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第十八話 三日目

 窓からうっすらと日が差し込むと、その眩しさに思わず目を細める。朝日がまぶしいからではない。いや朝日が眩しいというのも理由の一つか。

「朝か」

 雀の鳴き声が爽やかな朝の雰囲気をかもし出していた。雀たちは僕に向かって「よう、おはよう、今日も元気かい」と問いかけているようにも聞こえる。だけど僕の返事はこうだ。

「最悪だよ、くそったれ」

 窓を勢いよく左右に開け放つと、窓辺でくつろいでいた鳥たちは不満を漏しながら騒々しく四散した。

 連休の最終日にして大会最終日。僕はとうとうこの日の朝を迎えることができた。ベスト四。われながら立派な成績だと思う。少なくとも言生を使うことなく、昨日の試合に勝てたことは、過分にも自分の中にあるツキだとか運だとかいった概念を消費もとい浪費してしまったに違いない。その証拠に僕は今とんでもなく不幸な目にあっていた。

 後ろのベッドを見る。

 ボロく黄ばんだベッドは同じく年季の入った部屋に妙にしっくりとなじんでいた。そこには微塵も不自然な所はない。不自然なのはベッドの上のシーツが川辺の小石よろしくなだらかな凹凸の曲線を描いている、といった点だ。

 そこにいる生物の「ううん」とかなんとか、可愛らしく寝言を呻いている姿に騙されてはいけない。多くの男を容易に手玉に取れるであろうその無神経な美少女はすでに一人の男を不幸のどん底に突き落としている。

 まったく眠れなかった。

 昨日の夜僕はまったく眠れなかった。

 まったく眠れなかった。何度でも声高に叫びたい気分だ。それは床にごろ寝していたから…という理由によるものではない。

 そして睡眠不足は僕のコンディションに微妙というには控えめすぎる影響を及ぼしている。胃は少しむかむかしていて食欲はほぼ壊滅状態だし、何より思考回路がウィルスでも送られたかのように停止しかけている。

 朝の七時。すでに諦めの境地に達し、ため息をつき、洗面所へと向かう。顔でも洗えば、脳に立ち込める濃厚な霧も少しは晴れるだろうとの期待を抱きながら。

 部屋の中に備わっている狭い洗面台に向き合い、熱いお湯が出る方の蛇口を捻る。最初は冷たい水しか出なかったので、水が温まるまで上にあるくすんだ鏡に映る自らの不機嫌そうな顔とにらめっこをしていると、やがてほわりと湯気が立ち上り、あっという間に暗い少年の顔は見ることができなくなった。

「我ながら、ひどい顔だ」

 言いながら顔に熱い液体をぶっ掛ける。すると優しい刺激が僕の鈍った思考の覚醒を僅かながら促進した。

 うがいを数回してお姫さまの眠っている部屋へと戻る。美帆を起こす気はさらさらない。どうせ起こしても厄介ごとが増えるだけだ。

 なるべく音を立てないように、隅に立てかけてある刀の方へと向かう。

 その純白の姿は窓から指す柔和な光を受け、真珠のように輝いている。そういえばイコ爺も光を浴びるとその色合いや強度によって宝石のような風合いを見せていた。刀がイコ爺の体の一部である以上、いくら姿を変えようと宿主の面影を残すのかもしれない。

 刀を腰に差し、窓を閉めようとすると一匹の猫がするっと部屋の中へと入ってきた。思わず破顔してその猫へと近寄るが、その黒い子猫には見覚えがある。どこかで、

「おはよう、アドっち。今日もいい天気だね」

「ああ、おはよう…て猫がしゃべった!」

 僕は眠れぬ夜の間に不思議の国へと迷い込んでいたのか。寝不足とは恐ろしいもので、ありもしない幻聴を聞かせるほど脳みそが疲弊してしまっているにちがいない。

 すると僕の瓢箪から駒を見たような驚きように子猫は不思議そうな面持ちで、

「どうしたの? 僕だよ、クロスケだよ。まさかとは思うけど忘れたの? ひどいなぁ」

 クロスケ、クロスケ。

「ああ、クロスケ。あのじゃじゃ馬のスポークスマンか」

「スポークスマン? それは食べ物かにゃ」

 代弁者を食ってどうする。

 口元に笑みが浮かぶ。

 それにしてもこれは深刻な事態だった。昨日出会ったクロスケを忘れるほどに思考がクラッシュしている。意識と記憶を一箇所にまとめようという作業を頭が徹底的に拒んでいるようだ。こんな状態で果たしてメアと戦えるのだろうか。

 黙りこんでいると、クロスケは僕を一瞥し主の下へととっとっと軽い足音とともに駆け寄った。

 止める暇も無く、クロスケは身軽に飛び上がると、流れる線を作る美帆のシーツの上へと飛び移つる。

「美帆りん。朝だよ。もうアドっち、出発しちゃうよ。早く起きないと、アドっち、美帆りんのこと置いていこうとしているよ」

「起こすなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 駄目だ、そんなに揺らすな! たわわな胸の揺れとともに封印が解けてしまうだろうが。 はう、頭に血が上る。

 じたばたするも、それは一向に意味の無い行動だった。

 封印は、

 今解き放たれた。

 美帆は大きな目をぱちっと開ける。

 肩の出た薄い肌着をまとった上半身がむくっと起き上がらせると、美帆は身近にいたクロスケを一瞥し、ついで奇妙な姿勢のまま凍りつく僕へと目を向けてくる。

「おはよう、クロスケ、アドっち」

 僕は天を仰ぎ、さっさっと部屋を出て行かなかった自分を呪った。






「もう、信じられない!」

 怒りを周囲へ撒き散らしながら、露骨に不機嫌な顔をする。朝食の時からずっとこんな感じで、その激しい気性はやはりどうにも好きになれない。

 黙っていればいやがおうなしに清楚で奥ゆかしい雰囲気をしているので、道ゆく異性は例外なく一瞥するか振り返る。商人だったり観光客だったり。つい反応してしまうのだろう。

 まあ外見と中身が食い違っていることは、人間それほど珍しくないのだが、ここ数日でファンになった観客たちが美帆と話をしたらきっと、朗らかでどろどろとした夢をことごとく粉砕され、あげくの果てに夢が壊されたとして僕が訴えられてしまうかもしれない。

「何、怒ってんだよ」

「はあ?」

 仕方なくその原因を探ろうしたが、その尖った返答に意識せず数歩引いてしまった。

「それをあなたが聞いてくる? ははん。あんた私のこと舐めてるわね。舐めてるわけね。ああ、気持ち悪い。なによ、私を置いていこうとするなんてどういう神経してるの。普通じゃないわ。きっと幼いころに謎の組織に改造されちゃったのよ。そうに決まってるわ。だからあんたの血の色も情熱の赤とかじゃなくって、ドロドロとした血管につまるような緑黄野菜のような色をしているに決まってるわ。あんたなんか森の熊さんに食べられちゃえばいいのよ」

「あのねぇ」

 心労はぼちぼちピークだった。この二十四時間は気疲れのたまる一方で、寝不足だし、何故僕が一々神経をすり減らす必要があるのだろうか。

 疲労は人間を短気にするそうだが、なるほどその通りだ。感情がしきりに、お怒りさんを呼び込んでいる。

「言っとくけど。前提の前の前提を言っておくけど。俺お前のこと嫌いだから。そこんとこちゃんと理解していますか? だからオレがお前のことを置いていくのも、」

「あら、何で?」

 常人であれば一歩引き下がるような場面でも美帆は構うことなく踏み込んでくる。

「な、何でって。何が?」

「だから何で私のことが嫌いなの?」

 横を歩く美帆は本当に心の奥底から不思議そうに訪ねてくる。

「それは、あれだよ。そんなの決まってる。お前が俺の師匠を悪くいったからだよ」

「だからそれについてはもう何度か謝ってあげたでしょう。細かいことを気にする男は女の子に嫌われちゃうぞ」

 あ、そ、そうかなぁ。て、違うだろ。

 男ならばめろめろに骨抜きにされてしまいそうな笑顔。プラスろりろりな制服のコンビネーション。だがここでやられては師匠の面子が、

「だから。軽いんだよ。お前の謝罪には心がこもってない。あんなのが謝罪のうちに入るかよ」

「また、君も面白いこと言うね。言葉は言葉でしょ。そんなものに重いも軽いもなんじゃないの?」

「それは違うよ、美帆りん」

 僕の頭上から声が降ってきた。それは文字通り頭上で、クロスケが僕の頭の天辺に居心地を見つけたのか、宿を出てからそこを我が場所として陣取っている。ほのかな温度と獣の特有の臭いが視界の上から伝わってくる。

 僕は予想の外に居た援護者に内心エールを送った。

「駄目だよ、美帆りん。言生師がそんなこといっちゃ。言葉の重みはそく言生の力に左右するからね。そんなんだと美帆りんの言生が軽くなっちゃうよ」

「何よ。それに言生じゃなくて魔法でしょ。じゃあ言葉にする以外にどうすればいいのよ」

「態度でしめすのにゃん」

「何それ? 脱げってこと?」

 ぶっ。

 それは…………見てみたい。

 ぜひ。

 ぼんやりとする頭でそんなことを考えてると、いつの間にか美帆が顔をのぞきこんでいて、表情を確認した途端、口の端がいやらしい笑みを浮かべた。

「あららん。あんたもしかして今何か邪悪なこと考えなかった」

「な、そ、ん、な」

 考えていました。

「考えてねぇよ」

「まぁねぇ。自分で言うのもなんだけど私って可愛いからね。学園でも『ミス魔法使い』に選ばれたことがあるし。ふふ、あんたのその下品な想像力は決して異常じゃないわよ。むしろ誇りなさい」

 また疲労こんぱい時に、レベルの高いボケを発揮してくれる。ミス魔法使いってなんだよ。

「もう、いいから帰えれ。ただでさえしんどいのに、俺に余計に体力を浪費させるなよ」

「え? しんどいって、どうかしたの?」

 てっきり聞き流すかと思っていたが意外にも美帆は心配を顔にまとっている。

「まさか風邪引いたとか。だからベッドに上がって寝れば良かったのに。私の忠告を無視するからこんなことになるのよ。」

 ベッドを占拠していた当人の口からその一言を聞くとさすがに呆れることしかできなかった。果たしてこの少女はどれだけ無神経なのだろう。

「ただの寝不足だよ」

 重度の寝不足だった。太陽がやけに眩しい。モグラの気持ちが今なら理解できそうだ。

「ふーん」

 そっけなく言ったつもりだが、美帆は上品に腕を組むと少し考える仕草を見せた。

「ああ、もういいから、ほっとけ、」

「そうね、睡眠不足は美容の敵っていうけど、まぁいいわ。第一体調不良で負けられると私が困っちゃうしね」

 本当に人の話を聞かないお子さんだ。親の顔が見てみたい。その傍若無人な態度。それは少し自由すぎるだろう。

 しきりに急速を要求してくる頭でだらだらとそんなことを考える僕の前へと美帆が回りこむ。突如として現れた障害物に僕は仕方なく立ち止まった。

「おい、」

 何かを言う暇も無く美帆は僕の頭にその両手そっと添える。指に穏やかに力が込もると、少女の顔が僕の視界の中でぐんぐんと近くなる。

「おい」

「静かにしてよ。あんたが騒ぐと私まで恥ずかしいじゃない」

「いや、だってよ」

 朝早いとはいえ人の往来のある道のど真ん中で美帆は顔を近づけてくる。

 相手が近すぎて焦点が合わなくなった。反射的にぎゅっと目をつぶると瞼の内に広がる暗闇の中で、自分のおでこに丸く、硬く、温かい感触が触れた。

 それは同じく美帆のおでこらしく、薄らと目をあけると息遣いを感じ取れるほど相手の顔が近くにある。

 まま、あの人たち何してるの? しっ、見ちゃ駄目でしょ。

 などと道行く人のざわざわし始めた空気が伝わってくる。背中をじりじりと焦がすような嫉妬や羨望。異物を見るような敵愾心。他人の視線には存分に誤解が含まれているようだ。

「己に付帯せし、磐石の病よ。目に見えぬ心となりて、その苦難を受け入れん」

 暗闇の世界で聞いたその言葉は、果たして僕にどのような効果を与えるものだったのだろうか。それは間違いなく精神に作用する言生に相違なく、言葉が中へと伝わる度に心の奥底がじわりと揺すられた。

 何かが吸い取られるように僕の体から抜けていく。額から感触が遠のく。

 それでも目をつぶっていると、おでこをぴしゃりと叩かれた。

「なにエサをほしがる雛鳥みたいな顔してんのよ。終わったわよ」

「なっ、失礼な」

 文句を言おうと目を開けると、自分の体の変化に気がついた。重かった左右の米神も、若干胃酸過多気味だった腹もなんとも無くなっている。

「すげぇ」

 こんな言生があったのか。一体どういった種類の言生なのだろう。状態を回復させる言生は数種類知っているが、睡眠不足を治す言生など聞いたこともない。

「すげぇな、お前。これどういう言生?」

 だが問いかけた少女は、先ほどとは百八十度様子が違い、何故かぐったりとしている。

「ああ、これじゃあ。しんどいはずね。ちゃんと寝ときなさいよ。まったく遠足に行く前の初等生じゃあるまい。これだからガキは嫌いなのよね、私」

 この落差は一体なんなのだろうか。先ほど見せていた掴みどころの無い飄々とした態度は欠片も無く、今では殺気さえ放たれているような気がする。

「状態移しの言生だにゃん」

「それってあれだろ。相手の状態を自分の状態と入れ替えるあれだろ」

「ちなみに僕の記憶によると美帆りんは徹夜できない体質なんだよね。」

 姿は確認できないが目玉を上の方へと向ける。

 二十年ほど前にブラウン博士が提唱した「相互関渉理論」を元に考案された性質の移行を主眼とした言生の効果。状態移しとはその総称のはずだが、基礎データがバラバラで信憑性には一定の信頼性がおけず、未確立なニッチの中のニッチのような言生、のはずなのだが。

「うっさい。クロスケ余計なこというなぁ」

 子猫に向けられた拳は空を切り、美帆はふらふらしながらそのまま往来の人ごみにぶつからんとしている。それを見て僕はとっさに美帆の腕をとり、人にぶつからないようにこちらへと引き寄せた。すると美帆はよろよろっとしながら僕の方へとすがりついてくる。

「おい、」

 動揺が漣のように広がる。巨大な鉄のハンマーで打たれるように心臓の音が脳へと響いてくる。喉を締め付けられたように呼吸が浅く速くなる。

 冷静さは保たねば。

 そう思いつつ、美帆の顔を覗き込むとその表情は少し青く、どうやら喧嘩をしているどころではないようで、

「吐きそう…」

 青い顔をした美帆は本当につらそうだった。

「おい、ちょっと待てい! クロスケェェ!」

「しょうがないなぁ。担いであげるといいんじゃない」

 クロスケの声からは元気な時のご主人に精通する悪意に満ちた響きを感じ取ることができる。クロスケは絶対に僕より年上に違いない。間違いない。

 確信を抱きながらも僕は素早く周囲へと視線を走らせながらクロスケの提案に思案をめぐらせる。

 時刻は恐らく八時になるかならないかと言った所だろう。人の往来は徐々に急流を形成し始め、もう少しすれば、それは激流となってしまう。そんな中に立ち尽くす僕はさながら地面につきたてられた竹ざおのようなもので、人の流れに流されてしまわない保障などどこにもない。

 どうしよう。

 僕は判断を下せずにぐずぐずと迷うことしかできなかった。

 突然脳裏に兄貴の不敵な笑みが浮かび上がった。僕ができないと思ったことを平然とやってのけた後の兄貴の表情だ。

 理由は分からないがそんな自分に無性に腹がたつ。

「よし、決めた」

 気持ちは四年前の兄貴。下へと俯く美帆の顔を覗き込み、

「お前をこれから闘技場まで運ぼうと思うんだけど、『お姫様だっこ』、『背中に担がれる』、『肩車』の三つのうちどれがいい?」

「どれも腹が立つ」

 即答する美帆の表情は険しい。

「お前は心臓に重大な病をわずらった患者だ。病院へ行ってジャック先生の手術を受けないと死んでしまう。だが生憎と体が動かない。さぁ、そんな状況だったら先ほどの選択肢うちのどれを選ぶ?」

「潔く死ぬ」

 潔く殺してしまうか。

「じゃあ、肩車」

「よし、じゃあ背負うからな。」

 これ以上話を面白い方向に広げないように無視すると反対を向き、美帆へと背中を向けながら膝を曲げ、腰を落とす。

 さてここからどうしようかと思ったが意外にも美帆はよろけながらも素直に僕の背中へとおぶさってきた。

 よし、よし。この素直な態度。クロスケが言生でも使ってくれたのだろう。

「アドっち、セクハラだにゃん」

「おい! お前の提案だろうが」

 頭の上ににうずくまっているであろう、小動物へと突っ込みを入れながらも足を動かす。少女特有の柔らかい体は思ったより細く、軽かった。そして、背中には…むふっ。

「背中に意識集中したら、その瞬間殺す」

 撒きつく両腕に力が入リ、口からは大きく空気が締め出される。

「うわっ、吐きそう。胃酸がどばどば出てるよ。ここで吐いてもいい? 君の背中に今朝の朝食をぶちまけてもいいかな?」

「頼むから辞めてくれ。会場につくまではあらゆるものを飲み込め」

 想像しただけでも背中が臭くなる。

「あんたこんな状態で試合にでようとしてたの? 馬鹿じゃない」

「うるせぇよ。少しは黙ってろ」

 背中には少女の温もり。そして頭には黒い子猫。つくづくこの町に知り合いがいなくて良かったと思う。こんな状態を世間話のネタにされると思うとぞっとする。

「状態移しなんて使うなよ。そんなマイナーな言生どこで覚えたんだよ。まったく、余計なことを」

「私だったら試合がないから隅っこで少し寝てればいいと思ったのよ。悪い? そんなに悪かった? あんたに負けられたら、あんたに形だけでも敗北した私の立場が無いでしょ」

 それは一体どういう理屈だろうか。

「私がここまでしてあげたんだから、絶対に優勝してよね。じゃないと私本当に馬鹿みたい。」

「へい、へい。努力します」

「足りない」

 再び強く首を絞められると、最近発達し始めた喉仏の辺りで息がつまった。背中には柔らかい物が二つ。ついでにいうとスカートも短いので、担いでいる足の辺りも妙に生暖かい。

「はひぃ、はひぃ。誠心誠意全力を尽くします」

「よろしい」

 するとぱっと開放されたので、大きく息を吸い込む。美帆は意外と元気そうだ。

「それにしてもしんどいわ。だから言ったのよ。ベッドで寝ろって」

「さっきも言ったけど、そんなこと出来るわけ無いだろう」

「どうして?」

「どうしてって…そりゃ倫理的な問題かなぁ」

 途端に背後から笑い声が爆発した。つらいのであれば静かにしていてほしいのだが僕の心情など美帆の知るところではない。

「なに、なに? なにそれ? 君はあれかい。もしかして思春期の坊や? はっはっはっはっ。ああ、おかしい」

 ちょうど流れる川にかかる橋の上を通りすぎた所だったので、思わず美帆をここから突き落としてやろうかと思った。

「やっぱり、俺。お前のこと嫌い」

 僕がふんっとそっぽを向くと途端に美帆は笑うのを辞めた。

「何よ? 怒ったの?」

 橙色の吐息が耳元をくすぐる。

「ああ、怒ったね。せっかくいい奴だと思ったのに。師匠は馬鹿にするわ、俺は馬鹿にするわ、師匠は馬鹿にするわ。お前だって大切なものを馬鹿にされたら、俺みたいに。いや俺以上に腹をたてるだろう」

「それは、」

 美帆は黙り込み、僕はそのまま黙々と道を歩く。すれ違う人の好奇や嫉妬の視線も今では大して気にならない。話の流れで美帆を背負うことになったが体力的にはまったく問題ない。なんせ毎日高低差三百メートルの山を水汲みのために登り降りしてきたのだ。それに比べれば少女の体重など綿毛のようなものだ。

 日差しは今日も厳しそうだが、早朝の時間帯は考えていたより涼しい。それよりも密着している部分が蒸れてくるのが段々と気になりはじめるが、これは今はどうすることもできない。

 頭の上では相変わらず子猫が上機嫌そうに「にゃん、にゃん」と鳴いている。先ほどのやりとりを聞いていたはずなのだが、子猫は何故か一言も口を挟んでは来なかった。

 ふと急激に周囲が静かになったことに気がついた。

 その原因は探さなくとも容易に見つけることができる。背中におぶさっている少女が静かになったのだ。

 寝たのかな?

 顔色は相当悪かったので、寝てしまったという可能性は高い。それもこれも僕のためだと思うと幾らか申し訳なくなる。

 いやいや。元をただせば、あれもこれも全て元凶は美帆にあるのではないか。騙されてはいけない。今の心理状態はまるで詐欺にあう直前の被害者のようなものだ。

 などと、不要なことを考えていると段々と闘技場の外壁が見えてくる。

 とりあえず美帆を医務室にでも連れて行って、それから僕は軽いストレッチとともに精神的な準備を整えなければならない。医務室にはベッドもあったので、美帆は試合が終わるまで快適な睡眠生活を送れるはずだ。

 試合でちゃちゃっとメアを倒して優勝。

 それからすぐに、夜が明けるのも惜しんで今日中にこの町を出発すると。明後日には無事ポートンへと辿り着き、優勝を引っ提げて師匠の下へとはせ参じる。

 僕は晴れて自由だ。優勝賞金は当面の生活費となるだろう。

 ここ数日で構築された微妙なしがらみやら人間関係などは全て後ろへと置いていくつもりだった。僕の中には何も残らない。メア・ノット、ノムリ・シーバス、美帆中山。一日も経たないうちに全て忘れてやる。その自信が僕にはある。

「   」

 ああ、素晴らしきかな、我が人生。

「ご、」

 今後の計画を描いていると、どこから声がしたような気がした。まさかクロスケが発したもののはずもなく、それが美帆が発した言葉だということに気がついて少し驚いた。

「ごめん」

 そのもろく繊細で耳に届くまでに風に運ばれて消えてしまいそうな三文字は確かに僕へと伝わり、そして軽快だった僕の気分を完全に醒ましてしまった。昨日も同じ口から同じ単語を聞いたがその時とは全く印象が異なっている。

 同じ言葉、同じ人間。それなのにどうしてこうまで印象が変わるのだろうか。

 ややあって、僕は大きく肺に息をため、息を吐き出す。

「いいよ。許す」

 少しは捻くれてやろうと思っていたし、許すつもりはさらなかったのに不思議と口からはあっさりとその言葉がでていた。

 そこには打算もなく、

 そこには駆け引きもなく、

 そこには裏表もない。

 ただ自分の一部のように背中の少女の言葉が体の中を通過し、そしてそれを受けて僕の意識がするすると口から漏れてゆく。その言葉を再び回収しようとは、今の僕は思わない。

 相変わらず子猫は鳴いている。まるで全てをお見通しであるかのように、長いしっぽを束縛されることなく自由に揺らしながら。


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