。」
言われるがままに半歩下がった。
この言葉に反応していなかったらどんな目にあっていたのだろうか。老人の肘から先が動いたと思ったら目の前を線が通過する。いや認識できたのはその残影だったらしく、老人の刀はすでに鞘から抜き放たれ振り下ろされた後だった。
竜の卵でも入ってそうな大きな荷物の結び目はすでに切れていた。狙い済ましたかのように荷の他の場所には傷一つ無く、切られた紐の先は刃物のように鋭い。
紐をはずす。すると風を受けて荷を包んでいた白い布が四方へとふわりと解けた。畳み二枚分ほどの大きさの布。その中心には布よりさらに白い湾曲した岩のようなものがあった。表面は滑らかで真珠を思わせる光沢は単純に綺麗だと思った。
甘い香りがしたような気がしたがこれは気のせいだろう。
「やはりか。」
何がなんだか分からない僕とは光年も懸け離れた所で老人は明らかに落胆している。その原因が何かは皆目検討もつかない。
「お爺さん、これ何?」
「爺さんなんて呼ぶな。まだそれほど年を食っとらん。呼ぶならコウギと呼べ。敬称はいらん。それより、お前がアドラ・バティックで間違いないな。そっちのあんちゃんは? 違うだろう。少しはやるようだが、爺さんの話と年齢が合わない。」
「私は坊ちゃんのつれですよ。道案内です。」
「そうか。じゃあ、もうしゃべるな。必要ない。黙って見てろ。それができないなら帰れ。よしアドラ。こっちに来い。」
そう言うと、やたらと自己中心的なコウギはどこぞへとすたすた歩いていく。上に着ている白いシャツの背中には、汗がシミを作っていてまだらな模様を形成していた。
確かに今日はまた一段と暑かった。それも日が傾くにつれ、そろそろと夏日の一服の気配を感じることができる。
「おい、おい。大雑把な爺さんだなぁ。荷物はいいのかよ。」
その心配をする必要はないらしく、コウギは数歩歩いて止まった。そこは小屋の前にある小さなスペースの真ん中だった。背後、数歩先には森の境があり、小屋と森と僕たちがやってきた道で境界が認識できる空間を形成していた。
「そこで止まれ。」
コウギの元へと近寄る途中でコウギは片手をあげ、互いに四歩ほどの距離で僕を制止した。
「よし、かかってこい。」
コウギは額の汗を拭うことも無く僕へと言い放つ。その意味を考えあぐねてると、
「どうした、かかってこい。その木刀を使ってもかまわないぞ。」
まったく動く気配を見せない僕に、コウギは理解のたりない子供に説明するように呆れたように口を開く。その手には先ほど荷物を解くのに利用した刀も無く、無手だった。見ると刀は荷物をくるんでいた布の上に棒切れように無造作に転がっている。
かかってこいとコウギは言った。そのままの意味ととっていいのだろうか。
躊躇しながら僕が半歩出た瞬間、
視界が反転する。
体が一瞬軽くなり、それを帳消しにするような大きな重力が僕の全身へとかかった。なすがままに脊髄から地面へと落下する。あまりにも急な出来事に顔に添えられたコウギの手の平にさえ気がつかなかった。
もんどりうち、すぐに立ち上がらなければという思いに反してその場でぐるぐると転がりまわった。背骨を突き抜ける痛みが僕を正常な行動から遠ざけ、降り注ぐ日差しの熱だけはやけにはっきりと感じることができた。時間が経つごとに痛みが遠のいていくと、ようやくふらふらしながら立ち上がる。
「ろ、ロッチ。」
「はい。」
ロジャーは被害の及ばない遠間から僕とコウギの様子を伺っていた。その姿に少し腹を立てつつも、これが逆切れの類に入る感情に相違ないので表面には浮かび上がらせない。
「俺、どうなった。」
「それは、そうですね。坊ちゃんが動こうとして、瞬きをする間にコウギさんが間合いを詰めていました。それから坊ちゃんの顔に自分の手を沿えて、坊ちゃんの体が顔を中心に回転したんですよ。羽の様にふわっと浮いたかと思うと、地面へと落下していました。」
やはり元泥棒だけあって目は良いようだ。先ほどの攻防を如何なく伝えてくれたロジャーに僕は感謝した。
「馬鹿だなお前。まさかわしが年上だから遠慮したのか。それとも見た目が弱そうだから手を抜いたのか。子供が遠慮するのは飯の時と風呂の時で十分だって教わらなかったかい?」
「だれに?」
「もちろん、イコの爺さんにだよ。もう分かっただろう。お前はわしよりも格下。だから鍛えてやろうってんじゃないか。さぁ、休んでる暇はないぞ。かかってこい。」
意味が分からなかったしこの展開は僕にとって予想の範疇外だ。さすがイコ爺の知り合い。色んな意味で思考のディレクトリがぶっ飛んでいる。
頭は朦朧としていたが、コウギの声に突き動かされ僕の足は前へと踏み込まれていた。
そして夕闇が迫り降りてきた