私は運命じゃない
エラドから花束をもらったのは、結婚してからちょうど半年後のことだった。
この日エラドは、自室に帰らずに朝までリリアと共に過ごした。
エラドの腕に抱かれて、リリアは──胸の高鳴りと同時に、安らぎを感じていた。
はじめてきちんと夫婦になれたような気がした。
夫婦の営みは、今までは酔ったエラドが気が向いたときに行われる一方的なものばかりだったが、今日は、違う。
リリアはエラドの胸に自分の額をくっつけると、気恥ずかしさに目を伏せる。
愛されることは、幸せだ。
ここにいてもいいと、思うことができる。
いつものように朝日とともに目覚めたリリアは、しばらくエラドの子供みたいな寝顔を見つめていた。
それからそろりと起きあがり、昨日もらった花束を生けるために調理場へと向かう。
花瓶に水をいれて薔薇を一本一本さしていると、ちくりとした痛みを感じる。
処理が甘い棘がリリアの指を傷つけていた。
人差し指の薄い皮膚に針で刺したような小さな穴があき、丸い赤い血がぷっくりと膨らんでいく。
調理場のシンクにぽたりと血が落ちる。
リリアは指に布をあてた。薬箱の中にあった絆創膏を指にはる。
それからすっかり綺麗に薔薇を花瓶に生けると、玄関に飾った。
「リリア様、坊ちゃんと何かありましたか?」
「特になにかというわけではないの。ただ、薔薇をくださったわ」
「あぁ、玄関の! リリア様がお花を飾られるなんて、珍しいと思って。とても綺麗でした」
九時過ぎになり、使用人や侍女たちが家にやってくると、いつもリリアの傍にいてくれる侍女の一人が俄かに目を見開いたあとに嬉しそうに微笑んだ。
エラドがリリアの部屋で眠っていることに、彼女はすぐに気づいたらしい。
夫婦なのでごく当たり前のことなのだが、今までのエラドを知る彼女にとっては、驚くべきことだったのだろう。
「坊ちゃんも、リリア様の献身にようやく気付いたのでしょう。リリア様のおかげで、グリーズ家もかなり風通しがよくなったようですから」
「そうだといいけれど……何かあったら言ってちょうだいね。できることは何でもしたいと思っているわ」
「リリア様はすこしゆっくりされたほうがいいと思いますよ。薔薇もご自分でいけられたのでしょう。残しておいてくだされば、私たちがしましたのに」
「動いているのが好きなのよ」
今日は珍しく、雲一つない快晴だ。
使用人たちが洗ったシーツを外に干している。開け放った窓からは、涼しい秋の空気が入ってきている。
エラドはこの日も、昼過ぎには出かけて行った。
「今日は、友人たちと演劇を見に行ってくる。王都劇場に評判の歌姫がいるそうで、誘われてしまってね。リリアも、共に見に行こう。そのうち、連れていってあげるよ」
「ありがとうございます、エラド様。お気をつけて行ってきてください」
「夕食までには帰るよ」
「はい。あたたかい食事を作って、お待ちしておりますね」
行き先を告げられたのも、帰り時間の約束もはじめてだった。
リリアの心を覆っていた曇り空も、すっかり晴れてしまったようだ。
エラドを見送ったあと、リリアは弾むように軽やかな足取りで家の中に戻り、週末の青空市場に出店するための布小物を皆と共に作った。
夕方になり家の者たちがそれぞれ帰路につくと、リリアは夕食を作りをはじめた。
短い夏が終わり、夜になると冷たい空気が満ちる。庭からは虫たちの声が聞こえる。
リリアの一番好きな季節だ。夏と冬の間の日暮れが早く夜が長くなるこの時期を、リリアは好んでいた。
食材の残りを確認し、根菜類と昼に仕入れたばかりの海老や貝を煮込んでクラムチャウダーを作った。
それからパンを切り、テーブルに皿やオイルランプを並べて支度をした。
エラドの帰りを待ったが、彼は──結局、明け方近くまで帰らなかった。
「リリア、今日も出かけてくる。ドレスには手を付けただろうか? 古いものは売っていい。新しいものを仕立てるために、金を用意しなければいけないね」
「エラド様、私にはドレスは必要ありません」
「……君は、いらないのだろう。……着飾ることに、興味がないのだろうからね」
そんなことを、翌日の昼間起き出してきたエラドは言った。
やはり昨日も酒に酔って帰ってきて着替えもせずに眠ってしまったエラドからは、知らない香水の匂いがする。
嫌な予感が、リリアの心を黒い雲で覆いつくした。
身綺麗にして身なりを整えたエラドが出かけていくのを、リリアは見送った。
その数日後。リリアの嫌な予感は、確信へと変わった。
エラドが友人たちを家に連れてきたのだ。
「はじめまして、奥方様」
「エラド、君の家には奥方様しかいないのか?」
「使用人たちはどうした。何か事情があるのか?」
「奥方様はどうしてそんな、貧乏くさい服を着ているんだ。奥方様が料理を? まさか! そんな馬鹿げたことってあるかい? まるで使用人だ!」
エラドが連れてきた彼に年齢の近い四人の貴公子たちは、それぞれが爵位を持つ貴族の子息たちである。
既に結婚をしている者もいれば、そうでない者もいる。
皆、エラドよりも爵位が低い。そういう者たちが羽振りのいいグリーズ家には寄ってくるのだと、執事や侍女が悩まし気に言っていた。
「はじめまして、リリアともうします」
「ティリーズ伯爵の娘だね。伯爵は公爵家から妻を娶ったら、男と一緒に逃げられたという」
「ティリーズ伯爵は庶民を娶って、堂々と連れ歩き、社交界に顔をだしている。全く、恥知らずだ」
「貴族が庶民を娶るなんて、あり得ないよなぁ」
客室のソファにどかりと座って、靴をはいたままの足をテーブルの上に投げ出した男たちが、酒臭い息を吐きだしながら笑い転げている。
皆、見栄えのいい貴公子たちだ。ずいぶんと酒を飲んだのだろう。
そのせいだと、思いたい。
リリアは反論したくなる気持ちをぐっとこらえた。
酒の上での冗談に本気で怒っていては、とてもこの場にはいられない。
「何か食べ物をお持ちしましょうか」
「いい。酒とシガーケースを持ってこい、リリア。そうしたらお前は部屋で休め」
「わかりました、エラド様」
リリアは礼をして部屋をさがった。
リリアの背後で男たちの笑い声が聞こえる。
「そういえば、ルイーズ嬢は君に夢中じゃないか、エラド」
「すっかり熱をあげている」
「身請けされる日を、今か今かと待っているようだぞ」
ルイーズ嬢とは──最近評判だという、王都劇場の歌姫の名だ。
「──彼女は、僕の運命だ」
そう甘い声音で呟くエラドの声が、はっきりとリリアの耳に届いた。




