第3頁 雨宮彼方の家庭事情
雨宮彼方の家庭とは、すなわち重荷である。
両親が散らかした酒の瓶缶、当然中身は空。それを飲んだ男女はうつろな目でテレビを見つめていた。
掃除などほとんどされない狭い部屋の畳は黒ずんで、衛生的とは対極の位置にありそうだ。
家計を支えていたのは、年の離れた兄。彼方が物心ついたころには、中学を卒業してすぐ働き始めていた。
1日中、ごみ収集から夜のいかがわしい酒場の仕事まで、多くの職種で稼いでいた兄。中卒で雇ってくれるところなど危険な場所も多いだろうに、それでも愚痴もこぼさず稼ぎに出てゆく、彼の姿を見て彼方は育った。
兄は自分には優しかった。いや、両親に冷たく当たっていたわけではない。ただ、どうしようもない諦めがにじんでいた。給料をおろして、家賃やら光熱費やら、最低限の生活費を差し引いた残りはすべて、彼らの酒代に変わる。未息子にすらまともに食事を与えない始末。兄がバイト先から賞味期限近い食材やら菓子やらを持ってこれたのが、唯一の救いだ。しけったクッキーを4等分して、そのうちふたつを、そっと居間の机に置く自分を兄は痛ましげに見ていた。
兄が一度だけ、両親に怒鳴ったことがある。彼方が6歳の誕生日、両親が何故か有していた、裏のコネを使って仕事を始めた日。その年にして聡く、身体能力も高かった彼方は目立たないながらも職場で重宝され、多額の給料を貰えた。両親は喜んだが、兄は激昂した。けれど、それを諌めたのもまた彼方だった。
「にーちゃんばっかりつらいのはやだから、ぼくもはたらくんだ!ぼくもはたらけば、にーちゃんがじゆうになれるって、とーさんが!」
細い身体を酷使して昼夜働く兄を、幼い彼なりに心配した精一杯の結論。けれど兄は理解していた、その純な子供の心を、両親は利用したのだ。震えながら主張する愛弟の背後で、男女はにたにたと、笑っていたのだ。
「ちょっとお金が要り用になってね。彼方君自身の希望でもあるんだ、問題ないだろう?」
そう嗤う父親を、兄は叫びながら殴った。拳からも父の頭からも血が出ても、やめなかった。ぴくりとも動かなくなって、ようやっと兄は止まった。
「……っ」
響く嗚咽、その一部始終を見届けた母は、終始無表情で。
そのまま無言で母は父を背負い、兄を連れて車に乗って何処かへ行ってしまった。
その日から、兄は家に帰らなくなった。
両親は翌日の朝には、何事もなかったかのように帰ってきていた。父は頭に包帯を巻いていたけど、それ以外は変わらずけろりとしていた。
「兄さんは自由になったんだよ。彼方君が頑張れば、その分彼の幸せは続くからね」
父は兄に暴行を受けた日以来―――いや、彼方に仕事を紹介したその日から、以前の飲んだくれた日々とは一線を画す活発さを見せた。身なりを整えて酒を断ち、朝からいつもどこかへ行くようになった。母は相変わらず家にこもっていたが、やはり酒をやめて自室にこもり、何かしているようだった。双方の仕事の内容は彼方には知らされなかったが、彼方に仕事を紹介したコネのことといい、まともな商売をしているとは思えなかった。それでもよかった。いつも自分と兄に背を向けて、畳に寝そべる酒臭い親よりずっとよかった。兄がこの場にいないことだけがさびしくはあったのだけれど。
学年が上がり小学3年生、8歳の時のこと。彼方は法律というものをはっきり知った時、兄は逮捕されているのではないか、と思った。
それ以前にも漠然とあった発想が、社会科の授業で得た具体的な刑法の知識でよりリアルに想定され、その日は体の震えが止まらなかった。
「兄さんは自由になれたの、それとも、警察に捕まったの?」
その夜遅く、帰宅した父に彼方は尋ねると父は間を置き、そして微笑んだ。
「彼方君。うちで働きづめにされるより、ムショであったかい布団と飯にありつける方がいい、という発想はないのかい?」
ぶち、という音は、勘忍袋が切れたのか、自分で口内を噛み千切ったか。
そして家を飛び出して、数か月ほど彼方は家出をするわけだが。
その期間での出会いと別れは、のちほど詳しく語るとしよう。
家出を終えて、何事もなかったように日々を過ごす彼方は、どこか冷めていた。まるで心を凍らせているようだった。彼方にとって生きる意味はほとんどないに等しく、義務のように収入を家に収め、自分に必要最低限の学費やらなんやらも己で稼いだ。家出から戻って気づいたが、父の仕事とやらの収入はほとんど家に入っておらず、兄と思しき人物からの仕送りで賄われていたことを知った。それは兄が刑務所入りしているわけではないことを示す、兄が自由かつ存命であるという希望を持つ唯一の憑代で。彼方は銀行で、通帳に自分の職場以外からの振込を見つけるたびに、そのときだけ、心から微笑んだ。
そして雨宮彼方が16歳を迎えた冬の始まりに、彼の重荷は、崩壊した。