第4頁 ア行のふたり
岸谷高校の始業時間は8時30分、そのぎりぎりに青川実は登校する。マウンテンバイクの運転、その速度で彼女に右に出る者は、少なくとも同年代にはいない(本人談)。
「ちっ………………こくぅぅうぅぅぅぅ!!!」
校庭に砂煙を巻き上げ、彼女は今日も朝礼ぎりぎりに正門をくぐった。
昇降口に(良い子は真似をしてはいけないが)足となった道具をうっちゃり、実は素早く下駄箱で履き替えると、廊下を風のように駆け抜けた。『廊下は走るな!』と書かれたポップなカラーリングのポスターが煽られて剥がれ落ちる。それを拾って丁寧に貼り直し、前方を走る少女を再認しくすり、と笑った彼方は、己もそのあとに続いた。
「お!青川と雨宮、相変わらずぎりぎりだなー」
「彼方君!また裏門使ったでしょ。昇降口で会わなかったもん」
「あはは…そっちの方が近いものですから」
「校則違反だぞー学級委員?」
賑々しく彼方と実を取り巻く友人達。二人は出席番号も席も近いため、同じクラスとなり早い段階から、近しい間柄となった。
話しかけたのは実からだった。
入学式には艶やかに咲いていた桜がすべて裸にされてしまうくらいに、雨の日が続いていた。
彼方はアルバイトが急きょ休みとなり、かといって家に帰る気にもなれず学校に居残っていた。
教室の己の席は、窓際の最前列。外の雨を憂鬱そうに見ていると、扉が開く音がした。
「あれ?雨宮君残ってたんだ」
そこにいた女生徒はクラスメイト、という程度にしか記憶は無く。
「え、ええ。あなたは部活ですか?」
と問うと、苦笑と思しき表情を、相手はとる。
「青川実。あなたの隣席、男女混合出席番号ではあなたの前です。雨宮彼方君?」
皮肉のように、それでも陰湿さを感じさせない口調は心地よかった。外の天候とは、大違いだ。
「私は、ちょっと調べものがあってね。用は済んだから、これから帰ろうと思うわ。雨宮君は?」
「僕は、もう少し残ろうと思います」
「…用事?」
「いえ、特に理由は」
淡々と聞かれたことにだけ答えるさまは、丁寧ではあるが冷めた口調なのは明らかで。
それは彼方が8年間で身につけた処世術だ。
誰も傷つけず、必要以上に踏み込み合わなくするための、真綿でひいた防御線。
やんわりと拒絶を示せば、必要以上に関心も反感も得ない。それで、よかった。
けれど、青川実は彼方の知る人種ではなかったのだ。
「雨宮君って、自分が嫌いなんだね」
降ってわいた、言葉の刃。
「雨、嫌いなんでしょ?」
そういいながら少女は、がらりと窓を開けた。途端、ガラスで遮られていた雨粒が己を、少女を、乱れ打つ。
「うわ、ちょ、青川さ……」
「雨宮君、分かる?雨って、たくさんだとこんなに痛いんだよ!」
水をはじく肌は白く、大きく広げた腕は細い。
実は、子供が水遊びをするようにはしゃいでいる。笑いながら、彼女は言った。
「一粒では、だあれも気に留めないのにね」
残酷に、女神のように慈しんで。
「雨宮君は、何を守りたいの?それは一人で守れるものなの?」
―――それとも、自分を守りたいだけなの?
痛かった。胸の傷が。雨粒のせいでなく。焼けるように、絡みつく。
それは過去であり、現在の言霊。
「…躱すだけじゃ、だれも救えないよ」
それ以来、実はなにかと彼方に構う。いつの間にか呼び方も「雨宮君」から「彼方君」になり、気づけば一人でとっていた昼食を彼女の友人達と食べるのが習慣になっていた。
青川実はとくに何かが秀でているわけではない、普通の人間である。
成績も中の上、顔も容姿も飛びぬけて美人でも、不細工でもない、友人の人数もそれなりだ。
しかしなぜか実といさかいを起こすものはいなかった。彼女に話しかけられれば大概は笑顔で、彼女の質問に答える―――例え直前まで、彼女の陰口を叩いていても、だ。それは特異というより
「異質ですよ、あなた」
雨を腕で防ぎ視界を守りながら、少年は問うた。
反対に無防備に、窓辺で水浴びをする少女は笑っている。
「あなたが質問すれば、だれでも真実を答えてしまう。それも、快く。あれは奇術かなにかにしか思えません」
「えー、私の人徳ゆえとか、考えてくれないの?」
「考えませんね」
ショックー、などとひとりごちながらくすくす、と笑う少女を、彼方は睨み付ける。
「見覚えがあるんですよ、その異質なチカラに」
「…それは、海王夜家のお嬢様のことかな?」
今度こそ、心臓が刺された。そう誤認するほどの痛み。覚えず胸を押さえる。自分でアイロンがけしたシャツが、ぐしゃり、と握られ台無しだ。
「…なんで、あなたがそれを…?」
「私としては、あなたがなぜそれを知っているか、の方が気になるかなあ」
未だ笑いを止めぬクラスメイト、不愉快だったそれは彼の中で不気味にまで昇格された。脳裏に在るのは、8年前の記憶。家出、と一言で片付けるには、あまりにも色々なことがありすぎた数ヶ月。そしてそこで出会った彼の女神と、その最期。一生かけても見つけ出して八つ裂きにしたい、曲者の下卑た笑み。
「…あんたも、あの賊の仲間かなんかか?」
「…さあ、どうだろうね?」
その返事が為されるや否や、彼の久方ぶりに奮われる拳。それは力任せではない、ほんの早足で相手に近寄っただけにしか見えないような、自然な動き。けれど、かつて兄が父に傷害を負わせたような、鋭さを持って。
だがしかし、それを青川実は掌一つで止める。
「無駄だよ、8年前から多少の進歩はしてるみたいだけど、まだまだだね」
「…どこのテニス漫画の真似ですか」
むかつく、と吐いて再度間合いを取ろうとする、が、
「!?」
「だーめ。離さないよ?話の途中だもん」
骨がきしむほどにこちらの拳を握りしめ、動きを止める姿はやはり『異質』、そう彼方は感じた。
この世界の、否、数多ある平行世界すべてにおいて、その世界のルールから逸脱した『異質』な者達がいる。そいつらは彼の女神が管理する『世界を収める』扉を狙っている。女神と過ごした数ヶ月で、彼方は『異質』を探知する力を授かり、鍛えられていた。それは女神との別離の後も彼を助けた。日常を過ごす中で、彼は度々『異質』を抱えた者達と関わった。それは路頭のホームレスだったり、道を尋ねてきた外国人だったり、バイト先で仲良くなった少女だったり。あるものは裏路地に連れ込みタコ殴りにし、あるものは強姦し、あるものは美貌を盾に迫ってきた。それらを殴り返し、また陰部を切断し、また拐かし返して。そのたび彼方は訊ねていた。そしてまた、目の前の少女にもその問いを繰り返す。
「あなたの狙いは、『図書廻廊』ですか?」