第18頁 聖夜が来る前の日
最終下校時間ギリギリだと、教師に追い立てられて二人は帰路に着く。女神との夢にまで見た再会のチャンス。まさに夢見心地といった体の彼方を送ると言って、実は聞かなかった。
「ゆるみっぱなしのままでしばらく、いてほしいよ」
皮肉かと思ったが、違う違うと彼女は苦笑した。
「アテネと再会したら、君は嫌でも『三つ杜』に復帰せざるをえなくなる。お金持ちの権力持ちたちは、いろいろと陰謀を張り巡らせるのが好きだから……そういう世界にも君は慣れなきゃいけない。ならせめて、師匠が帰国するまでの半年くらいは、『普通』を大事にしていてよ」
君の安全は、私がまもるからさっ、と。相変わらず不透明な笑顔だったが、先刻のアテネによる彼女の説明から、なんとなく察した。三大名家の頭首の側近となれば、気苦労も絶えないのだろう。
同時に、地位も名誉も奪われて、近親相姦という忌み事の末生まれた二人の男を、彼方は思い出す。片方、自分の雇い主、というか義父は今日は『仕事』と言って、彼方が早く帰って来る必要はないと言っていた。……廃人同然となった彼の仕事は、『顔も覚えていない両親とその親族』から定期的に入る預金を、できるだけ使うこと。口座があふれかえるほどに支払われる金額は、『親族』たちの謝罪の気持ちと、第一級犯罪者を満足させておくために彼らが打った手配。あとで、アテネの指示だと知らされた。
「僕ごときが見張らなくても、スメラギの監視はいたんですね」
「まあね。それでも、この町の利権は根こそぎアテネの後見人に持ってかれてたから、せいぜい隣り町から遠視するくらいしか、できなくて」
今回、アテネの側近である実がこの町の高校に入ることも、かなり手こずったという。
「だから、正直彼方くんが傍で張ってくれてたのは、ありがたかったよ。無自覚な『歪み』で暴走されたら、手の打ち様がなかった。君がいるだけで、君の血の、同族の力を感じているだけで大分彼の『歪み』は抑えられていたはずだから」
「……そう、ですか」
少しは、アテネの役に立てていただろうか。
そう、どこか安堵の表情を浮かべる彼方に、「君のマンション、そこでしょ?」と実が足を止めて、指差す。たしかにそこには、見慣れたマンションのゲート。ここに、彼方と皇は同居している。
「じゃあ、また明日ね。彼方くん」
「……はい、青川さん。また、明日」
ゆるゆると手を振りながら去る少女の背中を見ながら、「また明日、なんて。はじめてクラスメイトに言われたな」と彼方は、思った。
♢
ドアを開ける。
玄関に積まれた空き箱は、ケーキやらチョコレートやら菓子類と、プラモデルのそれが半々。
「……はあ」
思わずこぼれた溜め息一つ、そこで己の頬を叩き、気持ちを切り替える。
「彼方です、スメラギ。只今帰りました」
主人は、答えない。フローリングの廊下の先、光の漏れるリビングへの扉は少し、開いていた。
自分のスリッパを空き箱の山から掘り出して、履いてから彼方は歩き出す。一度スリッパを探すのをあきらめて素足で廊下を歩いたところ、酒瓶の欠片を踏んで痛い目を見た。以来、スリッパは必需品だ、彼にとっては。
「只今、帰りました」
再度、断りを入れてから彼方はリビングに入る。途端、酒臭く油臭い部屋の臭いに巻かれる。
7年間、彼方が朝晩換気してもこの臭いは治らない。家主が15の時からこういう生活で、すっかりしみついてしまっているからだ。という、設定らしい。
それでも彼方は、今日も今日とてカーテンと窓を開け、空気を入れ替える。そして、ぶつぶつと独り言を言いながらテレビ画面をぼうっと見つめる皇 十を、「飲み過ぎないでくださいね」とだけ、窘めた。
酒に溺れて、寝るか食べるか酒を飲むかの生活を、彼はずっと繰り返している。風呂は、ときたま気が向いたときだけ。十日に一遍あるかないかだ。部屋の悪臭の一因は彼自身でないかと、彼方は常々思っている。
今の皇 十を見て、復讐心が湧く人間がいたら、弟子入りしたいものだ。
彼方は、割と本気でそう思っている。
彼の身勝手な理論と行動で、女神と彼の楽園は崩壊し、二人は別たれたわけだけれど。それでも、ここまで廃人極めりとされると、哀れにすら思えてしまうのが彼方の欠点にして美徳だ。その素直さこそが、実の言う『大切にしてほしい普通』なのだと彼が気づくのは、もう少し先の話。
とにかく、彼は腑抜けた彼をどうこうする気はなかった。それに、似ていたのだ。酒を舐めながら逃げるように液晶画面に食い入る背中が、働く前の父に。
「当たり前か。双子なんだし」
ひとりごち、今日も叔父にして義父のため、彼方は料理の腕を振るう。食べてもらえた試しは、ないのだけれど。
♢
それから半年。彼方がクラス内で学級委員に選ばれ、友人グループというものに初めて所属できたのは、ほぼ実のおかげだろう。持ち前の社交性と笑顔で、するりと他人の懐に入る様は、彼女の正体を知っても尚、少々不気味ではあったが。それは彼女の苦労ゆえだろうと、思い知らされる。
学校からの帰り道、あるいは休日の買い物途中で。彼方を時にあからさまにつけまわし、時に緊急時にさっそうと現れる形で尾行し。『歪み』を抱える『異質』な者達から、その身を挺して、というのもおこがましい武力で警護してくれた。同い年の、それも女性に守られてばかりなのはやはりしゃくだと、皇が仕事のときに稽古もつけてもらった。
15年の人生で、おそらくはもっとも充実した日々だったと、彼方はそう思えた。
「明日、師匠が帰国する」
日曜の夕方。朝から、使われていない児童公園で彼方は実と武術の組手を重ねていた。『実さんが青川流初段を進呈しよう』と評価される程度には、彼方は強くなっていた。
「んで、明日は学校休んで師匠を空港に迎えに行こうと思うんだよね。そうなると、委員の仕事を全部彼方くんに押し付けることになっちゃうわけで……ごめん!」
「いえ、それは一向に構わないんですけど……やっぱり、僕も一緒にってのは、ダメですよね」
ダメもとで聞いたが、頭を下げていた実が一層、申し訳なさそうに首をふるのに気落ちするのは、隠せなかった。
「ごめん、一応明日は他の名家の頭首たちも空港に来るし、そのあともパーティやらなんやらで忙しいから多分、会えるのはあさって以降かな」
「そう、ですか……いえ、気にしないでください。7年も待てたんです、もう数日伸びたところで」
そう?と安堵したように微笑む実に、彼方は大きくうなずいて胸を張る。
この少女も、常に笑顔を浮かべた裏で傷ついたり悩んだりしているのだ。半年の付き合いだが、分かった。
ならば、彼女の真の姿を知る数少ない……友人として、彼方は少しでも、実の気持ちを軽くしたかった。
面倒見がいいうえ、責任感も大きいのだ、彼女は。
「そういえば、空港ってどこなんですか?羽田とか、成田ですか」
話題をさりげなく転換すると、実は一転、いたずらっぽい笑みで答えた。
「ちーがうよ。海王夜家の本宅は、日本海の或る島を買い取っていてね。そこに、自家用ジェット機で降りるの」
やはり、彼女は並大抵の金持ちではないんだな。と彼方は痛感する。
そして、『夕焼け小焼け』のチャイムを合図に、実と公園の入り口で分かれた。
公園はマンションのすぐ裏手なので、すぐ着く。ゲートをくぐり、ポストを確認する。
ほとんどがダイレクトメールだったが、一枚だけ、ハガキがあった。
それを何気なく彼方は見、息を、飲んだ。
見慣れた、文字だ。
いや、実際に見たのは一、二度で、しかもそのうち一回は垣間見た程度だったが……間違いなく、知っている文字だった。いや、識っている、言語だった。
「『お茶会に招待するよ、愛しい弟と息子を。魔女の腕に抱かれて、上弦の月を見上げたあの日をやり直したいならば、明日、愛した女を取り返しそこねた男の傍で、待つ』」