第12頁 黄金の砂糖菓子は、大人たちによって瓦解する。
遅い昼食は、ビーフシチューだった。
「大したものじゃありませんけど…」
目を丸くして皿を見つめる彼方に、申し訳なさそうにアテネは言う。
「い、いやいやそんなことないよ!ねーちゃんお料理上手なんだね!」
彼方は声を弾ませて、彼女の手を握った。握られたアテネは目を丸くする。
「ぼく、スメラギ…上司のところで最低限の家事は叩き込まれたけど、料理はあまり知らないからさ、こんなおいしそうなの、初めて見たよ!」
「…そう、でしたね。あなたは、そういう家の子ですもの」
興奮気味に食卓を見つめる彼方に、彼女の呟きは聞こえていない。
と、うつむいていた顔を上げてアテネは笑顔で言った。
「よし!これからわたくしが、彼方に美味しいものをたくさん教えますわ!こう見えて和食も中華もできますのよ」
「本当!?」
すごいや、と笑う彼方に、翳りはない。それをアテネは喜ばしく、けれど奥底で憐みもする。
機能不全の家庭で育ち、幼いころから貧困と労働の苦のみを知り、心の支えだった兄すらも失った。
しかもそのほとんどの原因は自分…ひいては三大名家の問題である。
最初に彼を見たとき思ったのだ。『雨に愛されている子だ』と。
影を消す唯一の方法、月光を覆った雨雲。あれは彼が『雨宮』だからこそ起きたこと。
けれど、その加護は彼自身の心までは守れない。
寂しいと、会いたいと泣く姿に、在りし日の自分を重ねた。
護りたいと思った。
例え彼が孤独に苛まれた一因が、自分にあったとしても。
『ねーちゃんが好きだよ』
と、敵である自分の傍にいることを選んでくれた彼に、精一杯報いたい。
「おいしい…おいしいよ、ねーちゃん!」
無垢に無邪気に笑う少年に、微笑んで水を差しだしながら、そうアテネは思った。
♢
古い意匠の執事服。そのほつれたところやくすんだボタンを、取り換える手つきは鮮やかだ。
きらきらとした瞳でそれを見つめる彼方、その目元は先ほどまで濡れタオルで冷やしていた。
昨晩、散々泣きはらしたためである。泣き疲れて寝入った彼方を、抱きしめてアテネも眠った。
いつも寝つきが悪かったが、はじめて人のぬくもりを抱いていたからか、あるいはそれが彼だったからか。寝起きは晴れやかな気持ちだった。罪悪感を抱えたまま、彼と共に生きようと思えるほどに。
「…できましたわ」
最後のボタン、それをつける糸を断ち少女は執事服を広げて見せた。
おお、と拍手する彼方を立たせ、鏡の前で合わせてみる。
「うん、問題なし。ささ、着てみてくださいな」
「う、うん」
言われるがままに、その場で衣服を脱ごうとする彼方に思わず怒鳴る。
「ちょ…!ここで脱がないでくださいませ!」
「えー、いいじゃんいいじゃん」
軽い調子で彼方は、あっという間に下着一枚になってしまった。
葉っぱ一枚でなくてよかった、絵面的に。
「もー、デリカシーという言葉を彼方は知りませんの!?」
執事になることを頼んできたときよりも頬を朱に染めて、アテネは背を向けている。
「いやー、できればねーちゃんの傍にいたいし」
さらり、と吐く言葉にアテネが弱いことを、知ってか知らずか。
「…確信犯だったら、承知いたしませんわ」
呟く声は聞こえているのか、いないのか。鼻歌交じりに着替えながら
「それに、人目にさらされて着替えることに僕は抵抗ありませんし。小学校の体育とか、『女男』って言われて男子用の着替え教室にいつもいれてもらえなくて、廊下で着替えてましたからねー」
女子にまぎれるわけにもいきませんし、と苦笑する彼の声に、なんの感慨もないのが逆に悲しかった。
「…よし。ねーちゃん、これでいいですか?…って、どうしました」
着替え終えた彼に少女は抱きついた。
「…言葉は、難しいですから」
「はい?」
首をかしげる少年の背を、愛おしげに撫でてアテネは思う。
「…なんでもありませんわ!」
軽く頬に口づけて、笑んだ。
♢
「のろけ?」
『…ち、ちがいますわよ』
時は現代。実は主君が語る過去に、思わず突っ込みを入れた。
「だって、あまやかなお話がこのままだらだら続けられても困りますもん」
こっちは学生なんですよっ、と無意味に胸を張る。
たしかに時計を見れば6時前、最終下校時間も迫っている。
今日、バイトがなくてよかったな、とぼんやり彼方は思った。
「…甘い夢はすぐに潰えます」
彼方の呟きに、電話口ともども少女たちは黙る。
虚ろな目で、未だ止まぬ雨を見つめながら、彼は語った。
「僕はそれから1か月ほど、ねーちゃんの執事をさせていただきました。けれど、僕は忘れていたんです…いえ、逃げていました」
外に残した彼らの思惑を、失踪した自分がその一端を担っていたということを。