第11頁 喪失―Lost family―
カーテン越しの陽光で、今が朝だということを知る。
自分の半生史上一番上質なベッド、その羽毛の感触で彼方は、昨晩のことが夢でないことを確認する。
キングサイズのその寝床の隣りがすっかり冷たくなっていることで、自分はものすごく寝坊したのではないかということに思い至った。
そのとき、重い音を立てながら樫の扉が開いた。カートを押しながら、アテネが姿を現す。
「あら、おはようございます」
「…おはよう、ございます」
呆けているこちらに小さく微笑んで、ポットやカップ、軽食が載せられた台をベッド脇まで運んできた。
「もう11時ですから、軽くつまめるものを、ね」
「…ごめんなさい」
思わず謝るとアテネは、気にしないでと微笑んだ。それは気遣いから来たものでなく自然で、彼方にとってもありがたい。ポットから注がれ、湯気を立てる紅茶を差し出しながら、
「…カナタ」
少女は、彼の隣に腰掛けた。
「本当に、いいの?」
問いかけるその瞳は虚ろだ。多分、先刻の自分もあんな顔をしていたのだろう。そう思いながら彼方は、微笑んで見せる。
「ええ。僕が望んだんですから」
その細い肩を抱くと、少女はやがて身を震わせて涙をこぼす。それは最期に見た兄を、思い出させた。
♢
震える水面。映し出されたのは、兄の名が刻まれた墓標。年季のはいったそれを、彼方は茫然と見つめるしかない。
あの日、兄がしたことは犯罪だろう。親へ暴行、それも大怪我を負わせたのだ。
でも
「…なにも、こんな結末でなくても」
いいじゃあ、ありませんか。尻すぼみに、信じがたい気持ちで呟くが、これまで圧倒的な超常現象にさらされてきた彼方には、反骨心が起きなかった。精神が限界を迎えていたのかもしれない。
幾ら聡くても小学生に、自分の根底を支えていた存在、その死を示唆する映像は、とどめを刺すに近い。
それに、彼女がこれがまやかしだとして、こんな嘘をつく理由がない。利益がない。
振り返って、彼女を見る。
青ざめた表情、震える身体。
「か、なた」
ふらふらと、こちらに近寄る。それを見て、現実に彼の意識は、数歩引き戻された。
「ごめ、なさ…」
「ねーちゃんが、悪いんじゃない」
彼女は兄の、名前すら知らなかったのだ。その生死を知っている道理がない。
彼方は安心させようと、ぎこちなく微笑んで見せて、けれどアテネは、言ったのだ。
「違うの、わたくしが。お兄様を、殺したの」
声も、足も、こちらの肩に触れる手も、すべてが小刻みに揺れていて。
けれどそれに気付く余裕もなく、呆けてしまった。
「『外』でいう3年前に、侵入者としてきましたの。ちょうど、今日のあなたみたいに」
兄は、頂上にたどり着いたときすでに重傷を負っていた。それでもあきらめず、制裁にきたアテネにすがりつき、懇願したという。
『弟に、父を返してやりたいんだ』
「…それが、兄が望んだこと」
「そう。それによりお兄様は、もう一つの『資格』を得た」
山の結界を歪めるほどに、強い望みを抱いたことで。
その執念でか、影に射られた傷から血がとめどなく流れても、塔に体当たりしては蔦の護りに身を焼かれる彼は、寿命を確実にすり減らしていった。
『…死んでしまいますわよ』
『構わない。弟に普通の人生を歩ませてやれるなら』
それにはどうせ、俺は居てはならないのだから。そう笑う顔は、血だらけで。
その真意は汲み取れなかったが、アテネは言ったという。
『あなたの命の残り火、わたくしに預けてくださるならその願い、少しは叶えてさしあげられるかもしれませんわ』
扉を内包する『山』で、侵入者を殺してはならない。確実に追い出し、しかし命はとらないこと。
もし、人の目には触れえない此処で死なれてしまった場合、その死は世界に認識されない。ただ、『そいつが急にいなくなった』ということになる。それはいくら書類上での処理はできても、人々の奥底に違和感が残る。凝った不信感は結界を揺るがす。『認識外にいること』が、最大の結界なのだ。
しかし、隣は命を削りすぎた。尽きかけた『雨宮隣』の、生きるはずだったぶんの寿命をエネルギーに、彼の最期の望みをアテネは叶えた。
つまり、『雨宮隣の消失』というありえない現象を、その残った寿命を消費することで誤魔化した。
「普通でありたいという願い、よく解りましたから」
自分の掌を見つめる、その姿はうつむきがちで表情はうかがえないけれど、その言葉に、思う。
彼女はいつから、この城にいるのだろう。
夜中を過ぎたころに登った山、そこから今に至るまで数時間たつのに、窓の外の月はまだ空の中心にある。外との時の流れが違うのは、明白だ。
ほとんど他人と接してこなかったという、彼女のこれまで。
幾人の侵入者を屠ったのか。あるいは呪術で、あるいは自らで。
あるいは彼女こそ、普通を願っていたのかもしれない。
彼方や、兄以上に。
麓で待機していた父の怪我は、あっという間に治ったという。
それを水鏡で確認させてもらった隣は、しばらくして息を引き取ったという。満足げに。
アテネが彼の余命を奪った、その瞬間さえも。
血を吐くような懺悔を、けれど彼方は冷静に聞いていた。
もうすでに心が壊れているからか、あるいは思考が停止しているのか。
目の前でごめんなさい、と繰り返す少女を虚ろに見据える、今の自分の表情も分からない。
彼方はいい加減な気持ちで、彼女の執事になったわけではない。
外への未練は、兄以外なかったわけだし。添い遂げたいと、支えたいと思えるほどに彼女に、惹かれたのだ。
しかし、一瞬だけれど思ってしまった。
世界が憎いと。
多分、君を含めて。
「それでもね、ねーちゃん」
目を合わせようとしない彼女の、うつむいたままの頬を両手で挟んで、やや乱暴にあげさせた。
その瞳には、涙。紅い瞳に負けず劣らず、白目が充血して兎みたいだ。
「兄ちゃんを殺したことに対する憎しみも合わせて食べれるくらいには、僕は君が好きなんだよ」
そういって、かみしめて白くなった少女の唇を、奪った。




