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離縁届


 ◆


 頬は腫れあがり、腹部には大きな痣ができている。医者の診察では骨や内臓には異常がないということだが、酒を飲んだだけで切れた口の中がひりひりと痛んだ。

 エラドはテーブルに酒瓶を並べて、ソファに寝転がっている。


「リリア、裏切り者め、リリア……っ」


 泣き出しそうに歪んだリリアの姿が思い出される。彼女は何と言っていただろうか。


『あなたもお父様が、怖いのですね』


 彼女の言葉が頭の中に響き渡り、エラドは酒瓶を壁に向かって投げつけた。

 酒瓶が割れて、酒が床に広がる。その音に驚いたのだろう、傍に控えていた使用人や侍女たちが悲鳴をあげた。


「坊ちゃん、いいかげんになさってください」

「イルマ、まだいたのか。お前は解雇だと伝えたはずだ、出て行け」

「エラド様、リリア様のことはもうお忘れになってください。リリア様やオーウェン殿下が寛大な心であなたを許してくださったことを、よくよく理解ください」

「黙れ、ハインツ。不貞を働いていたのだろう。僕を裏切って……」


 使用人たちを守るように前に出てエラドを咎めるイルマとハインツを、エラドは睨みつけた。

 エラドに注がれるどの視線も馬鹿にし蔑んでいるように感じられる。

 イルマもハインツもそして他の者たちも、父の行動を咎めたことさえなかったくせに。


「坊ちゃん、リリア様は不貞など働いておりません。不貞を働いたのは坊ちゃんではないですか。リリア様の前に現れたルイーズという女が、リリア様に何を言ったかご存じですか。リリア様はだから、あなたから離れようとなさったのです。潔く身を引こうとなさっただけです」

「僕は離縁をする気などない。その前からオーウェンと会っていたのだろう」

「そんなことはありません。リリア様に不貞の様子など一切ありませんでした。私たちは坊ちゃんよりもよほどリリア様のことをよく知っております」


 小うるさいイルマから離れるために、エラドは立ちあがる。

 酩酊と傷の痛みでふらついて倒れそうになるエラドにハインツが手を伸ばした。

 エラドはその手を取らず、なんとか姿勢を立て直す。


「リリアを連れ戻す。あれは僕のものだ」

「エラド様、諦めてください。リリア様が不幸になります。エラド様はルイーズという女を身請けするのでしょう。リリア様には傷つけてしまった分の慰謝料を支払います。私が対応します」

「僕を裏切ったリリアに、金まで渡すのか? 馬鹿げている。慰謝料を支払うべきはリリアだ。金などどうでもいい。リリアは僕の妻だ。腹に子がいるかもしれない。僕の子が……っ」


 赤ちゃんができたのと、ルイーズが言っていた。

 彼女の腹に、自分の子がいる。もちろんルイーズを愛している。腹の子は嬉しい。

 だが、侯爵家を継ぐべきはリリアとの子だ。孤児だった女の血が流れている子供に家を継がせるなどと言ったら、父はどれほど怒るか。どれほど、失望するだろう。


「エラド様、たとえリリア様があなたの子を宿していたとしても、リリア様はあなたの所有物ではありません」

「坊ちゃん……リリア様のような女性を傷つけたことを、私はとても悲しく思います」


 やかましく騒ぐハインツとイルマの声から逃げるように、エラドは寝室に向かうとベッドに倒れ込んだ。

 ルイーズと会う約束をしていたが、とても約束を果たす気にはならなかった。


 リリアがいなくなった翌日、侯爵家は騒然となっていた。

 昼前に護衛を引き連れた馬車が家の前に停まったのだ。そこから降りてきたのは、立派な服を着てマントを羽織った国王ハーヴェイと、王子らしい姿をしたオーウェンだった。


 イルマに起こされたエラドは、寝起きの姿のままハーヴェイたちの元に向かう。

 客室で待っていたハーヴェイとオーウェンの姿を見て、寝起きと二日酔いと傷の痛みをおさえる痛み止めの薬のせいでぼんやりしていた頭が、一気に沸騰した。


「オーウェン……殿下。それに、陛下……」


 ほんの少し残っていた冷静さで、エラドは臣下の礼をした。

 オーウェンに対する怒りはあるが、国王陛下にまで不敬な態度をとることはできない。

 もちろんオーウェンに対しても許されることではない。だがオーウェンは王族とはいえ爵位を持たないただの研究者だ。国王陛下は違う。


 全ての貴族は国王の家臣である。それぐらい、エラドも理解している。


「昨日の威勢はどうした、エラド。ずいぶんと男前になったな」


 包帯やガーゼにまみれて、寝起きでぼろぼろのエラドの姿に、オーウェンは口角を吊り上げる。

 エラドは彼を大人しい男だと思っていた。少し見栄えがいいからとちやほやされている、陰気な研究者だと。

 だが実際には、エラドを叩きのめすことに関して彼は躊躇をしなかった。

 今も、明らかに好戦的にエラドを挑発してきている。

 彼の冷たい瞳の奥には、エラドに対する激しい怒りがある。


「オーウェン、そう喧嘩腰になるな。何のために俺が同行したと思っているのだ」

「兄上の権力に頼るためですね」

「そうだ。わかればいい」


 ハーヴェイは、エラドの前に離縁届をさしだした。そこにはリリアの名前が既に書かれている。

 エラドはこれを一度破った。新しいものを書いてきたのだろう。

 リリアやオーウェンがこれを届けてきたのなら、エラドはいくらでも拒絶することができた。

 だが、相手はハーヴェイだ。

 エラドは、彼らの座るソファの対面に、力なく腰を降ろした。


「話は弟から全て聞いている。お前が俺に説明することはなに一つない。お前はリリアに暴力をふるい、部屋に閉じ込めたそうだな。夫婦間であっても、それは許されることではない。だが、こういった問題に他者の介入は難しい。というわけで、俺が直々に来た」

「国王陛下に泣きついたということですか。僕の妻を、穢した男が」

「オーウェンはリリアとは数日前に話したばかりだ。不貞を働くとしたらこれからだろう。リリアがもう離縁をしているとしたら、それは不貞ではない。ただの恋愛だ」


 よくもそんなことが言えたものだと、エラドは暗い瞳でオーウェンを睨みつける。

 オーウェンは目を細めただけだった。何を考えているのかわからない。

 ただ、エラドからリリアを奪おうとしている。それだけは理解できる。


「ともかくそんなことはどうだっていい。エラド、リリアとの離縁を命じる。もし拒絶するのならば、リリアへの暴力についてしかるべき措置をとるが、それはリリアの望むところではない」

「……っ、陛下、リリアは僕の」

「妻は所有物ではない。婚姻とはただの契約だ。そして王国では、どのような立場の者であろうと離縁をすることは許されている。ただ女性が耐えなくてはならなかった時代とは、昔とは違うのだ」


 それ以上話すことはないと、ハーヴェイはとんとんと、指でテーブルの上の離縁届を軽く叩いた。

 ハインツが万年筆を持ってくる。


 エラドは奥歯を噛みしめながら離縁届に名前を書いた。いつもは美しいエラドの文字は、ひどく歪んでいた。



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