第13頁 そして夢は終わる
どうして僕は生まれたの?
二人暮らしをはじめて1か月、考えないわけではなかった。
両親はどうしているだろう、スメラギは何を考えているだろう。
そもそも、自分をここに派遣したのは上司の皇だ。
市がここを取り潰すために、調査とできれば塔の破壊を依頼された。
その代り、兄を探してくれると。
けれど、どちらもかなわなかった。自分は瀕死の重傷を負い、アテネが助けてくれなければあのまま失血死していただろう。
「いや、ここで死んじゃいけないんだっけ」
だからこそアテネは、外にじきじきに趣き、「去れ」と言いに来たのだ。
兄のときと、同じように。
彼方は雨宮の血筋であるために(と彼方は未だに思っている)アテネに救われ、執事となり。
兄の隣は、願いを叶えるために自分の余命を使い切った。
兄の余命分、父は生きるだろう。それに恨み言を吐く気はない。兄が選んだことだ。
もちろん、生きてほしかったけれど。会いたかったけれど。
その代わりに。命を賭して守りたい女の子に会えたのだから。
『あなたがそこまでしてほしいのは、報酬ですか?』
『報酬より何千倍も金になるものだよ』
『…なんなんですか、それ』
『……かわいい女の子』
皇が望んだのは、アテネのことなのかもしれない。
もちろん渡す気はない。けれど、父が『彼方君に頼めばいい』と自分をここに来るよう導いた気が、どうしてもしてならない。三大名家に仕える『三つ杜』の一柱、雨の宮。自分たちがそうであることを、おそらく父は知っていた。
『僕は、魔法使いなんだ』
その血を継ぐ彼方をここに寄越した理由は、
「やはり、『図書廻廊』なのでしょうね」
「うわっ」
一階広間の噴水に腰掛けていた彼方は、不意に話しかけられて水に頭から突っ込みそうになる。
「気を付けてくださいませね」
それをさっと受け止め、立たせるアテネの目は、どこか冷たい。
最近は蔵書庫にこもり放しだったためか、頬がやせこけているようにも思えて、心配した。
「大方、そのスメラギとやらはどこからか『廻廊』の情報を得て、どうにか干渉できないかもくろんでいたのでしょう」
淡々とアテネは言いながら、水面に掌をなぞらせる。
と、波紋が起こり、映像が浮かび上がってきた。
「…父さん」
映っていたのは、父だった。いつも家を出るときのようなスーツ姿で、鼻歌交じりに山を登っている。
と、木々の陰から立ち上がってきた無数の『影』が、ボウガンの昇順を父に向けた。
放たれる矢、思わず己の顔を両手で覆う。
「父さん!!」
しかし、その薄ら笑いを浮かべたまま、何も持っていない―――すなわち武器もない―――片手で、雨のように降り注ぐ鉄製の矢を、難なく振り払った。
ばちん、と鞭がしなるような音。がちゃがちゃとにぎやかに、矢は地面に散らばった。
「なんだ、ここの『扉』の護りはこの程度?」
少女のようにくすりと笑って、そのまま歩みを進める。
矢は振り払い、反撃はしない。
その歩みは迷いなく、それをアテネは厳しい目線で見つめていた。
「ねーちゃん…?」
思わず小声で呟いた、そのときだ。
『着いた』
いつも通りの、のらりくらりと言った口調で彼方の父は、難なく塔の前にたどり着いた。
豪、と音を立てて塔を守る蔦、その尋常でない威圧感にも全く動じず、笑顔で彼は呟いた。
『うん、万全』
そして、懐から取り出したデジタルカメラで写真を撮る。
「…あれは」
事務所で、父が撮ったのだと皇に見せられたものだろうか。
それからしばらく塔の周りをぐるりと見回し、時折嬉しそうに蔦に触れた。
何かつぶやいていた気もするが、聞き取れない。
10分ほど経った後に、「それじゃあ、またね」と塔にむけて呟き、彼は山を下って行った。
「……」
水面が、静まる。
「…ねーちゃん」
掠れる声のまま、彼方はおそるおそる呟く。
「……雨宮の頭首は、そのスメラギとやらにここの情報を流したのですね」
冷たい、声だ。はじめてあったときよりも。
思わず身構える彼方を見向きもせず、アテネは呟く。
「度し難い、おろかさ。これは三大名家への復讐ですの…?」
「…どういうこと?」
「ここ数日、侵入を試みるネズミが湧いて出てますの」
吐き捨てるように言いながら、再び水面を揺らす。
山を登り、一分もしないうちに別の道から出る。それを繰り返し、時折悪態をつくその男は
「…スメラギ?」
「今現在の映像です。もう、ここ数日毎晩続いてますわ」
無駄とわかっていてもやめられないというように、草をかき分けて枝枝を手折って。
砂漠で水を求めるように、渇望する何かを欲して。
「痛々しい、わ」
言う少女の声は空洞で。
やっと顧みられた彼方は、その虚ろの瞳にただただ、おびえた。
この一か月、彼の半生の中で幸福で、平穏な日々だった。外に出られない以外はやっと、望む『普通』に自分は成れたのだと、錯覚するほどに。
アテネも、主人も幸せそうだったのに。『寂しくない、カナタがいてくれてうれしい』と笑っていてくれたのに。
今はとても、寒い目をしている。
「…ねえ、カナタ」
どこかわざとらしい甘やかさをもって、アテネは問う。
「あなたの父も、その友人であるあの男も。廻廊の存在を…此処が異常であることを心得ているのは明白ですわ」
水面には未だ、皇が山を上り下りしている。クマの見える目から、だいぶ憔悴していることが見て取れた。
「ねえ、カナタ。わたくし、ここに閉じ込められてますの」
「…は」
笑顔が、怖かった。
「わたくしの御役目は、ここへの侵入者を生かしたまま追い出すこと。もう物心ついたころからそうしてまいりました」
猫なで声が、気持ち悪かった。
「でもねえ、カナタ。わたくしとて、乳飲み子の時代がありました。その期間わたくしを育てたものが、いるはずなんです」
優しく頬を撫でてくる手が、不快だった。
「記憶に残っているのは、若い男性だったこと。執事服を纏い、いつも微笑んでいてくださいました」
なにより必死な目が、自分の知らない誰かを渇望する目が、大嫌いな父を思い出させるから止めてほしかった。
「その男は、『トワ』と名乗っておりました。ねえ、あなたのお父様は、あなたが5歳になるまでおうちに籠っていたのですわよね。それは、確かにお父様でしたの?…もしかして、幻術かなにかで、お父様はわたくしの世話役だったあの男なのでは、ありませんの?」
「……どうして、そんなこと急に、思うのさ」
絞り出すように問えば、主人はうつむいて。
「あなたと過ごしたこの一か月。ずっと、懐かしいような気がしておりましたの」
「……」
「あなたが『三つ杜』である事からのシンパシーかと思いましたわ。けれど、だんだん思い出してきたのです。記憶の残滓しかなかった、あなたが思い起こさせる『彼』のことを」
彼方は、答えない。
「だから、カナタお願い」
聞きたくない、と思った。
「あなたのお父様に、聞いてきてほしいの」
♢
一か月ぶりの、外。何も変わっていない。
枯葉を踏みしめて下った森、山の獣道。
降り立ったコンクリの地面に、郷愁を呼ぶような思い出はない。
「…さっさと用を済ませて、帰ろう」
アテネが編んでくれたマフラーを揺らして、彼方は実家への帰路をたどった。
山から15分程の位置に、雨宮家の住むマンションはある。
習慣でポストを確認すると、一通の手紙が入ってた。
差出人はなく、あて先は―――父のようだ。
左右を見回す。マンションの玄関フロアには、彼しかいない。
丁寧に糊付けの封をはがして、中身を確認した。
一枚の便箋、記されているのは、此処に在ってはならない文字。
「―――なに、見てるの?」
ぞくり、と背筋を震わせる。
振り返ると、閉じるエレベーターを背に、父がいた。
いつものスーツ姿に、うちにあるべくもない高級カシミアのコートを羽織っている。
「…とお、さん」
「おかえり、彼方君。5日もどこに行っていたんだい?」
「…は?」
震える手から、やんわりと便箋と封筒を奪う。
「僕の知らないうちに、覗き趣味を覚えちゃうなんて。悪い息子だなあ」
くすくすと微笑んで、それを胸ポケットにしまう。
「で、彼方君。あれほど『普通』を順守していた彼方君が、学校もバイトも、全部放り捨てさせたのはいったいなんだったの?」
真綿で首を絞められている気分だ。
けれど、屈するわけにはいかない。おそらく、生まれてはじめて彼方は父の目を睨み付けた。
「父さん。『雨宮』を復興する気はないんですか?」
微笑みを、父は崩さない。その感情のない鉄壁の笑顔を破壊するために、彼方は必死で言葉を放る。
「海王夜アテネ御嬢様の執事として、僕は問うています。今日も彼女の使いとして、ここに来ました。雨宮遥さん。あなたは彼女が5歳になるまでの日々を、共に過ごし彼女を育てた『トワ』なのではないですか?」
「…何を言ってるのか、よくわからないけれど」
一気に一息に、反復したくなかった言葉を暗誦し終えた息子に、父親は変わらぬ笑顔で、毒を振りまいた。
「5日も顔を見せないと思ったら、なに、どこ行ってたの?」
「…5日?」
うん、と上品に頷き、仕事をするようになってから持ったスマートホンで日付を見せてくる。
それは、たしかに彼方が失踪した日から5日後の日付を示していた。
「…うそ。たしかにぼくはあそこで、いっかげつ、ねーちゃんと」
『外』と『オルフェウス(あちら)』の時間の流れが違うことは、予想できていたけれど、まさかここまでとは、驚きに覚えず思考停止する、彼方。
「ねーちゃんって誰?」
「金髪の、赤い目の、ぼくと同い年の女のこ…ぼくの、主人です」
「…なにがあったか知らないけどね、彼方君」
雨のように。雪のように。
「僕らの家庭を支えているのはぼくと君のお給料だってこと、自覚してもらわないと困るなああ」
真っ白な雪を無邪気に踏みつけて、泥でぐちゃぐちゃに汚す子供のような、純真さで。遥は息子の心を切り裂いた。何度も、何度も。
「…それで、賄えてるんですか、ほんとに」
「もう、幽さんのうちの遺産、ほとんどないしねえ」
「兄さん、は」
震える声で問うたそれが、正直一番聞きたいことだったのを、決して彼方は認めないだろう。
「父さんを生かすために、もう二度と帰れないのに、犠牲になったのに。父さんは、変わらないんですね」
「だって、頼んでないもの」
少女のように笑ったその顔が、声が、存在が、憎くて憎くて憎くて。
一か月前飛び出した時よりも、ずっと。
思わず獣じみた怒声を上げかけた、そのとき。背後から耳になじんだ声がした。
「バイト君!やっとみつけた」
君を探すためだと、思い込んでいたかった。