第8頁 地獄の花園、世界の縮図
雨粒が傘に当たって、パラパラと音を立てる。
少女は、衣服の裾が濡れるのも構わずしゃがみ込んで、彼方の背中に触れた。
途端、少女の小さな手から、彼の体に伝わってくるものがあった。
―――熱い
その、流れ込むようなものは、水のように全身に伝う。燃えるように熱かったそれは、自己主張をしていた痛覚を柔らかく沈めていった。血もとまり、少女は彼方から手を放して立ち上がる。
「応急処置程度ですが。立って歩くぶんには、問題ないでしょう」
たしかめるように開閉させる少年の右手を、金髪の少女は掴み引っ張り上げた。
慌てて立ち上がり、少女の表情を伺えば、いたずらっぽい笑顔。
「それじゃあ、いきましょうか」
まるで散歩に誘うような気安さに応える暇もなく、少女が傘をくるりとまわした途端、蔦にも構わず『バン!!!』と開かれた塔の扉、その内側に広がる暗黒に、二人は吸い込まれていった。
♢
「うわっ」
間抜けにも着地に失敗し、頭から地面に落下する。
しかしたいした怪我もないことから、彼方は自分がコンクリなどではない、柔らかな草花生い茂る土の上に降りたことに気付いた。あわてて目線をあげると
「………うわ…」
先ほどとは違う意味で、その言葉は零れた。
真っ赤な花が地平線の果てまで咲き乱れ、風もないのにゆらゆらとその身を震わせている。
空には満月。先ほどまで天を覆っていた雨雲は、一つもない。
その月光を帯びて花はまるで、なにか魔力でもやどしているように妖しく光っていた。
「紅い、海みたいだ」
その例えは、言い得て妙である。群れるように支え合うように並べ生える赤い花。
「美しいでしょう?リコリス、と言いますの」
ふと気づけば、隣に少女が微笑を湛えていた。右手に傘、左手は彼方のそれをしっかり握っている。
「日本語では、そう。曼珠沙華、と言いましたかしら」
「……そっか、これ、彼岸花か」
少女に言われ、たしかによく秋口に見る花だと気づいた。
「って、そうじゃなくて。ここ、何処です?」
「後ろを御覧なさい」
誘われ、振り返りそして少年は、硬直した。
「な、あに。これ」
今夜は驚きの連続だった。現実離れした出来事のラッシュだったが、これは極め付きだ。
表の塔を覆っていた蔦のような紐が、巨大な建築物を宙に浮かせている。
無数に伸び、下の地面ごとえぐり取るようにして無理やり浮かばせた、というような見た目のそれは、城のようにも、屋敷のようにも思えた。絡みつくように地面を這い、建物には一切触れず、どこか羽のような形をもって包み込んでいる、謎の蔦。
「ふふ、驚きました?あれが『世界の縮図』を収める『図書廻廊』。その『最高禁忌』と此岸を繋ぐ、数少ない一柱―――」
少女は妖艶に、そして凄絶に、笑った。
「ようこそ、『オルフェウス(Ὀρφεύς)』へ」
♢
少女が傘を閉じた途端(未だ開いていたのか、とぼんやりそれを目で追う)、するりと地面から伸びていた蔦の一本が伸び、二人の方に伸びてきた。
「掴みなさい」
言われるがままに彼方がそれを握りしめると、ぐい、と力強く引っ張られ、彼方は本日3度目の間抜けな悲鳴をあげることになる。
三度地面に足を付けた時、彼方は思った。
「地に足をつけてるって、すばらしい…」
「なにを地面に話しかけてるんですの?はやくいらっしゃいな」
いつの間にか先に立っていた少女を、あわてて追いかける。
小走りになりながらふと、今踏みしめる地面は宙吊りの、細い糸に支えられたものだということに一瞬足をとめそうになった。が、地面が崩れることも、1ミリの揺れもないことに安堵する。
と、目前で少女が、巨大な建造物の扉に手を添えていた。
何か、呟いている。
「あの―――」
しかし、話しかけてはいけないオーラを漂わせるその背中を、見つめることしかできない。
「…『我が名はニガヨモギ。我が名は魔女。我が名は罪人』」
それは、詠唱のようだった。
「『我が恋人は王子。我が恋人は脱獄囚。我が恋人は合わせ鏡』」
あるいは、童話を語る母のよう。
「『我が子は妹。我が子は悪魔。我が子は七の十字架の元に生まれたり』」
あるいは伝承を談る、吟遊詩人がごとく。
「……『世界を、君のものに』」
最後に、重々しく呟いた。
すると、重い音を立てて扉が開く。中は冷たい空気が流れ、闇に包まれていた。
彼方は、思う。
―――本当に、ここに僕が足を踏み入れていいのだろうか、と。
「…今、私が唱えていた言葉、聞こえました?」
金髪の少女は、振り返らぬままに問う。
「え…、うん。世界を君のものに、とかでしょう」
戸惑いつつも丁寧に応えると、「そう」と少女が、笑んだ、気がした。
「ならば、安心なさい。あなたに此処に足を踏み入れる権利は、確かにあるはずですから」
そういって、再びこちらの手を取った。
「わたくしの名前は海王夜アテネ。世界の縮図を記録する者ですわ」
大層な肩書と名前を、誇らしげに言う少女が、その笑顔が。
なにより美しいと、彼方は思った。
「あなたの名前を、教えてくださいますか?」
問われ我に返り、少年は背筋を正す。
「ぼ、僕は雨宮彼方、です」
「―――そう、カナタというの。いい名前ね」
少年の頭を撫でる手は、優しい。その母性的なしぐさに、またもや涙ぐみそうな自分に慌てて自制。
それを知ってか知らずか、少女はくすり、と笑って、問うた。
「カナタ、あなたの望みは、なあに?」