王立研究所の歴史家
二階のフロアを二分しているといっても、第三書庫も十分な広さがある。
古代文字で書かれた古い本は、活版印刷の本よりも慎重に管理されている。
雨の多い王国で湿気に羊皮紙が黴ないように晴れた日には換気を、雨が多い日には乾燥剤が置かれており、定期的な本の手入れも欠かせない。
ただし、貸し出しはしないしここに訪れる人も少ない。
骨董品置き場のような場所だと、クリストファーは言っていた。
正方形の部屋に整然と並んだ書架に、少しゆとりを持ちながら古代語の本がおさめられている。
その一角に、オーウェンは本を戻した。
古代文字というのは、全て解読されているわけではない。
だからこれだけの蔵書があっても、全てを読むことができる人は王国を探しても一人もいないだろう。
大学の教授でさえ、『低年齢向けの文法を教えるのが精一杯』なのだと言っていた。
例えば『私は花が好き』や、『これは本です』など。
もっと長く難しい文章になると、途端に読むことができなくなってしまう。
ラファル文字よりもその文字は複雑で、それほどに古代の文明は栄えていたのだろうと教授が言っていたことを、古い本が並んだ書架を眺めてリリアは思いだしていた。
「つきあってくれてありがとう。仕事を増やしてしまって申し訳なかった」
「いいえ、大丈夫です、どちらにしろ、第三書庫に残っている人がいないか確認して、それから第二書庫を見て、鍵を閉めて帰ることになっていますから」
「……では、私は君に付き合おう」
「え……あ、大丈夫ですよ。私の仕事ですから」
「私のせいでいつもよりも時間が遅くなってしまったのだろう。鍵を閉めるまで共にいるのが礼儀というものだ」
リリアは困惑して眉を寄せた。
そんな風に──例えばエラドなら、絶対に言わない。
オーウェンが普通なのか、それとも彼は特別優しいのだろうか。
「……ありがとうございます、ですが」
「リリア、暗くなる前に鍵を閉めるのだろう。早く行こう」
「は、はい」
第三書庫から出て行くオーウェンを追いかけて、リリアは第三書庫から出ると首にかけている鍵束から鍵を一つとりだして閉める。
それから第二書庫の鍵も閉めると、オーウェンと共に階段を降りて、裏口の鍵がかかっていることを確認したあとにテネグロ図書館から出た。
正面玄関の鍵と裏口の鍵は同じだ。鉄と木を組み合わせて作ってある扉をきちんと閉めると、鍵をかける。
これで本日の業務は終了だ。あとは──家に帰るだけ。
迫り来る夕闇と共に、リリアの心にも影が落ちる。
「お付き合いいただきまして、ありがとうございました」
「リリア、少し時間をくれるか?」
「え……?」
「実は、ここまで君と共にいたのには、下心がある」
「下心ですか……?」
なんだろうと、リリアは首を傾げる。
テネグロ図書館の周囲には木々のはえた広大な庭がある。ベンチがいたるところに置かれていて、子供たちが遊んだり、人々の憩いの場になったりしている。
その庭はぐるりと鉄柵に囲まれている。短い春には、鉄柵全体に張り巡らされた薔薇の蔓に美しい赤い薔薇が咲く。
王国は冬に向かっている。春が来たらきっと美しい光景を見ることができるだろう。
正面入り口から門までは石畳のアプローチがある。門も閉めるが、こちらには鍵がない。閂があるだけだ。
門の向こう側には馬車道があり、夕方の街を帰路につく馬車や、通りを歩く人々の姿がある。
ふとリリアは、後ろめたさを感じた。
エラドの妻でありながら、オーウェンと二人きりで過ごすというのはよくないことだ。
リリアの不安に気づいたのか、オーウェンは少し慌てたようにいつの間にか黒い革手袋をはめている両手を振った。
「違うんだ。思わせぶりなことを言ってしまったな。そうではなく、その」
「……私、帰らなくてはいけません」
「待ってくれ、リリア」
リリアはもう少しオーウェンと話したいと思っている自分に気づいていた。
これから立ち向かわなくてはいけない現実から逃げるように。
後ろめたさも罪悪感も、オーウェンのせいではない。
自分自身の心が、自分にそう思わせているだけだ。
帰ろうとして一歩踏み出したリリアの手を、オーウェンが掴んだ。
「私は、王立研究所で古代文字と古代史の研究をしている。古代文字を一目見ただけですぐに読める人を、私は君の他に知らない。私は、君が欲しい」
「……っ、あ、あの」
「あぁ、私はまた言い方を間違えたな。君が欲しいというのは、私の研究に協力して欲しいという意味で……」
狼狽しながらオーウェンが言う。
彼は大人びているのに、困ったようなその口調はどこか可愛らしくさえあった。