第十九話 決勝
「エブリ、バディィィィィ! のってるかぁぁぁ! さあいよいよ決勝戦の始まりだぁぁぁぁぁ! それでは待ちきれない、お前たちのために決勝へと駒を進めた二人の選手を紹介しよう。電光石火で脳髄を一閃。その強さを遺憾なく発揮してきた今まではさながら前哨戦。さぁ、紹介しよう。雷のごとき獣となれぇぇぇぇ! メアァァァァァァァァ、ノットォォォォォォォォォ!」
歓声と歓呼が大地を揺るがすと、紹介されたメアはにこやかに手を上げた。
メア・ノット。
今大会、全ての対戦相手に費やした時間を合計しても十秒にもみたないだろう。全ての試合を雷光のひらめきのように一瞬で終わらせ、全く無傷で僕の目の前にいる。
格好は大体いつもと同じような感じだが、白のタンクトップには大きな文字で「夏」と印字されており、文字は黒い線で雲のように覆われている。髪型はオールバック。がちがちに固められた髪からは相当に気合が伝わってくる。
「対するは、ここまで一戦を除き、全ての試合を清涼と勝ち上がり、とうとう腰に下げた業物は抜かれなかったぁぁ。剣術のプロフェッショナルにして殺さずのジェントルメン。アドラァァァァァ、バティックゥゥゥゥゥゥゥゥ!」
空気を伝わる歓声が一気に僕の元へと集中したような気がした。全身の血液を蒸発してしまいそうなほど体が熱くなる。
暴れそうな激情の手綱をかろうじて手放さないようにしながら、周囲へと適当に手をふると「大衆宿、大衆食堂『憩いの森』。アドラ・バティックが宿泊した伝説の宿」という安物ツアーの宣伝のような横断幕が目に付いた。闘技場二階席の淵に張られた黒と白の横断膜の上には知った顔がいくつもある。
いつの間にか僕は伝説になってしまったらしい。祭り上げられるのはいいとして、マージンはきっちりと請求したいものだ。
「おいおい。えらい人気だな。うらやましいぜぃアドラちゃんよう。朝には紅顔ありて夕べには白骨となるってな。お互い死なない程度にベストをつくそうぜ。ただ俺は手加減ができないから、アドラちゃんはブチ死んじまうかもけどな。けけけっ」
「よくしゃべるな」
メアの声は猛烈に響く観衆の声をものともせず、僕の耳へと届いた。
「いやいや。興奮してんのよ。それより、今朝のあれは何? アドラちゃんここに来る時に昨日の姉ちゃんをおぶってたじゃない。なに、なに。もしかして二人はもう結ばれちゃったのかな? だとしたら残念だねぇい。俺もちっとばかしあの姉ちゃんを狙ってたのに、」
「違う!」
自分でも驚いてしまうほど大きな声が口をついた。
「違うって。それは大きな誤解だメア。ただの事故だよ。不幸な事故ってのは重なるもんだろ」
まさかメアに見られてるとは思わなかった。
腹のあたりからゴワゴワとした恥ずかしさがこみ上げてくる。周囲の熱気もあって冷静さが急速に遠ざかる。
「また、またぁ。アドラちゃんはそんな見え透いた嘘を。いい雰囲気だったじゃないの。互いに口を開くこともなく、周囲の目を気にすることもなく。あの子のお腹と僕の背中は一つになり。そこは二人だけの絶対領域だったってか。けけけっいい官能小説になりそうだぜぃ」
「勝手に小説家にでもなってろ。それにちゃんづけは辞めろ」
「じゃあ、なんとお呼びすればよろしい? アドちー。アドらっきょ。@。あっ君。呼び捨てってのは気まずいじゃん。俺のことはメアでいいけど。二文字ってあだ名にしにくいんだよな」
「ああ、うるさい。アッ君だけは辞めろ。それを口にしていいのは一人だけだ」
アザミお姉ちゃん、僕をこのくるくるぱーからお救い下さい。
祈って見たものの、想いがアザミの所へと届くことは永遠にない。今頃アザミは額に汗しながら、灼熱の炎と鉄に真剣な表情で向き合っているに違いない。
では、
僕も向き合うとしよう。
自分の置かれた立場に。
自分の置かれた現実に。
「呼ぶならアドでいいよ。お前も二文字。俺も二文字。フェアだろ」
不遜に言うと、メアは「けけけ」と笑い、
「いいねぇ。アド、最高だぜ。そんなアドにささやかなプレゼントをやるよ。医務室で寝てるんだろ、アドの彼女。だったら俺がアドをちょいちょいとぼこぼこにして、横に仲良く並べてやるよ。どうだい、俺は優しいだろう。気にいった奴には優しいんだよ、俺」
「だから、そんなんじゃないって」
「でも餓鬼ができても、おらぁ責任とれないからな。そのへんは自己責任だ」
「無視するな!」
メアはさらりととんでもなく飛躍した妄想を口にする。
これが心理的な前哨戦を目的としているのならばたいしたものだと感心するが、メアはただ純粋に僕をからかっているようだった。
「ああ、もういいよ。そろそろ始めよう。お前と話していると疲れる。大体もう開始の合図がとっくに鳴ってるのに俺たちがここでぺちゃくちゃと世間話をするのも無いだろう」
「ええ? 俺はもっとアドと話したいんでけどな。そっか。じゃあ、アド、」
言いながらメアは僅かに前へとにじり出る。
「おやすみ。最高に悪い夢を君に。悪夢を君の枕元に。俺はメア。ナイトメアの宅配人」
メアとの距離は四メートルほど。僕は静かに自分の腰にある長差しを抜き放つ。
目の前に構えた鈍い銀白色は奇しくも僕に悪い夢を連想させた。
メアが飛び出した。
いつもならそれは自分がとっていた行動なのだが、さすがに今日は勝手が違う。電光石火のメア。今大会でついたその通り名は伊達ではなく、メアの速度は踏み出した一歩で僕の認識の限界を凌駕し、次の一歩で視界から完全に消失した。
意識できるのはかろうじて、メアの一秒前のほどの位置に残る残像だけ。つまり僕は一秒後のメアの行動を予測しなければいけない。
一発目。
メアは馬鹿正直に前から攻めてくる。
僕はそれをかろうじて交わす。コウギの見せた足裁きを思い出しながらかわす。
とにかく冷静にならなければ。そして見極め、かわしつづけるのだ。そうすればいつか必ずチャンスは訪れるとイコ爺に何度も教えられてきた。
そこに居たかと思うと、こっちにいる。こっちにいたかと思うとあっちにいる。そしてあっちにいたかと思うとそこいいた。
メアは肉弾戦を仕掛けてくるのだが、その拳はまさしく凶器で、肉体をこそぎとられるような一撃が体を掠める度に、冷や汗がだらだらと背中を流れ落ちる。
博打のような避け方をあいかわらず続ける。続けざるを得ない。
メアの攻撃を避ける時には、相手の次の三手ほど先までの行動を予測しないと到底処理能力が追いつかない。
それでも自分の高度な知能に基づく予測は割りと正確らしい。次の右横からくるであろう攻撃に合わせて斬撃をくりだす。もちろん手加減など一切せず、それこそ相手の腕を切り落とすつもりでだ。
一歩飛びのき、いまいた場所へと大きく竜刀を振り下ろした。
すると刀の刃の上部に感触が残り、手ごたえとなって伝わってきた。
「おっと、やべっ!」
切り落としたと思った。それがメアの右腕か左腕かは分からないが、先ごろ獲得した感覚は確実に手ごたえとして認識できた。しかしメアは超人的な反射神経をもってその一撃を斬撃の方向とスピードに合わせて受け流す。
その驚異的な身体能力はは目の前で実践されなければ、にわかには信じられなかっただろう。
それでも動揺している暇はなかい。次の一撃は恐らく正面からくる。刀を受け流すために腕を中心に体を一回転したメアは、地面に逆立ちした格好のまま、脳天めがけて両足をふり下ろしてくるはずだ。
少なくとも僕がメアならばそうする。
僕は無駄の無い動作で体を命一杯そらしながら右へと半身の姿勢になり、体の中心ラインから自らの体をどかす。
間髪いれずに何かが鼻の先をかすめ風圧が前髪を揺らした。それがなんなのかは分からなかったが、僕の予測が正しければ、それはメアが逆立ちの体勢のまま振り下ろしてきた左右いずれかの足のはずだ。
チャンスだ。右斜め前にはメアの体があり、姿勢はこれ以上ないほど崩れている。
僕は下にだらりと持っていた刀を一気に斜めへと切り上げた。それは威力よりスピードを意識した一撃。全身の力を抜き、体にある全ての関節を柔らかく保ちながら力を余すことなくスピードへと転化する。
速さの乗った一撃はメアの体を捕らえた。
はずだった。
もうそこにメアは居ない。メアは僕とは距離をとり数歩離れた場所にたたずんでいる。試合が始まる前と全く、まるで時間が一秒たりとも経過していないかのように静かで、憎たらしく、余裕の笑みを浮かべていた。
それは無い。反則だ。体中に宿る全ての自信を乗せた一撃はいとも簡単にかわされてしまった。
「おい、おい。ひでぇなぁ。アドは俺を本気で殺そうとしてるよ」
つぶやいた内容とは裏腹にメアの表情は試合開始前からなんら変わってない。常に世界を小ばかにでもしているような微笑と天地が崩壊しても揺るぎそうに無い自信。
対する僕はというと、すでに肩で息を切らし、汗だくの背中にはシャツがはりつき気持ち悪かった。その瞬間なんとなしにシャワーを浴びたいと思った。
体力が削られたため試合に対する集中力も徐々に削がれはじめている。
僕とメアではあまりに互いの状況が違いすぎた。メアは全て赤のルーレットで賭けをしているようなもので、ゲームをすることによってメアにはなんら危険は無い。対照的に僕の遊んでいるルーレットは全てのマス目が色違いで、当る確立も低ければ倍率も雀の涙ときた。
これではまったくアンフェアな勝負だ。
だが不思議と両手で握り構える刀を下ろそうとは思わなかった。
極限までの集中は短い時間の中で体力と精神力を存分にこそぎ落としていた。でもリタイヤしようとは思わなかった。むしろ楽しかった。
何故だろうと自分へと問いかけるも答えは何処にも見当たらない。自分がそこそこ戦えているからか。それとも世界の広さに心が躍っているのだろうか。
「さてと、もうそろそろ飽きたし。決めるか。」
メアの一言を聞いて体に緊張が走る。髪の毛の生え際からこめかみにかけて一筋の汗が流れた。
来るか。
そう思ったときだった。
パシという音と共にメアが、
消えた。
消えた?
一体どこに。
それは先ほどまでとは全く話が違う。残像すら残っていない。完全に消えたのだ。後に残ったのはメアが先ほどまで居た足元に舞い上がるわずかな砂埃のみ。
そんな馬鹿な。人が消える訳がない。しかもメアは言生師ではないのだ。それは単なる目くらましなどではなく、単純に目の能力の限界を上回るスピードでメアが動いたということか。
メアは今まで手加減していたのか。
「ぴんぽーん」
背後から声がした。ふりむ、
斧で叩き割るような衝撃が脊椎を抉り、それが落雷となって全身に達する前に視界へと闇が舞い降りる。
「おやすみ。君に悪夢があらんことを」
黒くなり、白くなる。耳を塞ぎたくなるほどの声援がどこか遠くへと吸い込まれると、そこで僕の意識は完全に途切れてしまった。
「いいこと? 今から私は寝るけど、優勝したら必ず私の所に報告にくるのよ。分かった?」
僕は辟易とする。
「優勝以外の結果は聞きたくない。私を倒したんだから優勝して当然。」
「どうして俺が? お前に?」
この問いに美帆は僕を可哀想な子を見るような視線を向けてきた。
「どうしてって、決まってるじゃない。もうあなたと私は他人じゃないの。知り合いでもない」
「じゃあ、なんだよ」
聞かれて少女は半瞬悩む。目は少し揺れているようにも見えたが、単なる寝不足なだけなのかもしれない。
「そうね。と、友達かな。そうよ! そうだわ! あんたを私の友達として認定してあげるわ。だから勝ちなさい。メアなんてあんたなら一ころよ」
あっさりと決め付ける美帆に僕はやや呆れた。だが美帆の口調は有無を言わせぬ響きを有していて、それを否定するのは億劫だった。
分かった? 必ず報告に戻ってくるのよ。私をほったらかしたらただじゃおかないからね。
どれほどの時間かは定かではない。しかしその後も闇の中に響き渡る声は、ぐるぐると僕の周囲を回りつづけていた。
「クリィィィィィィィィィィィィン、ヒットォォォォォォォォォ! アドラ選手ダウン。まさしく目にも留まらぬそのスピードで、いつの間にかアドラ選手は倒れていたぁ」
リング上の審判が周囲の声援に負けない大きさの声でカウントをとり始める。
メアはゆっくりとその倒れるアドラに背を向ける。
メアの手には未だにアドラへの一撃の感触が残っていた。頚椎の第二と第三間接の間を綺麗に打ち抜いた感触がある。少し違和感を感じたが関係ない。それだけの威力をメアは自らの手刀に加えていた。
まったく退屈な大会だとメアは思った。どいつも、こいつも弱すぎるのだ。
剣士も魔法使いもメアにとっては赤子も同然だった。なのに師匠は何故こんな大会に自分を出場させたのかとメアは何度も首を捻ってきた。
半分は分かりきったことなのだが。メアの師匠の経営する道場は小さなもので、門下生も約三十名ほど。門下生は主に体術を中心に稽古を積んでいる。そして師匠はまったくと言っていいほど弟子から月謝を集めないのだ。
それでどうやって道場の経営がなりたつのか常人ならば疑問を抱いて然るべきなのだが、師匠は弟子の実力を吟味したうえで地方の格闘大会へ送り出し、そこで稼いだ賞金を持って日々の生計をたてていた。
何を隠そうメアも今まで様々な大会に出張をかさねてきた身だった。それは大会ともいえぬほど小さなものばかりだが、そのどれもで当然のようにメアは優勝をかっさらってきたのだ。
だがこの大会に関してだけはメアには拭いきれない疑問があった。
煙の無い所に火はたたない。
燻る疑問の根源はニュークオウで開催されている大会の日程に大きなウェイトがあり、師匠は自分に対して大会開催の僅か四日前に突然この大会に出ろと言い渡したのだ。
師匠はこのような大きな大会への参加は総じて避ける傾向にあるのでなおさら不思議だ。
まぁ、どうでもいいことなのだが。
優勝できたわけだし、当面の食費に困ることはないだろう。道場へ帰れば腹をすかせた門下生が雛の如く口をあけてメアの帰りを待っている。
突然ざわめく観衆の声を両断するかのように鋭い声が切り裂いた。
「こらぁぁぁ! アドラぁぁぁぁぁ! 立てぇぇぇぇぇぇぇ! この腰抜けぇぇぇぇ!」
万人の歓声を圧倒するような大声は一人の少女からなされている。
それは昨日メアの楽しみを邪魔してくれた少女だった。その罵声とも声援ともとれる叫び声を羞じること無く観客席の一番前から存分に発揮している。
「なるほど。愛は強しってな」
メアは当人たちが全力で否定するような事実の結びつけをした。これでまたアドラをいじくるネタが一つ増えたとメアは内心ほくそえむ。
もっとも後ろで地面とキスしながら寝ているアドラと自分のとの間に一体どれほどの縁があるかは推し量ることもできないのだが、メアはさよならする前にせいぜい意地悪するつもりでいた。
相変わらず美帆は大声を張り上げている。立て、とか負けるなとか。だが勝負は根性で勝てるほど甘くない。歴然とした実力差の前にはそのような精神論は通用しないのだ。
まったく無駄なことを。
必死に声を絞る少女を見ながらメアはため息をつく。これではまるで自分が悪者のようだ。
その時。
メアが腕組みをしながら早くカウントが終わらないかと思っていたその時、
カウントが八まで進んでいたその時、
メアは異変に気がついた。
体が動かない。
足を動かそうとすれば足は動かず、腕組みを解こうとすれば腕は動かず。
口は動くし、首も動く。だがそれより下はパラフィンで隙間無く固められたようにまったく動かない。
「はっ。なんだこれ。ふざけ、」
言い終える前に背中に圧力を感じた。
メアは全身の神経が敏感なのでそれが手の平であることは理解できた。首を命一杯背後へと動かす。
すると急に圧力は大きくなり、訳も分からぬうちにメアの視界がぐるぐると回転する。
それに伴い体も存分に回転する。
「あ、やべ」と思った時にはすでにメアの体は七メートルも先にある闘技場の外壁へとぶつかり、壁は粉々に粉砕されていた。
舞い上がる細かい粒子が視線の先を見えなくしている。
もっとも端から視界は朦朧としているので、例え砂埃の煙幕がなかろうとその先を確認できることはないのだが。それだけメアから受けた一撃のダメージは深刻で脳を初めとする器官に様々な影響を色濃く残していた。
首の付根へと手を当てる。
「くそっ!」
苦いものを含んだように忌々しく言葉を吐き出す。
「使っちまった」
言生を。
それもこの試合で二回もだ。始まる前に一回、始まってから一回。
手を当てた背後の首の付根からは弱い力を感じることができる。それは目を瞑って瞼に太陽の光を受けているように僅かな感触だった。
言生の防壁。
メアの試合を決めるパターンが相手の背後に回って頚椎に一撃、というのはすでに十二分に理解していた。だから美帆に優勝をせっつかれた後、トイレに駆け込み念のために防壁を張っておいたのだ。
それが見事に効を奏したらしい。
僕は何故か勝ちたいと思っていた。
強く、強く思ってしまった。少女に優勝を命じられ期待された時、自分でも不思議な位勝利に対する貪欲な執着心が生まれていた。それが何故なのかは分からない。
どうせ負けるなら言生を使ってしまえ、と思ったのだろう。そうに違いない。
だが本当に危なかったことは事実だ。防壁を張ってなお意識を一瞬刈り取られ、それだけの威力がメアの一撃にはあり、メアがスピードだけでの男ではないのだということを思い知らされた。
もう一度首を左右に軽く振り感覚を正常なものへと近づける。
僕の耳へとお馴染みの罵声が届く。
「馬鹿! 最初っからそうしときなさいよ、この間抜けぇぇぇ!」
誰の声かは確認するまでも無く、顔に苦笑が浮んだ。皮肉なことに、美帆の声は闇に溺れる僕を救い上げる一本のワラとなったのだ。
礼を言うべきだろうか。いや、言ったらつけあがってしまうだろうな。
危険な思想を振り払った瞬間、頬を何かが掠めた。
右の頬に剃刀で切られたような痛みを覚え、そっと右の頬に手を当ててみると血がにじみ出ている。ますます訳が分からない。何かが飛んできたのだが一体何が飛来したのだろうか。
すると再び何かが顔の右を掠め髪を揺らす。
どうやらそれは石のようで、場外から僕へと投げつけられたようなのだが、まさか観客が投げ込んだというわけもあるまい。
小石はさながら弾丸のようで、常人には到底実現できない超速球だ。
「このクソぼけ!」
メアの声だった。メアの叫び声は波長でも違うのかと思ってしまうほど会場にくまなく響き渡り、かなりご乱心のご様子だった。
「おい、こら! てめぇ、どうなってやがる。下半身が全く動かないじゃねぇか!」
メアは中々言生にたいする防力が高いようだ。全身を拘束するつもりでかけた言生もどうやら段々と効力が薄れてきているらしく、いまでは下半身にしかその効力を発揮していない。
土煙が落ち着くとメアの姿をはっきりと確認することができた。メアは這いつくばった姿勢のまま、物凄い形相で僕を睨みつけている。
そうこうするうちにメアの豪腕によって投下されつづける石の数は増え、身の危険を感じた。僕はリングに体を這わせるようにしながら審判へと、
「審判の人。ほら、あいつ場外でしょ。早くテンカウント。ああ、早く、早く!」
なんとも情けない姿をさらしながら半ば呆れている審判を急かせる。やや渋りながらも、審判の口からは解放への秒読みが開始された。
「うわぁ、ずりぃ。この腰抜け。それでも主人公か。それじゃあ、読みきりになるばっかりで、連載にならないぞ! 正々堂々と勝負しろ!」
「うるせぇ。俺は主人公じゃねぇんだよ。やーい、やーい。悔しいか。ばーか。ばーか。悔しかったらここまで戻ってきてみやがれって、うわっ」
再び光速で投げられた石に捕らえそうになり、慌てて頭を下げる。
「くそぉ。こんな悔しい思いをしたのは、妹にラブレターを盗掘されて全門下生の前で読み上げられた時以来だぜぃ。くそ、くそっ! 分かったよ、待ってろよ。今そっちにいくからな!」
自分の言葉を言い終えるのももどかしそうに、メアはほふく前進の要領で、上半身の力のみを頼りに凄まじい速度でこっちらにむかってくる。強力な怨念を背負いながらこちらに向かってくるメアの姿は心底不気味に思われた。
僕の見たままにメアはあっという間にリングへとつめより、リングと地面の間にある段差によりその姿は一瞬のうちに見えなくなった。
カウントは五。
審判のカウントをとる速度は明らかに遅く、その様子から明らかにこれから到来しようとしている結末に納得していないようだ。
崖っぷちへと追い詰められた子羊のように僕は戦慄を覚えた。メアが消えたあたりのリングの淵から呪詛めいた声が響いてくる。
「くそ、手が届かなねぇ。なんでこんなにリングってのは高いんだよ。ああ、くそ。手が、手がぁぁ! 誰かこの哀れな年寄りに手をかしておくれ。ほら、そこで姑息な手段で優勝を手に入れようとしている坊ちゃん。哀れな老人に愛の手を。げほっ、げほっ」
その手には乗らないよ狼さん。
声のする方向とは完全に反対方向のリングの淵に逃げている僕を見て、一体観客の皆々様はどんな感想を抱いているのだろうか。これで優勝したら本当に石でも飛んできそうだ。
だが無常にもカウントは進み、一つのカウントにつき五秒くらいかけていた審判もとうとう諦めたのか、
「テン!」
と言い切った。
「優勝したのは、卑劣、御下劣。剣士ではなく実は魔法使いだった。卑怯のカリスマ。アドラ・バティックゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
おい。
思わず審判の解説に突っ込みを入れてしまうも、確かにそれは当たらずとも遠からずといった所だったので僕は苦笑するにとどめた。
「審判それよりも、早く賞金くれ。早く、早く」
「ええ、いや、でもですね。これから閉会式が」
「馬鹿野郎。お前は人が殺される様子を見たいのか。授賞式と人一人の命一体どっちが大切なんだぁぁぁ」
と審判の胸元をぐいっと掴んだが、どうやらマイクが入っていたらしく、この情けない様子は闘技場中を駆け抜けた、といのは後で聞いた話だ。もちろん僕はそれどころではない。ホラー映画さながらの、何かがリングを引掻くような「カリカリ」という不気味な音がさきほどから耳まで届いて、怖くて怖くて仕方が無い。
「おい、こらぁ。冗談じゃねぇぞ! 俺は認めない。なんだこの少年漫画にあるまじき展開は。リマッチだ、リマッチィィィ!」
ああ、聞こえない、聞こえない。命って大切だよね、うん、うん。
「それでは、町長より、」
と村長が闘技場の端から歩み寄る姿があり、その手には巨人が酒盛りにつかいそうな巨大なトロフィと金一封の封筒があったので、
「ああ、それね。よし、よし。優勝したのは事実なんだからもらっていくよ」
リングから飛び降りると、侍のように頭部だけ禿げたお茶目な顔をした町長の手からその二つを奪いとる。この際本人の困惑を聞いている暇は無い。
だがリングから降りたのはまずかった。
想像してみて欲しい。四倍速で再生したような速さでほふく前進をしながらこちらに向かってくる人間の存在を。
怖い、怖すぎる。
「おい、こら。ばらすぞ、コノヤロウ!お前が美帆と熱々なことを。あっ、そういえばあいつも何だかお前に気があるみたいだし。」
「それは事実無根だ。名誉毀損で訴えてやる!」
後ろへと無実を叫びながら、だだっぴろい会場を走り一気に外を目指す。僕の視界にはすでに周囲の様子は受信されておらず、唯一理解できたのは逃げなければ命がないこととだけだった。