第二十八話 秋雨と香の夕べ
その日の飫肥は
朝からしとしとと雨が降っていた。
軒先の柿の実が濡れ
庭の苔は瑞々しい緑に光る。
伊東祐兵は書院の畳に座り
静かに香炉へ火を入れた。
「良い香りですな」
島津豊久が雨具を脱ぎながら微笑む。
「秋の雨は冷たいが、この香は心を温める」
祐兵は微笑み、香木を灰にそっと置いた。
細く立ち上る煙が
雨音と共に静かな時を包み込んだ。
「香とは、まこと不思議なものですな」
「姿も声もなく、ただ香りで心を語る」
豊久は目を閉じ、深く息を吸った。
「この香を聞くと、なぜか昔のことを思い出します」
祐兵がうなずく。
「香は記憶を呼ぶ。戦の日々も、旅の夜も、香一つで甦る」
窓の外では、雨が竹林を打つ音が静かに響いていた。
「戦の匂いではなく、平和の香りを嗅げる今こそ、幸せというものですな」
「まさにその通りだ」
祐兵の声には、深い安堵が宿っていた。
やがて祐兵が懐から小箱を取り出した。
「これは唐より伝わった伽羅。滅多に使わぬが、今宵は特別だ」
香を焚くと、豊かな甘みのある香気が漂い始めた。
「おお…まるで秋の森のようですな」
「香は天地を結ぶ橋だ。人の心を静め、自然と一つにする」
「なるほど、武でも同じ理がございます。呼吸と心を合わせねば、剣は生きません」
二人は黙して香を聞いた。
外では雨脚が弱まり
雲間から薄い月の光が差し込んでいた。
「祐兵殿、香の道とは、心を澄ます修行のようですな」
「ああ。火を見つめ、香を聞き、己を知る。それが人の静けさだ」
豊久はしばし無言で煙を見つめた。
「戦も香も、人の心ひとつですな」
「だからこそ、心を乱さぬ者が強い」
雨はやみ、庭の苔に月光が降り注いだ。
香の煙が夜気に溶け、二人の間に淡く流れる。
「良い夜でしたな」
「うむ、香りのように儚く、美しい夜だ」
秋の終わりを告げる風が、そっと障子を鳴らした。




