第四十話 凍る滝の下で
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。あの作品で有名。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
夜明けとともに、飫肥の山々は青白い光を放っていた。
伊東祐兵と島津豊久は
氷を踏みしめながら渓流沿いを登っていた。
「風が鋭い……まるで刀のようですな」
「この寒さこそ、山の試しだ」
祐兵は息を吐き、霜の舞う谷を見上げる。
そこには、巨大な滝が凍りつき
幾千もの氷柱が陽光を反射していた。
「これが……凍る滝か」
豊久は息をのんだ。
音を失った世界で
ただ水の記憶だけが静かに凍っていた。
二人は滝の前に立ち、手を合わせた。
「この地に息づくすべての命に、感謝を」
祐兵の声が、氷壁にこだまする。
その音は、まるで山が答えるように低く響いた。
「祐兵殿、滝がまるで生きているようですな」
「水が止まっても、命は眠っておるだけだ」
氷の奥では、わずかに流れる水の音が聞こえた。
それは春を待つ胎動のようでもあった。
豊久は瞼を閉じ
「凍るとは、息をひそめること……生を絶やすことではないのですな」
と呟いた。
滝の前で火を熾し、二人は温めた湯を口にした。
白い湯気が立ち、氷の壁に映って揺れる。
「戦の頃、我らはこの静けさを知らなんだな」
豊久の言葉に、祐兵は微笑んだ。
「剣を振るうより、今は祈るほうが難しい」
風が滝を撫で、氷柱が微かに鳴った。
その音は鈴のように澄み
どこか懐かしい響きをもっていた。
「祐兵殿、聞こえますか? 滝が笑っております」
「山も、人も、寒さの中で笑うことを学ぶのだ」
二人は笑い、盃を交わした。
日が傾き、滝の氷は淡い黄金色に染まった。
祐兵は氷壁に手を当て、低く言った。
「この静けさを、胸に刻もう。戦の記憶よりも、深く」
豊久は頷き
「春になれば、またこの滝が歌い出すでしょう」
と言った。
二人はゆっくりと山を下りる。
背後で、滝の氷がひとつ
かすかに割れる音を立てた。
それはまるで
眠りから目覚めた命の声のようだった。
「自然は人よりも、はるかに強く、そして優しい」
祐兵の言葉を風がさらい
雪明かりの谷に、静かな余韻だけが残った。




