第八十八話 冬水に糸
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
朝の川は、息を潜めていた。
薄氷の縁に白い霜が残り
水面は鈍く光っている。
伊東祐兵は
静かに竿を構えた。
「今日は、魚の気配が深いな」
島津豊久は川面を覗き込み
小さく頷く。
「寒いほど
魚も落ち着くものですな」
二人は並んで腰を下ろし
言葉を減らす。
糸が水に入る音だけが、冬の朝を切った。
少し離れた石の上では
小春が前脚を揃え
じっと水を見つめている。
時折、尾がゆらりと揺れた。
「飛び込むなよ」
「……聞いていませんな」
豊久が笑う。
やがて、祐兵の竿先が
ほんのわずかに震えた。
「来たな」
焦らず、合わせる。
水の中で銀が翻り
静かな抵抗が伝わる。
「良い型ですな」
上がってきたのは
丸々とした川魚だった。
冬の水で締まり
鱗が美しい。
「これは今夜の膳だな」
豊久の竿にも
ほどなく応えがあった。
二人で数を揃え
それ以上は欲張らない。
「十分です」
「うむ」
帰り道、小春は魚籠を覗き込み
満足そうに鳴いた。
囲炉裏に火を起こし
鍋をかける準備をする頃
外では雪が舞い始めていた。
「釣りは、不思議ですな」
豊久が言う。
「何もせず
多くを得た気になります」
「水と向き合うだけで
心が整う」
祐兵は、そう答えた。
冬の川は冷たい。
だが、その静けさは
確かに人を温めていた。




