聖女として召喚された女子大生が逃げようとしてドアを開けたらなぜか聖騎士と恋に落ちました
私の名前は川嶋沙也香。都内の大学の文学部に通う、ごく普通の女子大生だ。
昨日まで、私は卒論の締め切りに追われ、卒業を控えた大学生なら誰もが経験する日々を過ごしていたのに――。
深夜のファミレスで、パソコンの画面とにらめっこしながら「この論文さえ終われば、あとは天国!」なんて、陳腐な願望を抱いていたはずなのに――。
昨日のあの晩、私はとんでもない出来事に巻き込まれてしまった。
その出来事とは……。
◆◇◆◇
自室でタブレットに映る卒論の文字を睨んでいた時、突然、強烈な光が視界を覆った。思わず目を閉じると、足元から吹き荒れる風に体が宙に浮き上がる感覚。短い悲鳴を上げる間もなく、私は地面に投げ出された。
目を開けると、そこは自室とは全く異なる光景が広がっていた。
豪華絢爛な絨毯が敷き詰められた床。頭上ではシャンデリアが眩しく輝き、壁には壮麗な絵画が飾られている。そこはまるで昔、絵本で見たままの豪華な古城だ。
その部屋には、ローブを纏った数人の男女がいた。
彼らは、私が突然現れたことに驚いている様子で、その視線は、私を値踏みし、警戒し、動物園の珍しい生き物を見るような好奇心と畏怖が入り混じった複雑な感情を宿していた。
混乱が頂点に達する。私は一体どうなってしまったのだろう。小説やアニメでしか見たことのない状況に、思考は完全に停止し、私の脳はこの現実を処理しきれずにフリーズした。
ローブの男の一人が、感嘆の表情を浮かべながら、なにやら声を上げていた。彼が何を言っているのか、私にはまったく理解できなかった。ただ、彼らの間には驚きと興奮が広がり、未知の言葉が飛び交っている。
彼らが何を話しているのかも、私がどうしてここにいるのかも、何もかもが分からない。
ただ、得体の知れない不安と恐怖が、私の心を支配していく。深い海の底に突き落とされたかと思うほどの孤独感が、私を包み込んだ。
やがて、ローブを纏った中で最も年長と思しき男が、ゆっくりと私に近づいてきた。彼は私をじっと見つめ、何かを呟やくと同時に光が私を包む。その光が消えると、深々と頭を下げた。
「ようこそ、聖女様」
その言葉は、なぜか日本語として、直接心に響いてきた。
聖女?
私が?
この状況は一体何なのだろう。理解不能な現実に、私はただ立ち尽くすしかなかった。私の存在そのものが、まるで透明な膜で覆われてしまったかのように、曖昧になっていく感覚があった。
◆◇◆◇
その後、私はこの世界の「偉い人」たち、国王や宰相、そして宮廷魔術師と名乗る者たちから、この状況について説明を受けることになった。
彼らの話は、あまりにも突拍子もなさすぎて、まるで荒唐無稽な物語を聞いているかのようだった。私の頭の中では、現実と非現実の境界線が曖昧になっていく。
このエルトニア王国では、長年、王国を守ってきた「聖女」がお亡くなりになり、各地で魔獣が跋扈し始めたという。魔獣は通常の攻撃では殺してもすぐに復活するため、聖女の持つ「聖なる力」でしか完全に退治できないらしい。
そこで、国王の命により聖女を国中隈無く探したがみつからず、やむを得ず、宮廷魔術師が「古の召喚術」を用いて、聖女の能力を持つ者、つまり私をこの世界に召喚したのだという。
彼らの言葉は信じがたいものだったけれど、この目の前の光景が、その全てを裏付けていた。私は確かにここにいる。
さらに彼らは、元の世界には帰れないと、私に告げた。
召喚術は一方通行であり、元の世界に戻る方法は見つかっていない、と。その言葉は、私に冷たい水が浴びせられたかのような衝撃を与えた。
その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。日本にいる家族や友人、そして何より、あと数日で卒業するはずだった大学の生活。
全てが遠い記憶の彼方へ消え去った。私の未来は、一瞬にして目の前で霧散した。
「そんな……嘘でしょう……」
震える声で呟いた私の言葉は、誰にも届かなかった。王様も宰相も、そして宮廷魔術師も、皆が私に期待の眼差しを向けている。私は、彼らの切実な願いを前に、何も言えなかった。
ただ、胸の奥から込み上げてくる絶望感に、全身が震えるばかりだった。孤独が全身を震わせた。世界にたった一人になった気分だった。
◆◇◆◇
その夜、私は城の一室へと通された。豪奢な調度品に囲まれた部屋は、確かに目を瞠るほどだった。しかし、私にはそれがただの絢爛な檻としか映らなかった。
窓の外に浮かぶのは、日本の月と寸分違わぬ大きさだけど、新緑を映したような月。その異様な光景が、私が故郷とはかけ離れた場所にいるという現実を、容赦なく突きつけた。その幻惑的な月光は、私にとっては嘲りの輝きに思えた。
ベッドに横たわったところで、到底眠りにつけるはずがなかった。脳裏には、家族の面影、友人の笑顔、二度と踏みしめることのない日本の土が次々と浮かび上がっては消えていく。その全てが、私に現実に突きつけられた絶望を訴えかけていた。
意識が朦朧とする中で、熱い涙が頬を伝い、止めどなく枕を濡らしていく。声にならない悲鳴が胸の奥で響くばかりで、私はただ静かに泣き続けた。一度溢れた涙は、もう止まらなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。涙が枯れる頃には、私の心は一種の諦めと、そして強い反発で満たされていた。
帰れない?
そんなこと、勝手に決めるな。このままここで、彼らの言う「聖女」として魔獣と戦うだなんて、冗談じゃない。
私はただの女子大生だ。
剣も魔法も使ったことがない、ごく普通の人だ。
私はベッドから飛び起きると、部屋のドアに向かった。ここから脱出する。そう決意し、硬く閉ざされたドアノブに手をかけた。重いドアノブを回し、力を込めて押すと、拍子抜けするほど簡単にドアが開いた、その瞬間だった。
――ドンッ!
鈍い音と共に、何かにぶつかった衝撃が伝わってきた。驚いて顔を上げると、開いたドアの隙間に、一人の男性が挟まれていた。彼の体は、ドアの蝶番と壁の間に押し込まれている。
「い、いたたた……」
呻き声と共に、彼がゆっくりと顔を上げる。その瞬間、私の視線は釘付けになった。陽光を宿した金髪がまばゆく、朝露に濡れた若葉色の翠眼が印象的だった。すっと通った鼻筋、整えられた口元。まるで絵画から抜け出してきたかのような、完璧なまでの美しさに私は見惚れてしまった。
彼は、高校の教科書で見たような騎士の服を身につけており、その胸元には見慣れない紋章が輝いている。
呆然と立ち尽くす私に、彼は気まずそうに微笑んだ。その微笑みは、彼の完璧な美しさを少しだけ人間らしいものに変えてくれた。
「すまない、まさか扉が開くとは思わなくて……。怪我はなかったか?」
彼の声は、甘く、陶酔させる響きを帯びていた。彼の声が耳に届くと、私の心臓は雷に打たれたかのように大きく跳ねた。その魅惑的な容姿と相まって、私は彼から目を離すことができなかった。
「なにか変な事をいってしまったかな?」
彼に完全に魅入られて押し黙ってしまった私を見て、彼は不思議そうに、少し心配げに私の顔を覗き込んだ。
「あ、いえ、私は……その、大丈夫です。それよりも、あなたこそ……」
慌てて返事をしながら、私は彼の様子を確認した。額をドアの角にぶつけたようで、少し赤くなっている。その痛々しい赤色が、私をさらに焦らせた。
「申し訳ありません! 私が急に開けてしまったので……!」
私は彼を介抱しようと、思わず手を伸ばした。彼は少し驚いた様子だったが、すぐにふわりと笑って、私の手を取った。その手は驚くほど大きく温かく、私の手がすっぽりと包み込まれる心地よさがあった。
それが、私と彼―聖騎士団の副団長、カイル・アウグストとの初めての出会いだった。
◆◇◆◇
それから、私は城での生活に少しずつ慣れていった。戸惑いが全くなくなったわけではないが、日々の些細な出来事の中に、ほんの小さな光を見つけられるようになっていた。その光のほとんどは、カイルという青年聖騎士がもたらしてくれたものだった。
彼は、私がこの世界に馴染めるよう、本当によく世話を焼いてくれた。
日中、城の廊下で彼とすれ違うたび、その青年聖騎士は足を止め、いつも私の体調や不便なことはないかと気にかけてくれた。彼は常に温かく、私の困惑しがちな顔も彼と話すと自然と和らいだ。彼のそばにいると、この異世界の空気に疲れた心がふっと軽くなるのを感じた。
夕食の後には、決まって私の部屋を訪ねてくれた。ノックの音はいつも控えめで、扉を開ける彼の顔には、一日の疲れよりも私を慮る優しさが滲んでいた。彼は、今日の出来事を根気強く、優しく聞いてくれた。
私がこの世界と私がいた世界の違いについて戸惑いを口にすると、彼は決して笑わず、些細な事でも真剣に聞いてくれた。そして、丁寧にこの世界の事を教えてくれた。
彼が教えてくれることは、どれも私にとって新鮮だった。
日本のそれとは微妙に異なる夕焼けの色、全く違う星の配置、この世界の不思議な生態。
彼の話に耳を傾けるうち、私は穏やかな喜びに包まれ、少しずつこの世界の魅力に気づいていった。
彼はまた、この王国の歴史や文化、人々の暮らし、さらに聖騎士団の役割についても、丁寧に教えてくれた。古の英雄たちの物語や、王家が辿ってきた波乱の歴史、市場で働く人々の活気ある日常、聖騎士団がどれほど誇り高く、王国を守るために命を賭しているか。
彼の言葉一つで、私の心にこの世界の地図が描かれていく。見知らぬ「異世界」は、着実に私の「現実」へと姿を変えていった。
彼の穏やかで誠実な人柄に触れるうち、私は次第に彼に惹かれていった。不安を溶かすような彼の優しい眼差しと、はにかんだ笑顔に触れるたび、心が温まるのを感じた。
異世界での孤独を癒やす、大切な時間となった彼との会話。彼の声を聞くたび、心のざわつきは静まり、まるで故郷にいるかと思えるほど温かい安心感が私を包んだ。
気がつけば、彼という一筋の光が、暗闇に閉ざされた私の心に差し込んでいた。彼が隣にいるだけで、どんな困難も乗り越えられる気がした。彼は私にとって、ただの騎士以上の、かけがえのない存在だった。
◆◇◆◇
彼との出会いから数週間が経ったある日、私は城の庭園で、一人ぼんやりと故郷の空を思い出していた。この世界に来てから、ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた寂しさが、ふとした瞬間に込み上げてくる。その日も、日本の空に思いを馳せていると、背後から優しい声が聞こえた。
「聖女様、何かお悩みですか?」
振り返ると、そこにカイルが立っていた。いつものように穏やかな微笑みを湛え、心配そうに私を見つめる彼の翠眼は、太陽を宿したかのようにきらめき、私を捉えていた。私は、彼の優しさに触れて、思わずこぼれそうになる涙を必死に堪えた。
「いえ、少し、故郷を思い出して……」
そう言うと、彼は私の隣にそっと腰を下ろした。沈黙が流れる。しかし、その沈黙は決して不快なものではなく、むしろ温かく、私の心を包み込んでくれた。彼が隣にいるだけで、凍り付いた心がじんわりと解けていくのを感じた。
「そうでしたか。故郷は、きっと美しい場所なのでしょうね」
故郷を偲ぶような彼の眼差しと呟きが、深く心に染み入った。常に私に寄り添い、理解しようとしてくれる彼の純粋な優しさが、何よりも救いだった。
「はい。春には桜が咲き乱れて、夏には花火が夜空を彩って……」
彼の柔らかな視線に導かれ、私は故郷の思い出を語り始めた。カイルは私の拙い説明を、真剣な面持ちで、時に楽しそうに聞いてくれた。
驚きに目を大きくしたり、穏やかな笑みを浮かべたりする彼の表情を見るたび、私の心は温かい光に包まれた。
彼が笑うと、まるで周囲に陽光が差し込んだように明るく感じられた。彼との時間は、私にとってかけがえのないものとなっていた。
ある日の午後、図書館でこの世界の歴史書を読んでいた時のことだ。難解な古文書の文字に頭を悩ませていると、不意に背後からカイルが声をかけてきた。
「何か、お困りですか?」
彼の声は優しく、私の心をふわりと撫でた。振り返ると、数冊の書物を抱えた彼が立っていた。知的好奇心と、私を気遣う優しさがその瞳に宿っていた。
「はい、このあたりの歴史が、どうも難しくて……」
私が指差したページを覗き込んだカイルは、心得たように頷いた。
「この時代は、魔獣の活動が活発になり、王国が最も苦しんだ時期です。同時に、聖女様の存在が最も輝いた時代でもあります」
彼はそう言うと、私が読んでいた書物よりもさらに古いであろう分厚い書物を棚から取り出し、私の隣に腰を下ろした。そして、その書物を開き、指で文字を辿りながら、穏やかな声で語り始めた。
「この書物には、古の聖女様と、彼女を支えた聖騎士たちの物語が記されています。彼らは、常に民のため、王国のために命を捧げました」
カイルの語り口は、物語の情景を鮮やかに浮かび上がらせた。英雄たちの勇気を語る声は力強く、犠牲への哀悼を紡ぐ声は静謐な響きを帯びる。彼の言葉一つ一つが、私の心の奥底に深く刻み込まれていった。
私は、彼の横顔をじっと見つめていた。真剣な眼差しで書物を見つめる彼の横顔は、彫刻を思わせるほど精悍でありながら、どこか儚げだった。
窓から差し込む夕日に照らされ、彼の金色の髪がゆらゆらと揺れる。その光景は私を深く魅了し、尊さを感じさせた。彼が語る英雄譚は、いつしか彼自身の未来を暗示しているかのようだった。
彼の物語を聞いているうちに、私はこの世界に対する理解を深めた。同時に、カイルという人物への尊敬の念と、彼への秘めた想いを募らせていった。
彼が語る英雄たちの姿は、そのままカイル自身の姿と重なって見えた。彼もまた、この王国を守るために、命を賭して戦う覚悟を決めている。
そのことを思うと、胸が締め付けられるような切なさと、彼への強い憧れが同時に込み上げてきた。
◆◇◆◇
ある日、カイルが私の部屋を訪れた時のことだ。いつもは控えめにノックする彼が、その日は扉の前で少しだけ躊躇した。やがて、いつものノックとは異なる、どこか遠慮がちな音が響く。間を置いてから、優しい声で私を呼んだ。
「サヤカ、今、少しだけいいだろうか?」
「聖女様」と呼んでいた彼の口から、私の名前が呼ばれた。
その瞬間、私の心臓は大きく跳ねた。それまであった見えない隔たりが、音もなく消え去る。驚きと戸惑いのうちに、ふわりと胸に広がる喜びを感じながら、私は彼を部屋に招き入れた。
部屋に入った彼は、いつものように私の体調を気遣ってくれた。だが、その声色には、これまでにない親密さがにじむ。
「最近、顔色が優れないように見える。無理をしていないか、心配でね」
彼の言葉は、私の胸の奥にじんわりと温かさを広げた。彼は、私の心に深く寄り添ってくれているのだ。
「カイル、私もあなたのことが心配です」
思わず、彼の名前を呼んでしまった。彼の顔が、わずかに驚きに染まる。しかし、すぐに彼はふわりと微笑んだ。その微笑みは、これまでで一番、私にとって柔らかく、温かいものだった。
「ありがとう、サヤカ。君のその言葉が、何よりの支えになる」
その日から、彼と私の関係は明らかに変わった。カイルが私を「サヤカ」と、私も彼を「カイル」と呼ぶようになったのは、その証だ。
公の場では「聖女様」と「副団長」としての振る舞いを保ちつつも、二人きりの時は長年の友人、あるいはそれ以上の深い絆で結ばれた会話を重ねた。
異世界で抱える孤独と不安を、カイルは誰よりも深く理解し、受け止めてくれた。私の他愛ない冗談に顔をくしゃりと綻ばせて笑い、真剣な問いかけにはじっと耳を傾ける。
彼の存在があったからこそ、この過酷な場所でも私は自分らしくいられたのだ。彼は私にとって、かけがえのない安息の地だった。
◆◇◆◇
しかし、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。ある日、カイルが深刻な面持ちで私に告げたのだ。
「来月、私は魔獣討伐隊として、瘴気の森へ向かうことになった」
彼の言葉に、私の心臓が凍り付いた。瘴気の森。魔獣が最も多く生息し、これまでにも多くの騎士が命を落としてきた危険な場所だと、彼から聞いていた。彼の瞳の奥には、王国の未来を背負う者の重みが宿っていた。
「どうして……あなたが?」
絞り出した私の声に、彼は静かに首を振った。その一振りに、任務への抵抗が見え隠れする。しかし、彼の表情には、揺るぎない覚悟がはっきりと刻まれていた。
「聖女が不在の今、私たちができることは限られている。だが、このまま魔獣の勢力拡大を許せば、王国は滅びる。私が率いる部隊が、何としても時間を稼がなければならない」
彼は寂しげに微笑んで、こう続けた。
「もしかしたら……無事に帰れないかもしれない……」
その言葉が、私の胸に深く突き刺さった。嘘だ。そんなこと、あってはならない。彼がいなくなってしまうなんて、考えたくもなかった。彼のいない世界など、想像することもできなかった。
私は、自分がこの世界に召喚された「聖女」であることを思い出した。しかし、聖女の力が覚醒していない私には魔獣を退治する力などない。
ただの女子大生の私に、彼を救うことなどできるはずもない。焦燥と無力感が全身を苛み、このまま消え入りそうなほどの絶望が押し寄せる。彼の言葉は、私の心の深淵に、冷たい闇を広げていった。
◆◇◆◇
それから、私は聖女の力を覚醒するため、宮廷魔術師に懇願し、聖女の力の引き出し方を教えてもらった。朝から晩まで、魔力の流れを感じ取る訓練や、聖なる言葉を紡ぐ練習を続けた。
寝る間も惜しみ、食事の時間も削って、ひたすら力を求める日々。しかし、私の焦りとは裏腹に、聖女の力はなかなか覚醒してくれなかった。
ある日、宮廷魔術師が私の修練の成果を見て言った。
「サヤカ殿の努力は素晴らしい。この調子だと、あと二ヶ月程で完全に聖女の力を覚醒させることができるだろう」
その声は喜びと期待に満ちており、宮廷魔術師にとっては朗報以外の何物でもないのだろう。しかしながら、私にとっては冷水を浴びせるような衝撃だった。
二ヶ月間。
それでは遅すぎる。カイルは来月、瘴気の森へ向かうのだ。彼は戻ってこないかもしれない。その事実が、私の胸を抉った。
「それではダメです……もっと、もっと早く……!」
私は、もはや無我夢中だった。寝る間も惜しみ、魔術書を読み漁り、修練を続けた。彼の命がかかっている。それだけが、私の心を突き動かす原動力だった。
疲労で意識が朦朧としても、彼が「生きて帰ることはできないだろう」と言った顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼の笑顔、彼の声、彼の温かい手が、私の脳裏に焼き付いて離れない。
彼を守りたい。その一心で、私は全ての力を振り絞った。
カイルは、そんな私を心配して、度々部屋を訪れてくれた。彼は私の憔悴した顔を見て、心を痛めているようだった。
「サヤカ、無理をするな。君は、もう十分だ。君がいてくれるだけで、俺は十分だ」
ある夜のことだった。修練に打ち込み、心身ともに疲弊しきっていた私を見かねたのだろう、カイルが私の部屋を訪れた。
彼は、いつになく静かな面持ちで私の傍らに座り、そっと私の手を優しく握った。
彼の指が、私の手の甲をゆっくりと慈しむように撫でた。そのわずかな仕草が、私の全身を覆っていた緊張の糸を、ふわりと解き放つ。
温かく、少しだけごつごつとした彼の掌から、じんわりと温もりが染み渡ってくる。それは、凍えきった心に柔らかな陽だまりが差し込む感覚だった。
その温もりが、私の心を深く、深く包み込む。言葉にならない安堵と、彼への愛おしさが、胸いっぱいに広がる。
「ありがとう、サヤカ。君が俺のために、そこまでしてくれたこと、感謝してもしきれない。だから……」
彼は、私の瞳を真っ直ぐに見つめ、力強く言い放った。
「必ず、無事に帰ると約束しよう。何があっても、俺は生き残る。君の元へ、必ず戻ってくる」
彼の言葉に、私の目から涙が溢れ出した。それは安堵の涙。何より、彼への深い愛の涙だった。
私は、彼の言葉を信じたかった。
いや、信じるしかなかった。
彼の指が、優しく私の涙を拭ってくれた。その瞬間、私は彼の存在が、私にとっての全てなのだと、改めて悟った。
カイルの顔がゆっくりと近づく。触れるか触れないかの距離で、彼の翠眼がまっすぐに私を見つめた。
その瞳に、迷いも、打算もなく、ただ純粋な、私への想いが溢れているのを感じた。
言葉はもう必要なかった。私の唇に、そっと彼の唇が重なる。
それは、深い安堵と、切なる愛を確かめ合う、優しい口づけだった。
◆◇◆◇
カイルが瘴気の森へ出発する朝。私は城のバルコニーから、彼の姿を見送った。彼は、騎士団の先頭に立ち、毅然とした表情で馬を駆っていた。一度だけ、彼は振り返り、私の方を見た。
私に向けられた彼の瞳は、最期の言葉よりも多くを物語っていた。そこには決死の覚悟と、微かながらも確かな愛情が深く宿っていた。
彼は、ほとんど気づかれないほど小さく頷き、二度と振り返らず前へと向き直った。朝日を浴びて、彼の金色の髪がまばゆくきらめく。
その光景は、私の網膜に焼き付くほど鮮烈だった。遠ざかる彼の背中が小さくなるたび、私の想いは募り、呼吸が浅くなった。
今の私は、聖女の力を完全に覚醒させることはできなかった。最後の最後まで努力を重ねたが、魔力が光となって私を包む感覚はあるけど、魔獣を浄化するほどの力には至らなかったのだ。
宮廷魔術師が言ったように、やはり時間が必要だった。
彼の出発は、私にとってあまりに早すぎた。自身の無力感が喉の奥で透明な膜のように張り付く。彼を守れなかった事実が、私を深く打ちのめした。
彼が出発してから、私は眠れない夜を過ごした。窓から見える翠緑の月が、彼のいる瘴気の森を照らしていると思うと、身を切られる心地だった。毎晩、彼の無事を祈り続けた。
どうか、彼が無事でありますように。
どうか、約束を果たしてくれますように。
彼の帰りを待つ日々は、永遠にも感じられた。
◆◇◆◇
彼を見送ってから7日が経ち、王国に第一報が届いた。魔獣討伐隊が、瘴気の森の深部で多数の魔獣と遭遇し大規模な戦闘になったという。
その結果、多くの犠牲者が出た、と。私の心臓は、警鐘を鳴らし続ける。嫌な予感が、全身を覆い尽くした。
翌々日の夕方。私は、城門に集まる人々の喧騒の中にいた。討伐隊の生存者が、わずかながら帰還したのだ。
彼らは皆、深い傷を負い、その表情には筆舌に尽くしがたい絶望が刻まれていた。泥と血にまみれた彼らの姿は、戦場の悲惨さを物語っていた。
彼の姿を求めて、私は必死に目を凝らした。誰よりも背が高く、輝く金色の髪を持つ彼。しかし、その姿はどこにも見当たらない。私の視線は一点に釘付けとなり、もはや動かすこともできなかった。
その時、一人の騎士が、私の目の前で跪いた。跪く前に見せた彼の表情は、深い悲しみに歪んでいた。
「聖女様……申し訳ありません」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。彼の言葉が、ゆっくりと、私の耳に届く。
「カイル副団長は……」
その先の言葉は、聞きたくなかった。いや、聞く必要もなかった。私は、既にその言葉の意味を理解していた。
彼の声は遠ざかり、霞んでいく。私の意識は、この世界から引き離されるような感覚に囚われた。
「副団長は……魔獣の群れから我々を庇うため殿を務められ、最期まで戦い続けました……しかし、そのご遺体は……」
騎士の言葉は、そこで途切れた。遺体が見つからない。それは、彼が完全に魔獣に食い尽くされたことを意味していた。
私は、その場に崩れ落ちた。彼の言葉が、私の頭の中で何度も繰り返される。
カイルが、いない。もう、この世界には、いない。
涙も声も枯れ果てた。胸に空いたぽっかりとした穴からは、魂の半分が抜き取られたかのような喪失感が広がる。冷たい風がその空洞を吹き抜け、私の全てを奪い去っていった。
なぜ、私に力が足りなかったのか。
なぜ、彼を救うことができなかったのか。
あの時、もっと早く力を手に入れていれば、彼を助けることができたのではないか。後悔と自責の念が、私の心を深く抉り続けた。
彼の「必ず戻る」という約束が、私の心に深く重くのしかかった。
◆◇◆◇
夜闇が訪れるたび、カイルの幻影が私の心を捕らえた。閉じた瞼の裏には優しい笑顔が、耳の奥には穏やかな声が、開いた手のひらには温かい感触が、まるで私を咎めるように蘇る。
彼なきこの世界で、私はどう生きていけばいいのか。彼の不在は私の存在意義すら揺るがし、この世界からあらゆる意味を奪い去った。
それから、私は聖女として、この王国に尽力した。
カイルが命を賭して守ろうとしたこの国を、今度は私が守らなければならない。
彼の願いを、私が引き継がなければならない。
そうすることでしか、私は彼への募る想いを昇華できないと知った。
彼の死は、あまりにも大きな喪失だった。しかし、その喪失こそが、私を聖女として奮い立たせたのだ。彼が私に遺してくれた、最後の、そして最も大切な贈り物として。
魔獣討伐の任に就き、私は聖女としての力を着実に高めていった。日々の戦いは苛烈を極めたが、彼の面影が私を支えた。彼の死が、私の中に眠っていた真の力を引き出したのかもしれない。
彼が命を賭してくれたからこそ、私は今、ここに立っている。彼の犠牲の上に、私の聖女としての力が花開いたのだ。
皮肉なことだが、彼を救えなかったことで、私は本当に聖女になったのかもしれない。その事実は、私に深い悲しみと共に、新たな使命感を与えた。
私は王国の人々から「聖女様」と慕われるようになった。彼らは私の力に希望を見出し、私を「導きの聖女」と呼んだ。
しかし、私の心には、いつだって深い悲しみが宿っていた。
◆◇◆◇
公務を終え、一人部屋に戻るたびに、胸の奥が締め付けられる。夜空に浮かぶ萌黄色に輝く月を見上げるたびに、彼の翠眼を思い出す。
(彼の温かい手に触れたい。もう一度、あの声を聞きたい)
彼のいないこの世界で、私は一人、彼の残像を追い続けていた。 ある日の夜、私は一人、城の庭園で彼の瞳の色と同じ若葉色の月を見上げていた。
冷たい風が、私の髪をそっと撫でていく。その風は、まるでカイルが私に触れているかのように優しかった。耳の奥には、今も彼の声が鮮明に残っている。
「サヤカ、必ず、無事に帰ると約束しよう。君の元へ、必ず戻ってくる」
彼との約束。それは、残酷なまでに叶わなかった。彼の名前を呼ぶと、私の頬に熱い涙が伝った。嗚咽が込み上げ、私はその場で膝から崩れ落ちた。彼の名を呼び、彼の不在を嘆いた。
その時、月明かりが庭園の泉の水面にきらめき、それはカイルの優しい眼差しそのものだった。水面に映る若葉色の月が、静かに、だが力強く私を見つめ返している。
その光景が、私の心に深く、温かい何かを灯した。
彼への愛は、今も私の魂の奥深くに刻み込まれている。叶わなかった恋。それでも、彼と出会えたことに後悔はない。彼の存在は、私の人生に、深く、かけがえのない光を灯してくれた。
彼が教えてくれた優しさと、彼が残してくれた温もりは、永遠に私の心の中で生き続けるだろう。
私は、彼のいない世界で聖女として生きる。彼の残した希望を胸に、そして彼への尽きることのない愛を抱きしめて。
きっといつか、彼に誇れる私になる。この長い旅路の果てに再会できたなら、胸を張って「あなたのおかげで、私は強く生きられた」と伝えたい。
彼のいない世界で、私は彼の分まで生き抜くと、静かに、だが揺るぎない覚悟で心に誓った。
いつかこの物語が、遠い彼方の、彼の魂に届くことを願いながら。
(完)
いつも応援ありがとうございます!
この物語を最後までお読みいただき、本当に感謝しています。
今後の創作に繋げたいので、作品のご評価(下の☆をタップすれば評価できます)や率直な感想をいただけると幸いです。