「名だけの妻に披露は要らない」と死蔵された祝い器百客分——館の暮らしに変えました。お客の日、蔵は空ですわ
【嫁いだ日・蔵の前】
「披露はしない。仕舞っておけ」
レギナルトは荷車から下ろされる木箱を見たまま言った。箱の脇に立つフランツィスカへは、顔も向けなかった。
百客分の祝い器は、ひと揃いずつ薄紙に包まれていた。青灰色の釉に白い線を巡らせた皿、蓋物、小鉢、酒杯。里の両親が、娘の婚礼に客を迎える日を思って揃えた品だった。
「どちらへ運びましょう、奥様」
荷運びの男が問うた。名前を知らないのか、呼ぶ必要がないのかは、声からは量れなかった。
「器の蔵だ。北の壁際を空けさせてある」
答えたのはレギナルトだった。フランツィスカは一番上の箱に手を添え、返事の代わりに指を離した。
「湿気を避けて積め。数を崩すな」
百という数だけが、彼の口に残った。
蔵の鍵を預かるゴットハルトが、箱を一つずつ受け取った。老従士の腰には蔵の鍵が下がり、歩くたびに乾いた音を立てた。扉が閉じると、その音も厚い板の向こうへ消えた。
レギナルトは先に館へ戻った。フランツィスカのために差し出された腕も、館の者へ妻を紹介する言葉もなかった。
彼女は荷車の轍を避けて中庭を渡った。夕餉の鐘が鳴り、訓練を終えた従士たちが賄い場へ集まっていた。
開いた戸口から、陶器の触れ合う音がした。一度、二度。それから、木の卓へ固い物を置く音がひとつ。
「俺は後でいい」
「その椀は底まで割れている。こっちを使え」
二人の従士が、一つの椀を互いへ押しやっていた。片方の手にある椀は、口縁が親指ほど欠けている。継いだ跡には汁の色が染み込み、黒い筋になっていた。
傍らでは、別の従士が平たい板の上へパンをじかに置いた。板には刃傷が重なり、洗った水がまだ溝に残っている。
フランツィスカは戸口の手前で足を止めた。振り返れば、器の蔵の小窓はもう鎧戸を下ろされていた。
百客分は、欠け一つなく暗がりに収まっている。
食卓では、欠けた一椀を二人が譲り合っていた。
* * *
【ひと月後・賄い場】
水音の間に、椀の鳴る音が十四回した。少し置いて二回。三度目に聞こえたのは陶器ではなく、木匙が鍋の縁を擦る音だった。
フランツィスカは賄い場の外で袖を留め直した。中へ入ると、ヒルダが洗い桶から顔を上げた。
「今日のお食事は二十人分ですのね」
「はい。従士が二十、ほかは時をずらします」
水切り台には椀が十六個並んでいた。うち三つには継ぎがあり、一つは欠けた側を壁へ向けて伏せられている。
「膳はいくつございます」
「十二です。先に食べた者のを拭いて、次へ回しております」
ヒルダは布巾を絞った。節の太い指から落ちた水が、桶の水面へ続けて穴を開けた。
フランツィスカは欠けた椀を取り、縁をひとなでした。薄く削れた箇所で指の腹が止まり、そこから底まで走る細い亀裂を拾った。
「蔵の器は、お使いにならないのですか」
「旦那様から、祝いの品は揃えたままにと」
ヒルダは椀を受け取ろうとしたが、フランツィスカの指がまだ縁にあった。二人の手の間で、椀だけが動かなかった。
その日の午後、フランツィスカはゴットハルトに蔵を開けてもらった。祝い器の箱は北壁に沿い、嫁いだ日の順番のまま積まれていた。
「湿気の入れ替えは、どなたがなさいますの」
「私と若い者が二人。年に三日を使います。箱を下ろし、紙を改め、また戻すので」
「使うためではなく?」
「仕舞っておくためでございます」
ゴットハルトは鍵を手の中へ収めた。掌からはみ出した鍵の歯だけが、フランツィスカの方を向いていた。
彼女は一箱を開けさせた。薄紙をめくり、一枚の小鉢を取り上げる。縁をひとなでしても、欠けも傷もなかった。
釉は井戸水より冷たかった。窓から入る光を返しながら、誰の指の跡も持っていない。
「器は、使われて初めて器ですわ」
小鉢は答えず、箱へ戻された。薄紙をかぶせると、白い線も見えなくなった。
三度、季節が巡った。年に三日ずつ、ゴットハルトたちは箱を下ろし、空気を入れ、同じ場所へ戻した。
賄い場では椀の継ぎ目が増え、膳の傷が深くなった。
* * *
【春・蔵と賄い場】
三度目の春、蔵の扉が開くと、紙と乾いた木の匂いが流れ出した。フランツィスカは帳面を片手に、北壁の箱を見上げた。
「三年で九日。冬囲いなら、ひと仕事終えられますわね」
ゴットハルトは鍵束を腰へ戻した。返事をせず、箱を下ろすための台を運んだ。
「百客分、すべて開けます。賄い場へ」
「旦那様には」
「使わないと決めた器なら、空き物でしょう」
最初の箱が台へ下ろされた。次の箱へ手を掛けた若い従士が、ゴットハルトを見た。ゴットハルトは台の脚を踏んで揺れを確かめ、それだけで運び出しは続いた。
賄い場の長卓へ、青灰色の器が並べられた。閉じた窓のようだった百の揃いが、春の光を百箇所で返した。
ヒルダは濡れた手を前掛けで拭いた。小鉢を一つ持ち上げ、底の印を見て、すぐに卓へ戻した。
「奥様、これは祝いの……」
差し出された器を、フランツィスカは両手で受けた。ヒルダの手はまだ底を支えたままで、指先が小鉢を細かく揺らしていた。
「里から持たされた物ですわ」
「でしたら、なおさら。わたしどもの汁椀になど」
ヒルダは器を押し返した。力を込めた指の関節だけが白くなり、器は二人の間を指一本分戻った。
フランツィスカは縁をひとなでした。三年間、空気を替える指しか触れなかった釉は、唇を寄せる場所まで同じ冷たさだった。
箱の中なら欠けない。飯も盛られず、匙も当たらず、洗い桶の底でほかの椀とぶつかることもない。
ヒルダの後ろでは、古い椀が布の上に伏せられていた。先月まで細かった亀裂は底へ抜け、もう水を張れない。
「祝いは、欠けのない形を眺めるために頂いたのでしょうか」
ヒルダの指が緩んだ。フランツィスカは小鉢を引き取り、今度は底をヒルダの掌へ載せ直した。
「今夜から、こちらをお使いください。まず二十人分。膳に載らない大皿と蓋物は、品ごとに分けておいて」
「奥様」
「洗う手間も数えます。薄手の物は客用、厚手の物は日々の食卓へ。欠けた椀は、汁を入れずに済む仕事へ回しましょう」
ヒルダは青灰色の小鉢を胸の前で支えた。押し返す代わりに、洗い桶の水を替えた。
その夜、二十人の従士が同じ時刻に食卓へ着いた。青灰色の器には豆と肉の煮込みが盛られ、足りない四人分の椀だけは小鉢で代えた。膳は十二しかないため、残る八人分にはよく洗った板を敷いた。
配膳の手が最後の一鉢を置くまで、匙を取る者はいなかった。二十人分が並ぶと、卓を囲む顔が一斉に上がった。
「温かいうちにどうぞ」
フランツィスカが言うと、椀と小鉢から同じ湯気が立った。匙の当たる音が、今度は二十人分続いた。
ヒルダは賄い場の戸口で、濡れた両手を合わせていた。
* * *
【夏・年の市】
売る朝、フランツィスカは荷台の上の蓋物へ手を伸ばした。金を細く焼き付けた縁をなでる指が、一度だけ止まった。
卓に置かれていたのは、里から届いた短い便りだった。包み紙の裏へ、父の筆で一行だけ記されている。
『器は使われてこそ祝い』
フランツィスカは便りを帳面へ挟んだ。蓋物の包みを結び直し、荷台の前へ回った。
市へ持ち出したのは、日々の食卓には大きすぎる大皿十枚と、膳の上で場所を取る蓋物二十組だった。百客分のうち、使える物を先に残し、余る形だけを選んである。
器を扱う商人は、包みを三つ開けてから銀貨四十一枚を示した。大皿も蓋物も一山としての値だった。
「これで全部だ。傷はないが、辺境では揃いを買う客が少ない」
「銀貨四十一枚では、椀が二十、膳が十四。鍋は空のままですわね」
「買い物の値までこちらの勘定に入れるのか」
商人の口元が片側だけ上がった。フランツィスカは大皿を五枚ずつに分け、蓋物は蓋と身の合う印を見せるよう並べ替えた。
「一山ではございません。大皿は五枚揃いが二組。蓋物は十客揃いが二組です。金の擦れも、蓋の入れ替わりもございません」
彼女は隣の店先にある品へ順に指を向けた。厚手の椀二十、木の膳二十、それから、二人で持ち上げる大鍋二つ。
「そちらは椀が銀貨一枚、膳が一枚半。鍋は五枚ずつ。合わせて六十枚」
「こちらの器が六十になるとは言っていない」
「では、五枚揃いの大皿は宿へ。蓋物は二組に分けて、祝い膳を扱う店へ参ります」
フランツィスカは大皿を包み直した。商人は包み紐へ手を置き、四十一枚の山に銀貨を九枚足した。
「五十だ」
「蓋を一つずつ開けてくださいませ。内側にも金がございます」
十の蓋が開き、光が十本並んだ。見ていた別の商人が足を止めると、最初の商人は銀貨をさらに積んだ。
「六十。代わりに、椀と膳と鍋をここで引き渡す」
「数を改めます」
フランツィスカは先に椀を数えた。一つずつ縁をなで、焼き割れのある二つを外し、棚の奥から代わりを出させた。
膳は二十枚重ね、四隅の浮きを確かめた。鍋は底を日に向け、継ぎのない物を二つ選んだ。売った器の値と買う道具の値が、銀貨六十枚のところで揃った。
帰りの荷車では、椀二十が藁の中で鳴り、膳二十が革紐で固く結ばれていた。二つの鍋は荷台の左右に据えられ、その間は空いたままだった。
館へ着くと、従士たちは先に鍋を下ろした。ヒルダは新しい膳を一枚ずつ受け取り、傷の深い古い膳と入れ替えた。
夕餉には二十の椀と二十の膳が揃った。青灰色の小鉢には塩漬け菜が盛られ、大皿には切り分けた肉が載った。
九日分の手を奪った蔵には、風だけが通った。
* * *
【秋の初め・当主の書斎】
「祝いの器を出せ。体面がある」
冬の客を迎える段取りが決まった日、レギナルトは招待客の名を書いた紙を机へ置いた。紙の端が、燭台の下で反り返っていた。
「何名お越しですの」
「供を含めて八十ほどだ。館の者を合わせれば百になる。あの揃いなら足りる」
(仕舞ってある物は減らない。器も妻も、器の蔵に納めた形のままでいい——)
レギナルトは鍵を出すよう、指先で机を二度叩いた。フランツィスカはその指を見てから、招待客の紙へ目を移した。
「器の蔵は空でございます」
叩く音が止まった。
「何を言っている」
「祝い器は、この春から館で使っております。余る品は市で椀と膳と鍋へ替えました」
「誰が許した。元へ戻せ」
「元の形には戻りません」
レギナルトの掌が紙の上へ下りた。反り返っていた端が潰れ、招待客の名が一本の皺に折れた。
「祝いの品だ。客の前へ揃えて出す。それが体面だ」
フランツィスカは目を上げた。声を強くする代わりに、机までの二歩を動かなかった。
「体面? この器の員数を、あなたは一度でも数えたことがございますの」
レギナルトの口が開いた。答えが出る前に、フランツィスカは書斎の扉を開けた。
「賄い場へお越しください。いま使われている員数なら、すぐにご覧いただけます」
廊下の先から、鍋蓋の鳴る音が届いた。フランツィスカは振り返らず、その音の方へ歩いた。
* * *
【同じ夜・賄い場】
二つの大鍋が並んで火に掛かっていた。一方では肉と根菜が煮え、もう一方では明日のための豆が湯を吸っていた。
長卓には椀二十と膳二十が重ねられ、青灰色の器が用途ごとに分けて置かれていた。日々の匙が触れた小鉢には細い擦れが走り、釉は三年前より柔らかな艶を帯びている。
「これが、祝いの器だと?」
レギナルトは大鍋を避け、卓の端にある小鉢へ近づいた。手は出さず、袖口だけを引いた。
「百客分のうち、館で使える物は残しました。大皿は盛りつけに、深い鉢は煮込みに、酒杯は客用に。余った蓋物と大皿の一部が、この椀二十、膳二十、鍋二つになりました」
「客に出した器を、従士にも使わせたのか」
「従士が使った器を、客へお出しいたします」
ヒルダが鍋から汁をすくった。青灰色の小鉢へ肉と根菜を分け、新しい膳に載せた。
フランツィスカは小鉢の縁をひとなでした。欠けはなく、日々の洗い布で磨かれた釉は柔らかな艶を帯び、指の腹へ温かかった。
彼女はその一椀をレギナルトの前へ置いた。湯気が彼の胸元まで上がり、書斎でついた紙と墨の匂いを覆った。
「器は、使われて初めて器ですわ」
「元の箱へ戻せ。客が帰った後でもいい」
ヒルダの柄杓が鍋へ沈んだ。従士たちは膳を運ぶ手を止めず、誰もレギナルトを見なかった。
ゴットハルトが卓へ近づいた。青灰色の小鉢を一つ取り、使い込まれた艶を指で確かめた。
「器は使われて生きる。贈り主もこれで浮かばれる」
老従士は小鉢を元の場所へ戻した。レギナルトが彼を見るまでに、もう次の膳を運ぶため身を引いていた。
「当主は私だ」
鍋の中で根菜が一つ崩れた。ヒルダはそれをすくい上げ、レギナルトの椀へ入れた。
「明日のパンは何枚必要ですの」
フランツィスカが問うと、ヒルダはすぐに顔を向けた。
「百二十枚です、奥様。焼き窯は夜明け前から使います」
「豆は足りますか」
「あと一袋あれば」
「西の棚にございます。今夜のうちに水へ」
返事が重なり、館の者の顔は次々にフランツィスカへ向いた。薪の数、塩の残り、客用の酒杯を洗う順番。用件はレギナルトの脇を通り、彼女のところで決まった。
レギナルトの前では、湯気の立つ一椀が冷めるのを待っていた。
* * *
【冬・夕餉の大の間】
百の膳が、扉から最奥の卓まで切れ目なく並んだ。椀二十と膳二十は館の者の席へ、青灰色の器は客の席へ、ひと息に配られていた。
青灰色の大皿には焼いた肉が盛られ、深鉢には豆と根菜の煮込みが満ちていた。祝いの酒杯は客の手にあり、小鉢は館の者の膳にも同じように載っている。
「お待たせいたしました。今夜は、百の膳が揃っております」
フランツィスカの声を合図に、配膳の者が最後の列へ汁を運んだ。二つの大鍋から立つ湯気が、大の間の梁まで届いた。
上座の客人は、自分の前の器より先に、戸口から出入りする奉公人を目で追った。空になった大皿が下がり、次の大皿が同じ場所へ置かれる。汁をこぼした膳には布が入り、その間にも隣の列ではパンが配られた。
「百人へ同じ時に温かい物を出す館は、そうない」
客人は酒杯を置いた。視線はレギナルトへ向いたが、彼の前に返事は用意されていなかった。
「誰が、この段取りを?」
ヒルダが空の椀を抱えて通りかかった。客人に呼び止められ、足を揃えた。
「奥様が来てから館は回っております。食べる人数を、先に数えてくださいますので」
言い終えると、ヒルダは椀を洗い場へ運んだ。客人はその背を見送り、今度は壁際に立つゴットハルトへ目を向けた。
「祝いの器を日々使うことに、古参から異論はなかったのか」
「三年、蔵を開けておりました」
ゴットハルトは短く答えた。客人の前にある小鉢の艶へ一度だけ目を落とす。
「いまは食卓が開いている。奥様が来てから館は回っております」
客人は小鉢を持ち上げ、底に残った煮込みを匙ですくった。隣席の者も器を裏返して釉を眺め、それから賄い場へ続く戸口を見た。
「フランツィスカ様、次の肉を切り分けてもよろしいですか」
「フランツィスカ様、客用の酒が一瓶空きます」
「フランツィスカ様、洗い布を替えます」
用件が先に来て、名前がその後へ続いた。誰も蔵の鍵を求めなかった。
フランツィスカは肉を薄く切るよう告げ、酒は次の瓶まで、水を同じ数だけ添えるよう指示した。洗い布は新しい物を二枚出し、濡れた物を火の近くへ干させた。
レギナルトは上座の端に座り、青灰色の椀へ匙を入れた。三年前にはなかった細い擦れが、灯火を曲げて映していた。
客が席を立ち始めたころ、彼はフランツィスカを柱のそばへ呼んだ。彼女の手には、次の膳へ載せる小鉢が二つあった。
「やり直そう。今度は披露もする」
フランツィスカは小鉢を重ねなかった。縁が触れて音を立てないよう、一つずつ左右の手に持った。
「蔵の器は戻せなくても、買い直せばいい。百客分を揃える。お前も、今までどおり館を見ればいい」
大の間の向こうで、ヒルダが空いた席を数えていた。ゴットハルトは戸口を押さえ、次の膳を運ぶ従士へ道を空けている。
「披露の後は?」
「仕舞っておけば減らない」
レギナルトの声は、食器を洗う水音に半分を取られた。フランツィスカは右手の小鉢を配膳の者へ渡し、左手の一つだけを残した。
「もう、披露のために戻すものはございません」
配膳の者は小鉢を受け取り、次の列へ運んだ。レギナルトの前には、何も返されなかった。
「フランツィスカ様」
大の間の中央から声がした。新しい膳を抱えた従士が、置く場所を待っていた。
ヒルダも、ゴットハルトも、奉公人も顔を上げた。食事を終えた客人たちまで、席の間に立つフランツィスカへ目を向けた。
彼女は百の顔を数えなかった。空いた卓を見渡し、次の膳を置く場所へ手を差し伸べた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




