第25頁 朧月夜の闇ノ娘
真冬の雪に映える桜、その樹の下に少女は佇んでいる。淡い桜色の着物にしどけなくたらした長い黒髪が波を打って流れ落ちて、腰の下まで降りていた。雪駄を履く素足、純白の手足と鼻の頭はみな寒さで紅潮している。はあ、と吐いたため息は先から白煙と化し、少女が掛けた眼鏡を曇らせた。
真っ赤な弦のそれを、不意に取り上げる手がある。荒れた手は水仕事に慣れたそれで、奪った眼鏡のレンズが曇っていると分かるとすぐにポケットから眼鏡ふきを取り出した。用意よく備えたそれでレンズを拭いて、自らが掛けようとした途端ふたたび、着物の少女に奪われ返された。
無言で眼鏡ふきをポケットにしまい直し、少女を睨み付けるでもなく傍らにたたずむのも、また少女。同じ着物でも紺色のそれは、白いエプロンとカチューシャで昭和のハイカラメイドを彷彿とさせた。枝のように細い、少女が眼鏡を掛けて月を見ている。くすくす、くすくす、何が楽しいのか忍び笑いながら。
この少女はいつも笑っている。楽しくもないのに、うれしくもないのに、すべてを笑顔に変換することで『世界』に抗っている。だから、何をされても彼女は止めない。それで少しでも、少女が本当に笑えるなら。
真っ白な雪に、薄い色素の花びらが落ちて、とても奇麗だった。
♢
火鷹家別宅のキッチンで、彼方は一人皿を洗っていた。年越しカウントダウンを見届けてすぐにステラもアテネも眠ってしまい、京佑とセラフと唯花が世話を焼いていた。彼方は夕食や、食後に紅白を見ながら皆で飲んだ紅茶のカップを片づけるよう任ぜられたのだ。客用ベッドの場所は唯花の方が知っているから、と。
「これで……さいごっと」
最後の皿を洗い終え、全て乾燥機に仕舞ったところでふと、目線が背後に行く。
「……?」
気配がしたのだ。見えない、何かがいたような。
「……って、霊がいたわけでもあるまいに」
非現実はもうおなかいっぱいだと、一人頭を振りながら廊下を歩きだす。ふと、外に繋がるテラスのある部屋を見つけた。誘うように戸が開け放たれたその部屋に、数歩踏み入って驚く。
テラスの向こう、広がる庭に誰かが立っていた。月光に照らされて尚漆黒の、『影』のような人間が。
よもや賊かと習慣で足音を忍ばせ、彼方はテラスに素早く駆け寄る。『影』はまんじりともせずこちらを見ているようだ。ぱっと、テラスの柵を飛び越えて庭に出れば、二人の距離は三メートルも無い。
「……どちら様ですか?」
「鳶揺家頭首の、使いだ」
問われ、答えた声は重い。特段低いわけでもない少年らしい声が、酷く暗く冷たく感じられた。
「新年の御挨拶を、と。火鷹と海王夜の、頭首殿に」
「あ……では、お二人を起こしますね。とりあえず中にご案内」
「その必要はない」
鋭い、細い刃のような気配の男だった。漆黒の瞳と刈り上げて短い同色の髪、デザインの違う執事服はシャツまで黒く、闇色のロングコートも相まって肌以外は全身墨で描いたような恰好である。彼方に差し出した手すらも、黒い皮手袋に包まれている。その手には、二つの封筒。
「これを、貴君に託せば我の役目は果たされる」
「……手紙?」
そうだ、と首肯する男は、よく見れば声同様幼く、自分と同じくらいの年齢だ。鋭利な気配と服装で分かりにくかったが。少し安堵して、それを受け取ると、少年は素早く踵を返した。
「では、失礼する」
「え……もう?せめて、お茶でもいかがですか?」
「……貴君は、何も知らないのか」
僅か振り向いたその表情は、無。時を刻むのをやめた時計のような、無感動さ。
「鳶揺家の者は必要以上に貴君らと関わってはならない。我らが『闇』に徹してこその、三大名家」
「……は?」
「忌まれ、病まれ、呪われるための一族。スケープゴートのようなものだ」
自嘲するでもなく、教科書を音読するような淡泊さを持って少年は回答する。その最後の言葉に、昼間の京佑の説明が思い出された。
「スケープゴートって……二つもいらないでしょう。それは、雨宮のことじゃ、ないんですか?」
「なにを言っている」
彼方の言がまるで「なぜ赤信号のときはとまるの?」と成人男性に尋ねられたような、不可解極まりないとでもいう表情を少年は取る。あくまで、わずか眉根を寄せる程度のものだったが。
「それは、『三つ杜』の、だろう。三大名家にとって、『三つ杜』は手足。蟻を踏みにじったところで、すぐに、飽くものだ。蹂躙するなら同程度の存在を、人間は欲するもの」
背を向けてわずかこちらを見ていた少年は、足元の雪を鳴らして振り返る。
「それに、雨宮はもう安泰だろう。貴君という『資格』ある後継が見つかったのだから……ああ、でも雨宮はもう、貴君しか生き残りはいないから、その点では少々、苦労するだろうな」
「……あの、あなたは、『三つ杜』ではないのですか?」
疑問をぶつけられると同時、すっと、余計に少年の気配が凍てついた。身震いする彼方を暗い瞳に映して、少年は回答する。
「我は『資格』なき『三つ杜』。華坂京佑らのように、な」
「……京佑、さんも?」
「自分は『三つ杜』ではない」と笑顔で答えた彼。
「そんなこと、一言も言ってなかった……」
「言えんだろう。『資格』なき『三つ杜』の人間がどんな目に合うか、貴君も知っているだろう」
忌まれ、病まれ……まるで、先程彼が吐いた言と同じこと。
「それでも、雨宮が不在のうちはまだよかった。どんなに『資格』なきものばかり生まれても、除籍されてなお晒し者にされている雨宮があれば、自分はそれよりましだと耐えられる。けれど」
「……僕が、来てしまった」
間違っているのだろうか。彼方は自問する。
均衡を崩し、アテネや唯花や、友人になってくれた京佑たちを苦しめるだけの存在の僕がここに来たのは、本当はとても身の程知らずの―――
「雨宮の筆頭よ、海王夜にこれからも仕えるならば、己がどこまで踏み込んでいいのか。そこだけ、気をつけろ」
では、と呟き、少年はその場を去ってゆく。漆黒の背中を見つめて彼方は、茫然と立ち尽くしていた。
深々と、降り積もる雪。それが薄く肩にも積もったころ、不意に背中が叩かれる。
「おわっぷ」
ぼすっ、と勢いよく地面に顔面から倒れた彼方を、半ばあきれた表情で起こしてくれたのは京佑だった。
「皿洗ったら談話室にこいっつったのに、全然来ないから心配したぞ?そしたら、この寒い中こんなところで……何してたんだ?」
言いながら、彼方が握りしめていた封筒に気付いて眉をしかめた京佑を見て、やはり察しがいいなと彼方は思う。思いながら差し出した封を、片方だけ京佑は受け取った。
「そっちは、お前の役目だろ?」
『海王夜 アテネ様』と記された封筒。裏には何かの鳥を模した蝋での封と共に、『鳶揺 咲愛』と記名されている。
「……僕で、いいんでしょうか」
「あん?」
首をひねる京佑の眼を直視できず、庭園の雪化粧に目線を逃がしつつ、彼方は問う。
「これを届けてくださった方に、色々伺ったんです。そしたら、僕って邪魔者でしかないのかなって」
「……はあ?」
アテネの姿が脳裏に浮かぶ。七年前、そして再会してからの一週間と少しの姿を。
「鳶揺のおうちの方が、火鷹や海王夜と関われないのは『惨劇』が原因なのかもしれませんけれど、雨宮がスケープゴートに成り得たのは一族がすでに居なかったから、罪悪感を感じないで負の感情をぶつけられたんですよね」
まるで、テレビ越しにしか知らない犯罪者や、小説や漫画の中の悪役を、疎んで叩いてストレスを発散するみたいに。
「『これは悪い奴だからどんなに貶めてもいい』っていう存在がないと、人間は立ち行かないですもんね。……でも、僕がここにきてしまったら」
『的』は、失われる。
「でも、僕という生き残りが新たなスケープゴートになるかもしれない。それならそれでいいんです。でも」
もし微塵でも、京佑やセラフや唯花、それに主人のアテネらに迷惑が掛かるなら。それに、まだ見ぬ現存する『資格』なき『三つ杜』の人々の、今の平穏を乱してしまうなら。
「僕がこの世界に介入するのは、とても邪魔でしかないんじゃないかって、思うんです」
京佑は、答えない。呆れているのか、無言の肯定か。どちらにしろ彼方は、手にしている封筒は彼に託すべきだと思って、向き直った。
そして、目を見開く。
「……みのりんの言い分、理解したわ。こりゃ、根深そうだ」
京佑は怒るでも悲しむでも、ましてや呆れているわけでもなくむしろ、どこか楽しそうにすら見える苦笑を浮かべていた。まるで、手のかかる弟を目の前にしているような。手を焼くのが楽しい、とでも言うような。そんなあたたかい目を、実兄にすら向けられたことのない彼方は無意識に頬が紅潮する。
「とりあえず、誤解はさっさと解く主義なので言っちまうが彼方よ。『惨劇』から100年も経って未だ俺らが、顔も知らねえ先祖たちのならわしを守っていると思うか?答えは、否だ」
がっしりと、力強く京佑は彼方の肩を握る。そらすのを許さない強い目線で、しかし責めるわけでもなく根気強く教えるような、くだけた口調だ。
「たしかに今現在に至るまで、『花宮』も『月宮』も『資格』がある人間は極端に少ないし、だから俺等みたいに『資格』がないやつらの中で使用人を賄っているが……別に『資格』がなければ疎まれるってことはない。そりゃ、『惨劇』の直後しばらくは『資格』がある生き残りは重宝されたし、ボロボロの体勢を整えるために『資格』がないやつらがこき使われる傾向にあったが……今はさっきも言ったように、『資格』があるやつの方が絶対的に少ない。人口比率が代われば、自然対応も変わってくる。『資格』がないやつには『図書廻廊』の存在なんて欠片も知らせなかった100年前と比べたら、情報漏えいなんてもんじゃないだろ?今の俺たちは」
「……で、でも、僕っていう『資格』がある人間が現れたら、状況が変わっちゃうかもしれないじゃないですかっ。それに、生け贄だった雨宮が仕えるなんて噂されたら、アテネお嬢様の顔に泥を塗ってしまう……」
「なあ、彼方よ。言い訳はよそうぜ?お前は、本当はそんなことを恐れているわけじゃないだろう」
京佑の言に、彼方は反射的に身を震わせる。
そうだ、本当は、本当に恐れているのは……
「『雨宮』の生き残りとして評価されるのが、恐いんだろ?傷付けられるのが、鳶揺の連中みたいに触れ合うことも許されない底辺に設置されるかもしれないって気づいて、恐いんだよな」
漆黒の背中を、泥濘のような瞳の光を思い出す。それは、かつて対峙した伯父の眼の色に、よく似ていた。忌まれることに諦めきった、畜生に落とされた者の、目。
「……僕は、離れたく、ないです、みんなと」
本音が零れたのは、あんまり京佑が優しくて、兄を思い出してしまったから。優しく慈しんでくれた彼すらも、懺悔の眼でいつも彼方を見ていたのに、見守るように彼方自身の言葉を待ってくれるから。
「ねーちゃんと、京佑さんと、セラさんと、唯花さんと、ステラさんと……みんなと、離れ離れになりたく、ない。一人は、もういやなんです」
「そうか」
リズミカルに、あやすように背中を叩かれて、封筒をぐしゃりと握りしめる。
「おいおい、まーたシワになるだろうが」
「……すみま、せん」
鼻を鳴らして謝罪すると、ポケットティッシュを渡された。ありがたく頂戴すると、
「まあ、この程度しかできないけどさ。お前を悪く言うやつがいたら、俺が言ってやるさ。彼方は泣き虫だけどすげえ素直な、いいやつだって」
そう言って眩しく笑う京佑。それを見、数度瞬いてから彼方は言う。
「手紙、ちゃんと渡します。まっすぐにしてからだけど」
「おう!じゃあ、アイロンでもかけるか?」
「それじゃあ、蝋が溶けちゃいますよ」
言いあいながら、並んで屋敷の中にはいっていく姿を、樹の陰から見ている者が、いた。
曇りない二人の笑顔を、彼方の微笑を、憎々しく思う、者が。
♢
「……使えないわね」
言いながら、咲愛は己の執事に水晶玉を投げ捨てた。ごつり、と重い音と共に水晶玉は執事の額に傷をつくり、床に落ちる。だらりと垂れた血も拭かずに、執事の少年は主人に謝罪した。
「面目ない」
「あんたに話術がないと分かっていながら、頼んだのが間違いだったわ。部活動の勧誘もできなそうよね」
「部活動は、経験がない」
「そんなこと聞いてないわよっ」
金切り声をあげて少女は、自らの長い髪をかき乱した。
「ったく、調子が狂う!いいからさっさと出てって。火鷹邸に仕掛けた傀儡のカメラ、ばれないうちに回収しといてよね」
「心得た」
首肯し、長いコートを翻して去る少年を忌々しげに見つめる少女は、転がったままの水晶玉に気付く。
「気が利かないったらありゃしないわ、拾ってきなさいよ」
ぶつぶつと一通り、執事への文句を言ってから常の通りの無意味な笑顔を口元に浮かべる。何事か呪詛を呟いて、先刻、傀儡を介して観た雨宮の少年の様子を巻き戻して、見る。
女性的な顔立ちと、変声期前らしい中途半端に低いが不愉快ではない、声。まっすぐな黒髪と黒曜石の瞳は、彼女とよく似た彩だ。光の中で生かしておくにはもったいないと、舐めるようにその容姿を、動作を見ながら少女はほくそ笑む。
少女のいる部屋、狭い座敷の隅に、メイドが控えている。赤い弦の眼鏡をかけた、黒髪の少女だ。短いポニーテールにした己の髪と瞳の色は、少女の血縁である証。紺色の地味なつくりの己の着物と、艶やかなかさねの着物を着た妹を見比べながら、メイドは思う。彼女が嘘の笑い顔をやめるのは、いつも彼を前にしたときだけだ。少年の前では怒ってばかりで、先刻のように怪我をさせるのも珍しくない。正直、かわいそうだとは思う。それでも羨ましいと思うのは、それが自分には決して向けてくれない、生の感情だからだろう。執事の少年には悪いが、彼の存在もまた彼女の壊れかけている心を引き留める、手綱なのだ。
そして、そのもう一つの手綱。少しにぶい執事の少年が出て行った廊下の先には、冬にだけ咲くあの桜の花が咲いている。あの桜を妹も、彼も愛している。あれだけが『裏切り者』の一族に許された化粧だからだ。
「くすくすくす……ねえ、お姉さま。私やっぱりこの子、ほしいわ。あの海王夜の女神の傍なんかより、この掃き溜めのような世界にこそ、彼は似合うと思わない?」
艶やかに、泥濘のような危うい魅力を振りまいて、鳶揺家頭首、鳶揺 咲愛は微笑む。それを受けて、鳶揺 山梔子はしずかに跪いて頷いた。