路上
人々が仕事を終え家に帰る時間、ロンドンのウェストミンスター橋に、ギターを弾く一人の男がいた。人はみな、男を横目で見るだけで、演奏に足を止めようとはしない。しかし、男にとってはそれが当たり前で、もう、男の気にするところではなくなっていた。ただ、人の多いところでギターの練習をしているようなものであった。聴衆が小銭を入れるような投げ銭箱も、置くことはしていない。彼の用意している、「人からお金を貰うなんてことは、自分には値しない」という理由は、建前でしかなく、彼はただ、空の投げ銭箱など見たくなかったのだ。そもそもそんな建前、誰に聞かれて話すことがあるだろうか。
今日も男は、なんとなく自分の満足のいったところでギターを片づける。すぐに立ち上がり、元から歩いていたかのように車と人の行き交う橋を歩き始める。
男は、日本人である。つい一ヶ月ほど前まで、日本にいた。小さいライブスタジオでのバイトを続け懸命に貯めた金で、ロンドンに飛んできたのだ。高校のとき、父に買ってもらったギターと共に。
深淵の空に浮かぶビッグ・ベンを見上げながら男は歩く。高校の頃からずっと行きたいと思っていたロンドンも、今ではすっかり見慣れてしまった。今日の男は、足取りが少し重い。曇り空の多いロンドンの雰囲気はいつの間にか男を、感傷的にさせてしまったのだ。
男は、ロンドン南部のクロイドン区にアパートを借りている。いつもは電車で帰るのだが、今日はそんな気分ではなかった。ただ、一人で歩きたい気分であったのだ。歩くと、四時間ほどかかるがそんなこと、男は考えてもいなかった。男は南であろう方角に向いて歩き出した。
男は高校のときからずっと、何者かになりたかったのである。例えば、ミュージシャン、小説家などである。つまるところ、なにか人の心を動かすようなものを作りたいと考えていたのだ。そして彼は、そのような職業には学歴など必要ないと考えていたため、特に勉強はしなかった。定期テストの前日に、一夜漬けで終わらせるような勉強法しか、知らなかった。そのようなものでも、真ん中ぐらいの成績を取れてしまうため、よけいに男は調子に乗り、その生活を続けた。そして、大学受験時の学力で入れるであろう音楽大学に入り、卒業した。男は今になって気づく。勉強は、「良い大学に入るため」、「将来安定した職業につくため」、そんな理由で行うのではないのだ。それらはあくまで、子供に勉強をさせるためのもっともらしい理由でしかない。結局のところ、勉強というものは、努力の練習なのだ。一つの目標に向かって、ひたむきに努力する。たとえそれが失敗しようとも。その経験がいかに大切なことであるかを男は今になって知った。高校時代、懸命に勉強していたら、今もひたむきにギターの練習でもしていただろう、と行き交う車を眺めながら男は思う。二時間ほど経っただろうか。いつの間にか、周りの景色が随分と田舎じみたものになっていた。家以外特に何も無いのだが、家々から漏れ出す朗らかな空気のせいか、寂しげな雰囲気は微塵もない。普段は電車に乗っているため気にならない背中のギターも、これだけ歩いていると、重く感じてくる。
高校一年の頃、男は父に音楽の道に進みたい旨を伝えた。父は反対しなかった。それからひと月ほど経ってから、父は男を車に乗せギター屋へと向かった。いつもギターの動画ばかり見ている男の様子から、ギターを欲しがっていることくらい、父の目からは明らかだった。男は父と共に小一時間ギターを選び、七万円ほどのものを買った。当時の男は、もちろん父に感謝の言葉を伝えたが、それ以上は特に何も考えていなかった。父の粋な計らいとしてありがたく感じてはいたが、また同時に、親とはそういうことをするものであるとも考えていたのである。男は今になって分かる。いくら自分の息子であるといっても、人のために七万円も使えるほど金を稼いでいるということが、どれだけ偉大なことか。今の私は、たとえ自分のためであっても七万円も使うことはできないのだ。男は酷く後悔した。思い返してみると、特に親孝行もしないまま、自分の為だけにバイトをして、ロンドンに来てしまった。男は、いつになったら自分は大人になるのだろう、と思った。
顔を上げてみると、見慣れた街並みであった。気がつくと、借りているアパートの近くまで来ていたようだ。思っていたよりすぐだったな、と思いながら男はアパートに向かう。
鍵を開け、部屋に入る。いつもは、安らぎの場所であるはずのこの部屋も、今の男にとっては独房のように感じた。ふと男は、「家に帰りたい」と、強烈に思った。「家」といってもそれは、大学時代に借りていた部屋のことではなく、暖かい両親のいる、思い出の詰まった、「実家」である。男はすぐにパソコンで翌日の飛行機を調べると、運のいいことに、空いている席があり、チケットを購入した。それから男は両親の顔を思い浮かべながら、荷造りを終わらせ、遠足前夜のような心持ちで、眠りについた。
翌朝、アパートを出た男は、電車に乗り、ガトウィック空港に向かった。そして男は、日本行きの飛行機に乗り込んだ。
その日の夜、ロンドンの一部の退勤者は、物足りない顔をしていた。




