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第十七話 暴挙

 椅子に腰を落ち着けても、まだ腹のあたりがもぞもぞとしていた。

 不思議な感覚だ。気持ち悪いようで心地よいとでも表現したら良いのだうか。落ち着かなくなり丹田のあたりを軽くさすってみたがあまり意味はなさそうだ。

 押さえつけることによって、にじむ汗が服に染みをつくる。適温だった店内は気がつくと汗ばむほどの環境となっていた。観衆の熱気によって。内に広まる不安定なまでに落ち着かない興奮によって。

「兄貴、中々様になっていましたよ。にしても今日の勝ち方は鮮やかでしたね」

 隣の席にいるキースは言いながらも、適当に料理を盛っては僕の方へと押し付けてくる。気のせいだろうか、やたら肉が多い。僕はそれをさらに反対の隣に座っている人物へと流した。横流し。字面の通りだ。

「いや、いや。偶然だって」

 それは謙虚でもなんでもない。本当に追い詰められて、相手も僕を追い詰めたと思って油断していたのだろう。だから僕に対して自分が繰り出した言生が効かなかったことに驚き、動揺が隙を生んだ…のかもしれない。

 よく分からない。

 それに竜刀の鞘に言生に対抗する力あると教えてくれたのは、あの時言生を唱えた本人だった。

「それにしてもどうやら出揃いそうですね。明日の決勝戦。例のあいつですよ。メア・ノットでしたか、」

「ああ、圧倒的だったよな」

 ノムリとメアの試合が頭の中に蘇る。沈むノムリに悠然と見下ろすメア。

 その瞬間会場に立ち込めた今大会一の爆発的な歓声は、それがどれほどの番狂わせだったかを端的に示しているように思われた。

 あのスピードに果たして僕はついてゆけるのだろうか。目で追うことはできた。だが目の反応に体がついていけるとはとても思えない。

「それにしても、キースが言ってたもう一人のやつは? 確かキ、キル、」

「キルピですか。いや、あいつに関しては予想外れでした。一回戦であっけなくリタイアしちまって。ノムリともメアとも対戦するまえに消えてしまいましたから。一体なんなんでしょうね」

「さぁ?」

 予選を楽々突破しておきながら一回戦でリタイアするという思考は僕には全く理解不能だ。僕ならば大会に出場する以上勝ちたいし、勝てる以上、上へと登りつめたいと思ってしまう。

 それが普通の人間の感覚だろう。

 ということはそのキルピなる人物は普通の思考をしていないのかもしれない。目立ちたがり屋だとか、衆目にさらされないと気がすまないとか。あるいは一般人とは次元の違う世界である主のエクスタシを感じているのかもしれない。

 まったくの推測だが。

 それにしてもキルピの人殺しの手口は見事だったらしいのだから、何か特殊な仕事をしているのだろうか。例えば泥棒とか。例えば山賊とか。

 そういえばあいつ元気にしてるかなぁ。

「兄貴何考えてるんですか?」

「いや、ちょっとね。大泥棒から山賊に身分を落とした男のことを少し」

 キースの目が細くなる。今日はサングラスを掛けてないのでその細かい表情の変化をつぶさに観察することができた。糸のような細い眼はまるで僕を睨みつけているかのようにも見えたが、これは勝手な思い込みだろう。

 僕は適当に笑ってごまかした。これ以上詳しく話す訳にはいかない。

 ここで初めて僕の左隣に座る人物が料理に一切手をつけていないことに気がつく。

「おい、食えよ」

「…」

「喰わないのか?」

「…」

「おい、こら。いいか加減にしろ! 喰うんなら喰う。帰るんなら帰る。はっきりしろって。それが嫌ならせめてもう少しにこやかにしてろ。俺でさえ最低限の社交性を発揮してるのに、なんでお前がそんなに無愛想なんだよ」

「う。うるさい」

 その声は消え入るように小さかった。そしてまるで遊園地につれていってもらえるという約束を反故にされた子供のように拗ねた表情を隠そうともせずに顔に張り付けている。

「そう、そう。ずっと気になってたんですけど、なんでそちらのお嬢さんがここにいるんですか」

 キースでさえ多少なりとも戸惑っているようだった。それも当然のことだ。キースが身につけている灰色のパーカーの下のシャツにはその少女の名前がでかでかと書いてあるのだから。

「美帆りん、食べないの? ここの料理どれもおいしいのにゃ」

 黒い子猫は肉まんのようなふかふかした上げ饅頭を食べることに夢中になっている。器用に両方の前足をつかい、さながら人間の両腕のように食べ物を取り口に運んでいる。

「もう、クロスケ。辞めなさいよ、みっともない。それにここの食事代を払うのあたしなんだからね」

 それで遠慮しているのか?

 少なくとも「遠慮」の二文字は辞書の中にあるようで驚きだ。

「それなら大丈夫だと思うけど。ここの店主大会に出場する選手にはめっちゃ優しいから。自分が選手だって言ったらかなりまけてくれるか、もしかしたら只にしてくれるんじゃないの」

「馬鹿野郎! そんな可愛いお譲ちゃんから金なんか取るか!」

 店主の威勢のいい怒鳴り声が立ち込めるざわめきを軽く飛び越えて店内へと響いた。

「ということで晴れて只で飲み食いできる身分に昇格したんだから、君も自分の精霊獣を見習って食事したら?」

 精一杯の砕けた口調に勤める。顔には人工的な笑み。自分が自分を見たら失笑してしまっていたかもしれない。

 その躊躇は三秒ほどだったと思う。それでも何かに納得したのか、それとも只と言うことに安心したのか、どちらかは推測もできないが、少女は箸を持つとぽつぽつと料理へと手を付け始めた。

「そうだ、そうだ。お譲ちゃん、遠慮なんざする必要はねぇぜ! それにアドラもしっかり肉を食え。肉を。明日への活力は肉にありってな」

 がははっ、といつも通りに豪快に笑い飛ばし、店主は奥へと戻っていった。

 その奔放な姿に呆れつつも、しばらく黙々とエネルギー摂取に専念する。

 額に浮かぶ汗をぬぐうこともなく、肉を口に放り込み咀嚼。米とサーモンカルパッチョを口に放り込み咀嚼。熱いお茶で一服の小休止。繰りかえし、繰りかえし。店の中にいる老若男女の楽しそうな会話を背景に天井のファンの音が一定のリズムでこすり付けるような音をたてている。

「あんた、」

 食べ物を食道の限界まで詰め込み、やばいベルトが苦しい。腹でもさするかぁ。でも隣には女の子がいるし、などということを考えていると、耐えかねように美帆が口を開いた。

「魔法使いだったのね」

「言生師だ」

 どうにも言生という言葉は死語らしい。それでも廃れゆく言葉に僕は並々ならぬ愛着を感じている。

「何で隠してたの?」

「君は何でここにいるんだよ?」

「それは」

 どうにも歯切れが悪い。質問に質問を返したのだから「お黙り! この豚!」とでも罵られるかと思っていたが、美帆は痛い所を突かれでもしたかのように黙り込む。

「美帆りんは賭け事の結果を気にしているんだよ」

「馬鹿!」

 美帆は射殺さんばかりの目で自らのパートナーを睨みつけた。子猫はというと通常の生物ではありえないほど腹を膨らまし、小さな体はまん丸になっている。

 そんな状態なのに子猫は苦しそうにするでもなく、もうお休みの時間がきたのか、目をしょぼしょぼさせていた。

「ああ、あれね」

 私を好きにしていいわよ、ってやつか。

 くぅ。

「どうしたんですか、兄貴? そんな泣くような素振りなんて見せて」

 これが、泣かずにいられるだろうか。確かにあの賭けは有効だったのだろう。僕が負けていればこの少女は闇金の取立てのごとく、容赦なく僕から刀を取り上げていただろうし、本人もその有効性を認めているような節がある。

 好きにしていい。

 好きにしていいかぁ。

 だが残念。

 頭の中で木霊する一つの誘惑がばっさりと切り落とされる。

 僕にはそんな根性が無かった。ああ、誰か僕を罵ってくれ。罵倒してくれ。この弱虫、根性なし、意気地なしと。ハイヒールのかかとで責めながら、ロープで縛ってくれぇぇ。

「どうしたんですか? 兄貴?」

「いや、少し取り乱してしまって。嫌だ、嫌だ。年は取りたくないものじゃ」

「あんた、意味不明よ」

 美帆は心中を見抜くようなきつい視線で心を抉ってくる。

「ああ、ああ。うん、うん。もう、いいよ。今の一言でちゃらにしてやるよ。良かったな。おめでとう。それからもう帰れ」

 情けない。自分が最高に不甲斐ない。

 手をひらひらと振りながら、自分の首を締め付けたい気分に駆られた。

「何が? はっ? もう、なんなのよ、あんた。それより質問に答えて。なんで剣士のふりなんかしているの? いや、あなたの技量はふりというよりも本職を思わせるほどのレベルなのにどうして魔法が使えるの? というよりも本当に使えるの?」

「質問の前の質問。どうして君は俺が言生師だって分かったんだよ?」

 ややこしい事態にことを発展させないためにも、その事実はひた隠しにしてきたはずなのに、どうして美帆にその事実がバレてしまったのだろうか。今後のためにも是非聞いておきたい。

「それはクロスケが言ったのよ。あなたが、あなたが魔法使いだって。それもとんでも無い力を持った魔法使いだって」

 線の細い顎で一つの方向を指し示す。その先には完全にまったりとしている一匹の小動物がいる。

「クロスケっていうんだ、君。始めまして。俺はアドラ」

「にゃん、にゃん」

 自己紹介したものの本当に僕の声が脳の中まで届いたのかは分からなかった。その目はすでに夢の中へと半分足を突っ込んでいる。

「クロスケ。どうして分かったの。俺が言生師だって」

「簡単だよ。僕たちのような精霊獣は皆言生のエネルギーでこの世界に姿を保っているでしょう。いわばエネルギーからなる生命体みたいなもの。だから、言生には敏感だし、隠そうとしても個人の体から無意識に溢れ出る力を見ることができるんだよ」

 子猫が閉じてしまいそうな瞼をさらにすっと細めて僕を見る。

「なるほどね」

 つまり僕から普通の人より多くの言生力が流れ出ていた。それは言生を身近に扱う言生師だからこそ見られる現象なわけだ。

「それでね、君を見たとき僕は美帆りんに忠告してあげたんだ。アド……っちとは戦わないほうがいいって」

「それは、またどうして?」

「それなのに、美帆りんは僕を呼び出す前から勝手な約束事を決めてるし。もう僕としては勝手にしにゃ、って感じだったけど、美帆りんは特別だからね。力を貸してあげたんだけど結局油断して巻けちゃうし。にゃ〜」

 ため息ともあくびともとれる息を吐きながら、クロスケは舐めた手で瞼をこする。

 無視されたことに若干傷ついたが、なんと可愛い精霊獣だと僕は自然と破顔していた。僕もいつかこんな癒し系の小動物と契約を結びたいものだ。

「だからクロちゃんさぁ。どうしてこいつと戦っちゃいけなかったわけ」

 可愛さをぶち壊すような物言いもより大きな愛嬌には勝てないらしい。

「それは流れ出す、言生力が普通じゃないからだよ。美帆りんをホースからちょろちょろと流れる水だとするよね。対するアドっちは…そうだね。大きな川の流れのようなものかな。それに、」

「それに?」

 見ると美帆はかなりご立腹のご様子だ。そりゃあ、精霊獣といえば契約者より立場的には下で、しかも年端もいかぬ子猫に実力の講釈をされたら大抵の人間は腹が立つだろう。

「いや、辞めとく。だって美帆りん怖いんだもん」

 クロスケは僕が右腕にちらっと視線を向けたがすぐに主へと向き直り、弱者の演技を続ける。

 すると美帆のイライラは頂点へと達し、容量の限界を超えたのか突然力一杯テーブルを叩くと僕に向かって人差し指を向けてきた。

 あまりの音の大きさに騒がしかった食堂内は水を打ったかのように静まり返る。

「納得いかないわ。見せなさい。見せなさいよ! そんなに凄いなら私に見せなさいよ。あんたの魔力を、」

 中々の迫力に腰は一歩引けていた。だがこの美帆の興奮振りは僕になんとなく理解と納得をもたらした。

 つまり美帆は同い年である僕が自分より上であることを認めたくないのだ。それはエリートにありがちな思考で、恐らく挫折を知らずにここまで来たのではないかと推測する。確かに美帆の実力は年齢を考慮すると、恐らくその魔法なんとやらという学校の中でも頭一つ抜けていたのではないだろうか。

 ちやほやされ、屈辱の味を賞味することなく歩んできた人生。

 僕とは真逆の人生。

 椅子に座っていたので、椅子ごと体が後ろへと下がったが、狭い部屋でそれは難しく、すぐ誰かの足に椅子の足の一つがぶつかり退路は断たれてしまった。

「いや、その。すまん。俺今言生をつかっちゃいけないんだよ」

 なんとなく申し訳ないような気分だった。

「どうして?」

「師匠に禁じられてるから」

「誰よ、それ。そんな馬鹿の言うこと聞く必要なんてないわ。今すぐ唱えなさい!」

 美帆は命令するように憮然と吐いて捨てた。確かに僕の師匠はおちゃらけていて馬鹿だ。それは認める。

 認めつつもふつふつと腹の中へと怒りが蓄積し、今度は僕がそれを抑えきれなくなった。沈黙することも、理性を働かせることも何の役にも立たない。

 暴れ馬、いや暴れる獣がどこからともなく姿を見せ、思考を蹂躙する。

 僕はそれを抑えきれなかった。口からは、

「お前にそんなこと言われたくないね! 俺は師匠にいびられっぱなしだけど、それでも敬愛してるし、尊敬もしてる。何より俺の唯一無二の大切な家族だ。それを馬鹿にするなんて、絶対に許せない。謝れ。今すぐ謝れ!」

 無意識のうちに腰を落とし刀の柄へと手をかけていた。それだけの感情が一体自分のどこから沸きあがってくるのか不思議だったが、それでも今の僕は引く気はない。

 怒れる瞳に移る少女は半歩下がり、右手を前髪に沿え、ややたじろぎながらも、

「なによ。そんなに怒っちゃって。あんたみたいな田舎っぺの師匠なんてどうせろくでも無い屑なんでしょ。あんた、それでも、」

「黙れ!」

 本気で切るつもりだった。堪忍袋の緒が切れたとはよく言ったもので、今僕の中では全ての感情の袋がバラバラに破かれてしまったようだ。

 すると気迫に押されたのか、美帆は顔を硬くしながらさらに一歩ほど後退する。




「ちょっと、待つのにゃん」

 僕の横にあったテーブルをとんと蹴り上げ、黒い子猫は僕の肩へと降り立った。その姿からは殺気も敵意も感じられないので、構わず美帆の方へとじりじりと間合いを詰める。

「ちょっと、待って下さい」

 耳元で囁く子猫。

「主の非礼を代わりにお詫びします。だから僕の顔に免じて許してあげてください」

 僕は子猫の言うことを無視して美帆との間合いをさらに一歩詰める。

「僕の顔じゃだ矛を収めてもらえませんか? ではこれはお銀おばあさまからのお願いだと思って頂いても結構です。お銀おばあさまのお願いを無視されると、竜のお爺さんがとても悲しみますよ」

 歩み寄りがピタッと止まる。意思とは裏腹に足は前に進もうとしない。

「やっぱり、あなたは竜のおじいさんのお弟子さんなのですね。僕もおばさまからよく話を聞きます。年をとったおばあさまのよき話相手である、竜のお爺さんの話を」

 そういえば僕も聞いたことが在る。イコ爺にはもっとも古い縁のある友人が三人いると。その名前の一つが確か、

「二十又のお銀」

「そうです。おばさまを知っていてくれて僕も嬉しいです。ですからお願いします。ごめんなさい。謝りますから主を許してあげてください」

 クロスケの言っていることはどこまで本当なのだろうか。僕はその人物に会ったことが無い。というよりもてっきり人間かと思っていたのだが、いや、でも竜の知り合いにして最良の友人が老齢な猫であってもなんら不思議ではない。

 それならば、ここで話をこじらせるとその交友に悪影響が。

 でも目の前の人物は自分の師の悪口を。

 それに謝ったのは罵倒した本人ではなく、その代理人であって。

 でも、

 でも。でも、でもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでも。

「クソッ!」

 体を起こすと、黙ったまま椅子に座る。椅子は不満げな声を上げながらも僕の体重を受け止め、相変わらず腰は落ち着かない。

 イライラは捌け口を見失い、やり場の無い感情は僕をこの上なく不快にさせた。もう美帆のことは無視しよう。心の中で硬くそう決心する。

「ふん、何よ、あんた」

「にゃん、にゃん」

 子猫は僕の肩にのったまま何事か唱える。すると美帆は口を縫い付けられたようにその上下の唇が開かなくなった。鎖された口の奥からふがふがと呻くような曇った声が聞こえてくる。

「これで溜飲を下げて下さい」

「はぁぁ。お前も色々と大変だな」

 ため息とともに、肩に乗った子猫の喉元を撫でてやる。すると子猫は気持ちよさそうにぐるぐると喉を鳴らし、目を細めた。どうやら気持ちよくなると目を細める癖があるようだ。

「美帆りんは特別だからね。それより僕も見てみたいな。アドっちの言生」

 僕はこの子猫に感心していた。この子猫は魔法と言う表現は使用しないのだ。もしかすると年老いたおばあさんとやらから教育を受けて、言語体系も古風なものとなったのかもしれない。






「だから、駄目なんだって。さっきも言ったけど師匠に禁止されてるから」

 美帆が不機嫌そうな顔をして隣の席へと腰を降ろした。どうやら喋ることを完全に諦めたらしく言生をかけたクロスケへとねっとりした視線を這わせる。

「それは、承知してるよ。だから言生の一歩手前でとめておけばいいんだよ」

「つまり言生の編集をしろと」

 それは言生の修行において基本中の基本。言葉を紡ぎながら、イメージの中で言生力を練り体内へと蓄積させていく。それを外へと発揮させることが言生を唱えるという行為になるのだが。

「そうか。確かに対象を指定せずに飛ばさなければ言生を使ったとはいえない…のかな?」

「そうなの。お願いします。これは何より美帆りんのためなの。最近美帆りん、少し天狗になってて。だって学園であまりにもちやほやされてるから、すっかりなまけっちゃてるの。確かに美帆りんには才能があるけど、」

 クロスケがしゅんと耳をうな垂れ、今にも泣きそうになった。それは反則だろう。

 そのあどけなさ。雨の中に捨てられた子猫のように強い同情を抱いてしまう。

「分かったよ。それでもじゃじゃ馬の目が覚めるとは思えないけど、やってあげるよ。勘違いするなよ。あの女のためじゃなくてクロスケのためだからね」

 腕を組みえらそうにふんぞり返る少女のことは嫌いになっていたが、落ち込む小動物を放っておくことは僕にはできそうにない。

 立ち上がるにつれクロスケの顔がぱっと明るくなるのが分かった。そのあまりの切り替えの早さに全てが演技ではなかったかという疑念が浮んだ。そもそも精霊獣の年齢を見た目で判断するなど笑止千万な行為で、クロスケは僕よりずっと長生きしているのかもしれない。

 それでもやってやろうと思ったのは、この基礎修行を旅に出てからずっとサボっていたからだ。いやサボっていたというニュアンスには大分語弊がある。時間が無かったのだ。

 イコ爺の所にいた頃にはそれこそ二つある玉の位置を直す気力もなくなるほどみっちりとこの基礎トレをやらされていた。

 だからちょうどいい機会だと思っただけで、他意はないはずだが、もしかしたらこれは自分のとってきたスタンスを崩しているのだろうか。僕は果たして自分の中に関係が少し深まった位で崩れ去ってしまうような柱しか築いてこなかったのだろうか。

 頭を一つ振る。

「ああ、皆さん少し、下がって下さい」

 言いながら自分の周囲に若干のスペースを確保した。

「兄貴、何をするんですか?」

 再び騒々しさを取り戻していた食堂にあって僕に一斉に注目が集まる。相当恥ずかしかったが内で暴れまわる獣をどうにか手なずける。

「ううん。まあ、色々とね」

 そいうと目を閉じ丹田へと意識を集め、口を開く。

 一般人の聞きなれない言葉が流れ出し、脳内に強いイメージが喚起される。すると体を光が包み込むのが分かった。太陽のように暖かく、まばゆい光は室内の明かりの全てを打ち消し、その奥へと新たな影を作り出す。

 薄らと目を開く。

 口は勝手に文章を詠唱していた。その文字の羅列は僕の頭の奥底に刻み込まれ、その気になれば条件反射のごとくすぐに、何処でも唱えられる。

 風が収束し、体を駆け上ったかと思うと一気に上空で霧散した。その循環が周囲の見物人の服を揺らし、まるで弱い嵐の中に佇んでいるように耳元で轟音が鳴り響く。

「そんな…」

 美帆の唖然とする顔が目に入ってきた。クロスケが美帆にかけた言生はごく微弱なものだったらしい。そんな驚きの表情もやはり端正な顔により可愛く見えたが今ではまったく興味は無い。

 今はその驚きに満ちた表情がただただ痛快だった。

 髪が水の中にいるかのようにゆっくりと揺らぎ、そして力が体内をループする。

 建物一軒を吹き飛ばせるほどのエネルギー。それを暴走させることなく意識の奥へとゆっくりと拡散させてゆく。

 それを見てクロスケは楽しそうに「にゃん、にゃん」と鳴きながら軽快に長い尻尾を揺らしていた。

 



 光が飛び立つ蛍のように辺りへと散っていくと、辺りから大きな拍手が沸き起こった。指笛に拍手。僕はそれに答えるかのように八方へと軽くお辞儀をする。

「すごいですねぇ。兄貴。兄貴は魔法使いだったんですかい?」

「まぁね」

 照れくさかったので、誰とも視線を交わさず俯き気味で定位置へと着席すると目の前の料理に再び手を付け始めた。先ほどのごたごたでまた腹が減ってきたのだ。

「そんな」

 対照的に美帆は突っ立ったままだった。小さな力強い瞳はこれでもかというほど見開かれ、肩が気がつかないほどに小さく震えている。

「そんな、こと有り得るわけが無い。同い年なのに。私と同い年なのに」

「美帆りん。世界は広いんだ。」

「うるさい。クロスケは黙ってて」

 美帆は非常に取り乱しているご様子で、クロスケはその言葉を聞くと「にゃん」と一つ鳴いてその姿を消した。

 否定の言葉は呼び出しの解消につながると、イコ爺の教科書に書いてあったっけ。

「君おかしいよ。そんなはず無い。何今の魔法力は。これじゃあ。まるで私が道端の雑草のようじゃない。信じられない。お姉ちゃんよりも上。えっ、でもそれじゃあ、アドっちは」

「もう、いいから座れよ」

 まったく疲れる女だ。

 美帆の尋常ならざる態度に再び衆目の視線が集まりはじめ、それが無用な焦りを呼び込む。

「君は危険よ」

「はっ?」

「聞こえなかった君は危険だって。危険なのよ。大きな力を持った存在はそれだけで罪なのよ。分かるかな? だからあなたは誰よりも罪深い。世界中の誰よりも。それがあなたの正体…」

「ああそうですか。もうどうでもいいから帰ってよ。」

 うっとおしい奴だと思わざるをえなかった。

 では私は帰らしてもらいます。といった言葉を期待していた。さすがにこれだけ突き放せば、内包する高い矜持が美帆を放っておかないだろう。

 だが予想した答えがここでも全く外れてしまった。

「そうは、いかない。これからあなたを監視します。お姉ちゃんと同じ道をたどらないように、あなたを監視します」

 はい?

 監視って。ボクナニカシマシタカ。

 流石に疲れていたし、再びイライラしてきた。そして今度はそれを止めてくれそうな、可愛い精霊獣もいない。

「もういい加減、帰れよ。さよううなら。はいはい、もう一生会えないのね。ああ残念、残念。お出口はあちら。道中お気をつけて、」

「ええと、あなたの部屋はどこ? はい、はい。二階の二○五ね。そうだ、一度ホテルに帰って荷物をまとめないと。それから生活必需品をいくつか買い足して、」

 一体こいつは何を言っているのだろうか?

 美帆の呟く単語の一語一語を理解して、慌てる自分がひどく滑稽に思えた。とっぴな行動をとる少女だとは知っていたがさすがに今回ばかりは話が飛躍しすぎだ。

「おい、何を」

 肩を掴んだ瞬間、

「縛れ、その身を十重二十重に繋ぐ呪縛の鎖」

 掴んだ手から僕を抱擁するように流れてくる力はまさしく言生だった。それが相手を拘束する言生であることは容易に想像がつく。

 言生の編集と呼ばれる行為をすると言生に対する感受性が一段と高くなることが一般的に知られている。だからこんなへなちょこな言生に僕みたいなグレイトな男が引っかかっている訳で。おっ、すげぇ。本当に筋繊維一つ動かなないと、なんだか新鮮な感動を覚えたのは現実逃避の一種だったのだろうか。

 やばい笑える。

 この状況笑っちまえる。

 僕はにやにやして周囲から不気味がられながらも、美帆により自らの部屋へと引きずられたのであった。その暴挙を止めてくれる人間は誰もいない。

 少なくともこの場には。


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