第八十五話 焼き鶏の香り
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
冬の夕暮れ
城下を歩く伊東祐兵は
ふと足を止めた。
「……鶏が食べたいな」
まるで独り言のように漏れた言葉に
並んで歩いていた島津豊久が眉を上げる。
「奇遇ですな。私も今、同じことを考えておりました」
理由は分からない。
だが、炭火で焼かれた鶏の皮の音
脂の落ちる匂いが、はっきりと頭に浮かぶ。
二人は顔を見合わせ
同時に小さく笑った。
「これはもう、抗えませんな」
「うむ。今宵は鶏だ」
町の外れの農家で、丸々とした鶏を譲り受ける。
白い息を吐きながら戻る道すがら
豊久はすでに焼き加減の話を始めていた。
囲炉裏に炭を起こし
串を打った鶏をゆっくりと回す。
皮がきつね色に変わり
脂が落ちて、じゅっと音を立てた。
「この音だけで、酒が飲めますな」
「まだだ。焦るな」
祐兵は落ち着いた手つきで塩を振る。
ただそれだけ。
余計な味付けはしない。
やがて、香ばしい匂いが部屋を満たした。
「……よし」
二人は向かい合い、熱々の鶏を割く。
湯気の向こうで、豊久が目を細めた。
「冬に、これは反則ですな」
「だからこそ良い」
噛めば、皮がぱりりと弾け
中は驚くほど柔らかい。
塩と肉の旨みだけが、静かに広がる。
言葉は少なく
ただ食べ、酒を含み
火を眺める。
外では風が鳴っている。
だが、囲炉裏の内は温かい。
「理由は分かりませんが」
豊久がぽつりと言った。
「こういう夜が、一番落ち着きますな」
祐兵は頷き
残った骨を火にくべた。
「身体が求めたのだろう。
冬には、冬の食がある」
炭が爆ぜて
鶏の香りが、静かに夜へ溶けていった。




