第19頁 そこに愛はありません
何も知らないことは、恐怖だ。彼方は知っている。
愛した少女に忽然と去られて、親にも捨てられて、手探りで生きた7年で。
だから、皇が久方ぶりに生きた眼をして山を登るのを見て、「無理もない」と思ってしまう自分もいる。
昨日の、父からの手紙は皇の手にもすでに渡っていた。家のPCメールに届いていたらしい。
帰宅した彼方に飛び掛からんばかりにすり寄って、酒臭い息を吐きながら彼は言った。
「この人に会えば、僕のことが僕は、分かるだろうか」
『雨宮』に関する記憶を全て抜き取られた皇には、両親や親戚たちの記憶もない。ゆえに、彼の生活基盤はその『見知らぬ親戚』から与えられる金にある。『働かなくていいから、何もするな』それだけを言われ続けたと、上書きされた彼の記憶にはあるらしい。
幼いころから自分を突き動かしていた、血族への憎しみもその対象の記憶も、それを分かち合った相棒の顔も忘れて、独り残されて。転がり込んできた『友人の息子』の金銭的世話だけをして、小間使いにして。自分はあふれんばかりの金を、当てもなく無駄遣いする日々。
「どうして僕は生きてるのか、分からなかった。死ぬ勇気がないから、生きてみただけで」
でも、今日の手紙で彼は手がかりを得た。覚えていない片割れに親近感を覚えてしまうのは、やはり双子の絆というやつか。
学校を終えて、車で迎えに来た皇と共に、例の山に向かう。
およそ7年前から何も変わっていない。違うのは、樹が丸裸ということか。
「ほら、はやく」
引きこもり街道まっしぐらだったため、体力の低下があきらかな皇の背を押して、ようやく頂上に着いた。そこに、いたのは
「……父さん?」
何にも縛られていない塔の傍で、夕焼けを背後に立つ、男の背中。
男は、言う。
「『オルフェウス』は、ギリシア神話で冥界に自分の恋人を取り戻しに行ったのに、『振り返ってはいけない』って約束を守れないで取り返し損ねる間抜けな男の話なんだけど。彼方くんは、知ってた?」
「……一応は」
「僕はね、幽さんでない人をもうずっと、ずっと愛しているんだ」
突然、含み笑って父は言う。同時に、塔の影から一人の女が歩み出た。
「……母さん?」
7年前から何も変わらない。適当なジーンズに安物の服、短い髪に囲われた表情は、凪。
「美しくて、怖気を呼ぶほどに美しい女の子。生まれる前から僕はその娘を愛している」
自分の夫があきらかに浮気を称す発言をしているのに、微塵も表情を動かさないこの女を、心底不気味だと思う。そもそも母が無表情を崩したところも、言葉を発したところも見たことがない。
「その娘を手に入れるために必要だから、幽さんと結婚して、彼方くんを産んでもらった。隣くんのことは想定外だったけれど、まあ役に立ってはくれたよね」
「……兄さんを侮辱する気ですか」
「おや、ブラコンは健在かい?」
恐い恐い、と笑う、父。相変わらず表情は見えない。少しずつ傾く夕日に、7年前より少しだけ伸びた髪と輪郭が縁どられている。母は、胡乱に横に立つ。
「それでね。幽さんを生かしている必要が、なくなったんだ。最近さ」
お金ももう、要らないし。言って、父は振り向いた。
その振り向く勢いのままに、手刀で父は母の喉を、裂いた。
赤い花が咲く。血が噴き出す。
正直、予想できている自分がいた。なんでだろ。
ああ、7年前の人傷沙汰で、この人のやり口は分かってるから。
「それでも、母親が傷つけられて、取る態度ですかね……」
ひとりごちる間にも、母がゆっくり倒れる。
それを見て、その流れる血を見て、皇も呆けている。
「これを見て、何か思い出さない?」
含み笑ったまま、父は言う。視線の先には、かつての相棒。
「あんなに殺したのに。その隣りの甥っ子すら。ねえ?ジュウジ」
皇は、答えない。聞こえているのは確かなようで、身を震わせるが、それだけだ。
それをどこか冷めた調子でみつめていたが、やがて父は飽きたかのように嘆息して。
「じゃあ、君ももういいや」
♢
懐に父が手を突っ込んだ瞬間、思わず皇の前に出た。
それでもためらいなく、彼は腕を引き抜き黒いリボルバーを突き付けてくるものだから、やはり非情だな、と苦く笑う。弟も、息子も切って捨てる。それも一重に、『ほしい娘』のためなのか。
「ねーちゃんじゃないなら、別にいいけどさああ」
沈みかけの夕日をねめつけて、彼方は最期の言葉を言ってみる。
「会ってみたくは、あったかな」
「なら、会うまで死ぬな」
短く、言った声は7年前。
夢見心地の中にあった彼方にもしっかり聞き取れた、強風の中でも通る凛とした少女のもの。
容姿は、はじめて見る。
長い金髪。どこかの制服みたいな、赤いスカートと白いシャツ。黒のソックスとローファーは新品同様の輝きを保って、精巧な人形と見まごう顔立ちを人形側に後押ししている。赤い瞳は夕日よりも色濃く、幻想的な美貌の決め手となっていた。同い年ほどのその少女は、大振りの銃を構えている。
「……嗚呼、7年前は直接は会わなかったから、はじめまして、か」
言ったのは、彼方にか。スメラギにか。はたまた、父にか。
「私は、『図書廻廊の守護獣』だ」
♢
「またの名を『世界の縮図の番人』、とも」
「たくさんあるからな、好きな名前で呼んでくれ」
父の言に、なんでもないかのように少女は言う。可憐な外見に似合わない、男らしい態度だ。
「では『守護獣』殿。本日はどのような趣で?」
なんだ、結局それか。とどこかつまらなげ。
「ここで、人間が死ぬのはタブーなんだよね。世界の記録から外れるからさ。そこの女のヒト、死なれちゃ困るんだけど」
「大丈夫ですよ、この人、人間じゃないから」
「は?」
ステレオ。守護獣と、彼方のものだ。
少女めいた笑いを浮かべて、父は答える。
「幽さんは、『オルフェウス』を包んでいた蔦と同じ、門番。作り物なんだ」
のほほんと、父は言う。足元の死体は、放置したままだ。
「正確には、人間を『図書廻廊の守護獣』にする、っていう研究で生まれた人造人間でね。三大名家の、鳶揺って家がしてたらしいよ。その研究所はもうつぶれたんだけど、そこで彼女を引き取って奥さんにもらったんだよね。意思のない女は、必要な子供を産んでもらうのにちょうどよかったから」
「……外道。誰とは、名言しねーけど」
言って、睨む眼光は異形ゆえに鋭い。
「人間でない命を消すなら、逆に此処でないと死体処理に困るってわけか。けど、そこの二人を呼び出す必要は、あったのかよ」
「ありますよ」
責める『守護獣』の荒い口調にも気おされず、遥は銃を持たない方の手を振って見せる。
「皇は腐っても僕の片割れです。それなりに『力』は持ってる。だから」
くい、と。招き猫のような手の動きを見せた時、隣りに立ち尽くしていた皇がまるで、操り糸に引かれたようにグン、と引き寄せられた。それは守護獣の少女の脇をもあっさり通り抜け、遥の横、塔にゴツリと、その全身を弛緩させたままぶつけた。
レンガに当たる、重い音。そのまま、ずるりと壁伝いに倒れて、ぴくりとも動かなくなった。
「……スメラギ?」
答えは、ない。遠すぎて見えないが、死んでいるんだろう。
「……『魂の繋がり(ソウル・リンク)』か。双子ゆえの」
忌々しげに、舌打ちする金髪の少女の声は、一層低い。一方、答える父の方は平然としていた。
「そうです。新しい『オルフェウス(ここ)』の封印がどんな類のものか、これで大体分かりましたし」
「そのために、自分の片割れの命を使い捨てたのか。冷たいんだな、あんた」
「それを分かっていて、本気で止めようとしなかったあなたも大概ですよ、『白き堕天使』さん?」
「……その呼び名は、嫌いだ」
そうですか、と遥は澄まして返す。
彼方は、動けない。先程までの皇のようだ。
彼は、何のためにここに来たか。「自分を知りたい」と、言っていた。
それもかなわず、双子の片割れには人形のように捨てられた。
その傍に、血を流して倒れる母親もまた、父に使い捨てられた人間だ。
人造人間。知らなかったが、納得がいく。息子が旦那を殴り殺す光景すら、彼女は無表情で見守っていた。感情のない人形なら、そういうものなのだろう。
「でも」
目線を、あげる。夕日は、沈んでいた。
坂の傾斜、中腹にたつ少女の肩越しに父が、嗤っているのが見える。
「それでもあなたは母に、皇に、何か思うところはないんですか。二人にはなんの感慨もなく殺せるほどに、思いはないって言うんですか」
「……青いねえ、彼方くんは」
答えは簡潔かつ、残酷だった。
「二人とはそれぞれに、長い付き合いだけど。そこに愛は、なかったよ」