第六十三話 冬星の降る小径にて
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
その夜、飫肥の空は澄み切り
星々は凍りつくような光を放っていた。
伊東祐兵は
ふと胸の奥を静かに揺らすものを感じ
「豊久殿、少し歩いてみぬか」と声をかけた。
島津豊久も外套を羽織り
「今夜の空は…どこか呼んでいるようですな」
と微笑む。
小春と黒猫は眠そうに丸まっており
二匹を起こさぬようそっと館を出る。
雪は薄く積もり
踏むたびに小さな音を返してくる。
冬の夜は深く、静謐な息を潜めていた。
城下を離れ、山際の小径へ入ると
空気はいっそう透明になった。
星明かりが雪面を淡く照らし
地上にも星が散らばっているかのようだ。
「灯りもないのに、不思議なほど明るい」
豊久が呟くと
祐兵は空を見上げた。
「雪が光を返しているのだろう。
だが…それだけではあるまい」
風が吹き、木々の枝から
きらきらと粉雪が降り注ぐ。
まるで星屑が降り落ちてくるようで
二人はしばし足を止めた。
その一瞬、森の奥で
かすかな影が舞った気がしたが
何も言わず、ただ夜を味わった。
小径の先に出ると
凍った池が月を鏡のように映していた。
湖面には薄氷が広がり
その下を細い光がゆらゆら流れている。
「水が…光っておるように見えるな」
豊久が目を細めると
祐兵も静かに頷いた。
「冬の夜、水は時に魂を映すという。
昔の話だがな」
その言葉に応えるように
池の向こう側で 雪の影が一つ
ふわりと揺れた。
動物か、ただの風か
人の形に見えたのは一瞬だけ。
しかし二人は追わなかった。
この夜の静謐さを乱すことは
どこかためらわれたのである。
館へ戻るころ、雪は細く舞いはじめ
二人の肩に白い粒が静かに積もった。
「今夜は、いつもより世界が広く感じたな」
祐兵がそう言うと
豊久は息を白く吐きながら頷いた。
「ええ。まるで、雪の下に
もうひとつの国があるようでした」
扉を開けると、小春と黒猫が
眠い目をしながら迎えに来た。
暖かい空気が二人を包み
夜の幻想がすっと遠のいていく。
「明日になれば、いつもの冬だろう」
祐兵が微笑むと、豊久も柔らかく笑った。
しかし胸の奥には
確かに『何か』を見た余韻が残っていた。
雪の夜は、静かに世界を変えるのであった。




