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オーウェン・リンハルト



 声をかけられた男は夜空に浮かんだ月のような眼差しをリリアに向けた。

 その表情からは特になんの感情も読み取れない。

 まるで絵画に描かれた、神話に出てくる湖面に映った自らに恋をする美青年のようだとリリアは思う。

 それぐらい、青年の顔立ちは整っていた。


 喜怒哀楽を一切失ったような眼差しは人ではない別の何かのように感じられて──例えば魔性の者のようで、少し畏怖を感じるぐらいだ。

 図書館の訪問客に不用意に近づくようなことはしない。

 青年の存在は知っていたが、至近距離で顔を見たのはこれがはじめてだ。


 ずいぶんと綺麗な人だと、リリアは感心した。

 リリアの夫も顔立ちの整った男だが、エラドとはどこかが違う。

 落ち着きのようなものだろうか。エラドよりも年上に見えるから、そう感じるのかもしれない。


「……あぁ。すまない。もう、そんな時間だったか」


 静かな低い声は、どんな音も相応しくないとリリアは感じている図書館に不思議とよく馴染んだ。

 男は開いていた本をぱたんと閉じる。

 その本の表紙に視線を向けて、リリアは首を傾げた。


「それは、第三書庫にある古代の本ですね」

「第三書庫から借りてきたものだ。外への持ち出しは禁止されているが、テネグロ図書館の中なら持ち歩いて構わないはずだが」

「ええ、もちろん。鍵を閉める時間ですから、そちらの本は私が元の場所に戻しておきます」


 男は本をテーブルの上に置いて立ち上がる。

 リリアよりも頭が一つ分大きい、長身の男だ。しっかりとした体つきをしている。体を使う仕事をしているのだろうか。

 ソファの背もたれに無造作にかけているコートを羽織る。


「……ある王女の日記」


 リリアは本の表紙を指で辿る。古代文字の授業を王都大学でリリアは専攻していた。

 第三書庫はリリアの担当ではないので理由がなければ訪れたりはしない。

 あくまでリリアは職員としてここで働いている。ゆっくり本を読む時間などはない。

 丸と棒と、そして動物の絵を合わせたような文字に、リリアは懐かしさを感じた。


 古代文字を専攻したのは、この文字に愛らしさを感じたからだ。

 ラファル文字はもっと、文字という感じがする。この記号のような文字から、きっちりと五十音が定められたラファル文字に変わっていったというのが、リリアにとっては不思議だった。


「君は、古代文字が読めるのか?」

「ええ。大学で習っていましたから」

「王都大学の出身者か」

「はい。今年卒業して、まだ半年です」

「だったら、私の六年後輩だな」

「あなたも、卒業生なのですね」


 王都大学を卒業できる年齢は、順当に行けば二十歳。もちろん卒業試験に受からずに留年する者もいる。この割合は、毎年八割ほど。二割しか卒業できないことが、狭き門といわれる所以だ。

 男がリリアと同じように一度目の卒業試験で卒業しているのだとしたら、二十六歳といったところか。


「古代文字を専攻する者は珍しい。今の言葉とは、文字も文法もまるで違う。難しいだろう?」

「この、鳥やネコの絵が愛らしくて、好きなんです」

「そうか」


 リリアは本の頁をめくると、中の文字を示した。

 今の紙とは材質が違う。昔は羊皮紙が使われていた。

 本を綴じるのも針と糸が使われていて、文字も印刷ではなく手書きで書かれている。


 だから、古代の本はあまり現存していない。写本が流通している場合もあったようだが、ほとんどの場合は著者が手書きで書いて本に綴じたその一冊きりだからだ。


 この本は『ある王女の日記』というタイトルと、そして立派な表紙がついて丁寧に製本されていることからして、高貴な身分の者が制作に関わっているものだろう。


「返却しておきますので、お帰りをお願いします。急かしてしまって申し訳ありません。暗くなってしまうと、図書館ではランプを使えませんので、出口に辿り着くのも大変になってしまいます」

「……それは、すまなかった。つい、時間を忘れてしまって」

「いえ、いいんです。時間を忘れるぐらいに夢中になっていただけて、本も喜んでいますよ、きっと」

「本が喜ぶ? 不思議なことを言う」

「おかしかったでしょうか……」


 感じたことを口にしただけだが、何かおかしかっただろうかとリリアは照れた。

 男はそんなリリアの様子に、はじめて口元に僅かばかりの笑みを浮かべる。

 そうするだけで、無機質な美貌が優し気なものに変わった。


「そんなことはない。私には思いつかない表現だと思っただけだ」


 ゆったりとした穏やかな声で言われると妙な気恥ずかしさを感じて、リリアは俯いた。

 それから、いそいそと本を閉じると、大きく重い本を両手に抱える。

 それを男はリリアの両手から抜き取った。


「これは私が元の場所に戻そう。君の仕事を増やしてしまったのは、私の責任だ」

「いえ、大丈夫です。私が」

「持ち出してきたのは私だ。書架の場所もわかっている」

「……でしたら、一緒に行きますね。待っているだけというのも、どうにも落ち着きませんから」


 彼一人に任せても大丈夫だとは思うが、リリアには全員帰ったのを確認してから鍵をかけるという義務がある。どのみち、第一書庫を確認してから第二書庫と第三書庫を見て回るつもりでいた。


「わかった。では、君に甘えよう。一緒に来てくれるか?」

「はい」


 第一書庫から第三書庫に行くためには、階段をあがって右の通路を進む。

 左の通路を進むと第二書庫がある。

 つまり、第一書庫は一階の全フロアを独占していて、第二書庫と第三書庫は二階のフロアを分けている。

 これは、蔵書の数が違うからだ。第一書庫には日々新しい本が運び込まれる。

 第二書庫と第三書庫の蔵書が増えることはあまりない。


 男と並んでリリアは階段をあがっていく。二階の階段をのぼりきった先には、知識の象徴と言われている木彫りのフクロウの彫刻が置かれている。

 このフクロウを見るたびに、ベレー帽をかぶっていて可愛らしいとリリアは思う。

 どことなくその佇まいが、クリストファーに似ている。彼はベレー帽を被ってはいないが。


「君は、新しい司書だろう。私は、オーウェン・リンハルト。君の名前を教えてもらってもいいだろうか。名がないと、呼びかけることが難しい。そこの君──としか呼べないのは、こうして会話を交わしている以上は、不自由だ」

「私はリリアです。リリア……グリーズ」

「……グリーズというと」

「……グリーズ侯爵の妻です」


 これは、あまり言いたくなかった。

 妻とはとても呼べない立場に、リリアは立っている。

 だがもうすぐ離縁されるだろうことや、夫の浮気を口にすることなどできるわけもなく、リリアは小さな声で身分を伝えた。


「私は君の名を聞きたかっただけだ。立場まで言及するべきではなかったな。その名に聞き覚えがあったので、つい尋ねてしまった。失礼をした」

「いえ、大丈夫です」


 ──オーウェンは、優しい人だ。

 リリアの口調の変化を敏感に察したらしく、先回りをするように謝罪をしてくれた。

 リリアは気を使わせてしまったことがかえって申し訳なく、オーウェンを見あげて微笑んだ。 



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