第29頁 転校初日
おひさしぶりです、短め。
「今日から、新しいクラスメイトが来るわよ~」
ほのぼのとした女教師の声で告げられた告知に、ざわざわと生徒たちが騒ぎだすのを扉越しに聞いて、彼方は緊張に身を凍らせた。
彼方にとっての学校は『義務』だ。普通でない家に生まれ、普通でない体験を経て普通でないモノを知る自分が唯一、かつての常識の中に在れる場所。わずらわしくも、外野として癒されることが許される。そんな場所だった。
けれど今、彼方は『普通』であることを許容され、むしろ望まれたのだ。飛びぬけて金持ちと秀才の多い学園ではあるが、少なくとも廻廊やオルフェウスについて知る者達はほとんどいないという保証がある。逆説、彼方の処世術たる壁作りは不要ということだ。
「さあ、入って」
担任の声に従って扉を開ける直前、無意識にポケットに手を忍ばせる。そこには先刻、実に授けられた栞。
『栞って、枝折りって意味もあるんだよ。ソレが君の生きる枝折りになればなあ、なんて』
照れたようにはにかんだ少女を瞼裏に浮かべ、すぐに打ち消す。そして、緊張に伏し目がちだった眼を、あげた。
ずらりと並ぶ、顔、顔、顔。見慣れないのがほとんどで、当たり前かと自嘲する。名家の使用人にのみ許された執事服を纏って席に着く者、学校の制服である暗めの緑を基調としたブレザーの者、やはり濃緑のブレザーと赤いチェックのスカートをめいめいに着こなした女子たち。されど誰もが上品に、かつ興味に瞳を輝かせ新参者を舐めるように見ていた。
「あ、と。雨宮君、こっちきて」
「は、はい」
入口に立ち尽くしていた彼方を担任が手招きし、ようやっと自己紹介にいたる。
「雨宮、彼方です。よろしくお願い致します」
チョークで黒板に名前を書き、45度の御辞儀で挨拶をすれば、賑々しい挨拶の声と歓待の拍手。
「ようこそー、蔦紡学園高等部、1年5組へ」
担任の女教師―――事前の挨拶で笹江 道子と名乗られていたのを今思い出した―――に示された窓際の最前列に座ると、さっそく隣りの男子生徒が話しかけてきた。
「はじめまして。雨宮君。ぼくは飯島 快、よろしく」
「っは、はい!よろしくお願いしますっ」
差し出された手を取り、握手をしていると今度は背後から声が。
「おやまあ、先を越されちゃったよ、巳波」
「快くんは社交的だからねえ、お姉ちゃんの乃と違って」
「転校生くんもなかなか、乃様並みに内気のようだがね」
「そだねー、でも転校初日はこんなもんでしょ」
「ふむ、私には転校という経験がないので分かり得ない所感だが……おっと、転校生くんが呆けているぞ?緊張の極みかね?」
「ふへっ」
後列に座っていた女生徒二人の、姦しくもほのぼのとしたやりとりをぼんやり見ていると、不意に片割れの女子に額へ触れられた。冷たい右手が触れ、緊張に高めだった体温に心地いい……ではなくて。
「あああ、あのっ。淑女の方が僕のような庶民に触れては、だめかとっ」
半ば叫びながら後退、抗議すればくすくすと笑われる。
「おやお堅い。海王夜理事長の執事くんは噂通りの純情一途系わんこのようだ」
「……どんな噂ですか」
若干胡乱な目で抗議すれば、その茶髪をサイドテールにした少女に笑われて。
「それは自分の眼と耳で確認するといい。ボクはそこで笑ってる快坊ちゃんのメイドで、水元静だ。決してヴァイオリンが趣味でも、一日三回お風呂にはいる習慣もないのであしからず」
「で、快くんと静っちの幼馴染してます、丹波巳波です!よろしくね!」
静と巳波にそれぞれ別の手を取られ握手をし、「雨宮、カナタです」となんとか挨拶をした彼方。そんな彼らに「挨拶は昼休みでね~」とやんわり注意した笹江女史は、手早くホームルームを終えて教室を出て行った。
途端、教室中ほとんどの生徒が彼方につめよってあれやこれやと問いかける。特に多いのは主人たるアテネとの出会いで、廻廊のことは口にできない手前うまく取り繕うのに苦労した。それでも、予鈴とともに小波のように生徒たちが去ったあと、心地よい疲労だけがあったのは内心、この状況を楽しんでいるからだろう。以前の彼方なら考えられない、『普通』の学生生活。
窓から差し込む朝日の眩しさと温かさに、彼方は今後の希望だけを見出す程度には浮かれていた。