春が咲いたよ
お砂糖たっぷりのバレンタインデーのお話です。
好きなひとのどこが好きですか、なんて質問は馬に蹴られてなんとやらである。それでもその馬鹿馬鹿しい質問にばか正直に答えてしまうのは、きっとその好きなひとの好きなところを誰かに聞いてほしくて仕方がないから。少なくともわたしはそうである。
去年の春、わたしは人生で何度目かの恋をした。相手は駅のホームでわたしと同じ時間の電車を待っている大学生のひと。一目惚れだった。うとうとしながらヘッドホンの音楽に耳を傾けて、少し猫背になって立っている横顔を見た瞬間、あぁこのひと好きだと思った。
それから毎日、名前も知らないそのひとから少し離れて電車を待つ日々がつづいた。
その大学生のひとの名前を知ったのはあついあつい夏のこと。偶然耳に入った“クリヤマ”という名前、「おーっす」と答えるしゅわしゅわの炭酸が抜けたような低音の声。名前さえも好きだと思った。
クリヤマさんの横顔に見惚れながら季節が過ぎていく。夏はアイスを食べる横顔に、秋は焼き芋を食べる横顔に、冬は肉まんを食べる横顔に。クリヤマさんは毎日何かを食べながら電車を待っていることが多いということに気付けたのは、わたしだけだったらいいのに。
クリヤマさんの胃の中に入るその食べものになりたいと危険な妄想をし始めた頃、街は甘い匂いとそわそわする男女に包まれるイベントがある季節に近づいていた。
わたしのバイト先であるコンビニでも棚の一角にバレンタインデーフェアを設けて売上アップをもくろんでいる。今日も今日とてぼんやりとレジ打ちをするわたしに、バレンタインデーの奇跡がおきた。
「会計お願いします。あとチョコレートまんふたつ」
今、わたしの目の前には恋い焦がれてやまないクリヤマさんがいる。奇跡だ。クリヤマさんの持ってきたかごの中には板チョコがたくさん入っていて、わたし生まれ変わったら板チョコになりたいと考えながらチョコレートまんをふたつ取り出す。それにしても、この大量の板チョコは何に使うんだろう。ふいに思い浮かんだのは、熱心にチョコレートのお菓子を作るクリヤマさんの姿だった。
「もしかして、パティシエさんですか?」
「え?」
「……あっ」
どこか上の空だったクリヤマさんの視線が、わたしをじっと見つめる。ぱふっと口元を両手で塞ぎながら、ぎこちなく視線を泳がせるわたし。わたし達以外誰もいない店内に、バレンタインデーソングが甘く囁いている。今この瞬間の、わたしたちの間の空気が全く甘くもないのが残念だ。
「ぶっ、くく…」冷や汗ものだった気まずい空間に届いたシュワシュワとした炭酸のような声が、わたしと彼の間にやんわりと穴をあけた。その小さな穴から、やさしい空気が流れこんでゆく。猫背をさらに丸めて、クリヤマさんが声を殺して笑っていた。
「パ、パティシエって…ぶはっ、パティシエ…パティシエ…くくくっ」
「あの…」
「す、すんません…っ。ちょ、ちょっと待っててもらってもいいっすか」
笑いのツボにハマったのか、しばらく「パティシエ」という単語を噛み締めるように呟きながら、クリヤマさんは目に涙をためてまで笑っていた。そんなクリヤマさんの笑顔にノックアウトされている女子一名。
「やべえ、久々にこんなに笑った…」
「す、すいません」
「いや、こっちこそ勝手に1人で笑っちゃってすいません。あ、ついでに言うと俺パティシエじゃないんで。ただのしがない大学生なんで」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
プハッ、と気の抜けた笑い声が心地よく響くから、おんなじように笑ったら、クリヤマさんはまた楽しそうに笑ってくれた。こんなに無邪気に笑うひとだなんて知らなかったなあ。と、クリヤマさんの新たな一面を知ることができて、ひとりでにんまりとする。
「最近どこに行ってもチョコレートのうまそうな匂いがするから無性に食いたくなって、買いにきたんすよ」
「こんなにたくさん、ですか?」
「あーこれは弟の分もはいってるんで。今から家帰って、弟とやけ食いっすよー、せっかくのバレンタインデーなのに」
にへ、と照れた表情を隠しもせずに笑うクリヤマさんからお金をもらう。一瞬だけ触れた体温に、心臓がドコンと跳ねた。
自動ドアが開く音がして、元気いっぱいの小学生軍団が一気に入ってきた。わたしは、とろけていた背筋と顔を無理矢理引き締めながらクリヤマさんにお釣りを手渡す。「ども」とクリヤマさんがぺこりと丁寧に頭を下げてくれる。どうしよう、奇跡の時間が終わってしまう。そう思ったら、勝手に腕が伸びていた。背中を向けようとしたクリヤマさんの服を、思わずぎゅっと掴んで引き止めてしまった。
「わたし、好きです!!」
「へ?」
「……あっ」
ぱちくりと目を大きく見開いたクリヤマさんの視線が、真っ赤っかなわたしをじっと見つめる。ぱっとクリヤマさんの服を掴んでいた手をぎこちなくゆっくりと離して固まるわたし。小学生特有の楽しそうな騒ぎ声が響く店内に、バレンタインデーソングが甘く囁いている。今この瞬間の、わたしたちの間の空気にぴったりなはずなのに、とっても気まずい。
「俺も、好きです」
クリヤマさんが、笑った。
「おいしいですよね、板チョコ」
…買ったばかりの板チョコを指差しながら。恥ずかしい食い違いに泣きたいのを通りこして、爆笑したくなった。今この瞬間、一年分の勇気を使いきってしまったに違いない。わたしのただでさえちっぽけな度胸がアリよりもはるかに小さくなっていくのが分かって、やっぱり泣きたくなった。
「お、おいしいですよね!わたし、大好きなんです!」
「おそろいっすね」
「おそろいですね!」
クリヤマさんはますます真っ赤っかになるわたしを不思議そうに見つめながら、このコンビニにあるチョコレートを全部贈りたくなるような素敵な笑顔を見せてくれたのだった。…ああ、わたしの意気地なし。
もうすぐ春が来る。クリヤマさんに恋に落ちたあの季節がやってくる。わたしは今日も、電車を待つクリヤマさんの横顔に見惚れていた。ただ今までとすこしだけ変化したことがある。
「あ。もしかして昨日の板チョコの子?」
「えっ!?」
「おー、やっぱそうだ。なんだ、どこかで見たことあると思ったらいつもここで電車待ってたんすね」
「は、はい」
「あ、これ昨日買った板チョコなんすけど、食べます?」
「よっ、喜んで!」
クリヤマさんの隣で、電車を待ちながらクリヤマさんのたべものを半分もらう。バレンタインデー翌日の奇跡である。
「ほんと好きなんすね、板チョコ。すげえうまそうに食ってるし」
「だっ、大好きです!」
ほんとうは板チョコじゃなくて、あなたのことが好きなんですよ。なんて、やっぱり言えない。まだ、言えないや。チョコレートでいっぱいの口の中で溶けていくことばたち。
今はまだ、桜の蕾の中にクリヤマさんへの想いをあたためて包みこんでおく。時期が来るまで、おしとやかに待っていることにするんだから。
春はすぐそこ。
だけどわたしの春は、まだまだ遠いらしい。
「口元、チョコついてるっすよ」
「え…、わあっ!!」
「ぶはっ、そんなに慌てなくてもいいのに」
チョコレートをかじる横顔に、わたしは今日も恋をしている。