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リリアの告白



 今日は何もしなくていいと、オーウェンは言う。

 何かしたいとリリアは思ったが、彼に促されてベッドに寝かされた。


「リリア。……何か必要はものはあるか。こんなことを言うのは気が引けるが、薬などは」


 オーウェンの言おうとしている言葉の意味がわかり、リリアは困ったように微笑んだ。


「テネグロ図書館で働き始めた三か月前、私はエラド様の浮気を知りました。彼が私をどう思っているのかも」


 オーウェンの部屋にはダブルサイズのベッドが一つ。灰色のシーツに体を横たえると、オーウェンの香りがする。彼がほんの少しだけつけている、ラベンダーの香水の匂いだ。

 ベッドサイドのランプの下には、リリアの作ったミミズクの刺繍入りのハンカチがある。

 何冊かの本が積まれているほかには、何もない寝室だった。


 大きな窓とベランダ。窓の外からは路地が見おろせる。空に立ち込める暗い雲のせいで、今が何時かわからなくなりそうになる。

 時計は昼過ぎ。午後三時を示している。

 エラドの元から逃れてから驚くほどの時間が経っている。何をしていても時間は経っていく。空の色も変わっていく。

 オーウェンはベッドサイドに座り、クッションに体を埋めているリリアの髪を撫でている。


 慎重に、壊れものを扱うように触れられると、リリアは体中にできている見えないひび割れが修復されていくような気がした。


「オーウェン様。……こんな話、していいのか」

「なんでも言って欲しい。君のことが、知りたい」

「……私の母は、私を捨てて出ていきました。あれは、よく晴れた日でした。私が、三歳の時。一番古い記憶です。母は朝の早い時間に、心地のよい日差しの中を私と手を繋いで、散歩をしてくれました」

「あぁ」


 リリアははしゃいでいた。一緒に薔薇を見た。蝶々を見た。母の手は柔らかくあたたかくて、優しい笑みが口元に浮かんでいた。


「午後からは、絵本を読んでくれると言っていました。散歩を終えて屋敷に戻った母は、私を……子供部屋に閉じ込めて、外から鍵をかけました。子供部屋にはオルゴールの音が響いていて。それは私の好きな、夜想曲を奏でていました」


 母は手回しのオルゴールをかけた。人形遊びをするリリアを撫でて、それから「少し待っていて」と言って立ちあがった。


「母が部屋から出て行き、鍵がかけられた音に気付いた私は、何が起こっているのかが理解できませんでした。ただ泣き叫んで……その日、母は私の前から、家からいなくなりました。そして二度と、帰ってきませんでした」

「……そうか」


 この話を誰かにしたことが、リリアは一度もなかった。

 誰かに話すには、重苦しすぎる記憶だ。

 口にすることができなかった。王都大学で友人はいたが、己の不幸を語る気にはならなかった。

 それに、リリア自身まだ、どう言葉にしていいのかわからなかったのだ。

 その過去に触れると、塞がっている筈の傷が開いて血を流しはじめてしまうような気がしていた。


「その日何が起こったのか、どうしてそんなことになったのかを知ったのは、もう少し大きくなってからでした。父は母を恨んで……憎しみにも近い感情を向けていました。母に愛情などなかったのに、自分の物が勝手なことをしたのが許せなかったのでしょう」

「ティリーズ伯爵は、君の母を愛していなかったのか」

「ええ、きっと。……父は部下の女性と深い関係にあったようです。家にはほとんどいませんでしたし、その女性を家に呼び、親しくしていた、母には居場所がなかったのだろうと、侍女が言っていました」

「残酷なことを」

「母は……だから、運命の相手と手を取り合い、逃げたのでしょう。私を、置いて」


 自分を愛さない夫の血が入ったリリアは、母の邪魔にしかならなかったのだ。

 父にとっても、リリアは邪魔な存在だっただろう。

 リリアは、誰にも必要とされていないのだと、物心ついたときには気づいていた。


「私は母のようになりたくないと、ずっと思っていました。それは……私のような子供が生まれたら可哀想だからと、自分を哀れんでいたからです」

「それほど君は辛かったのだろう」


 オーウェンの指先が、リリアの目尻に触れる。

 涙は流れていない。だが目尻を親指の腹でそっと撫でられると、泣きじゃくっていた幼いリリアの涙が拭われたような気がした。


「……私は、したたかな女です。エラド様に黙って、図書館で働いて……離縁の準備をしていました。私と同じような思いを自分の子にさせたくないと考えて、二か月前から避妊薬を飲んでいました。彼との子はできないことは、私が一番よく知っています」

「……そう、か」

「ごめんなさい。……ひどい女ですね。こんな話を、聞かせてしまって」

「いいや。私は、君が傷つくことを心配していた。もし君が彼との子を宿していたとしても、私は……その子ごと、君を守ろうと思っていた。だが、君の体が守られるのならと……医師に、薬をもらおうかとも思った。こんなことまで君に言うべきかどうか、わからないが」

「ありがとうございます。心配をしていただいて。……触れにくいことにまで、踏み込んでくださって。あなたの優しさに感謝を。今の私では何も、かえすことができませんが」


 オーウェンは「そんなことはいい」と安堵したように言って、それからリリアの額に手を置いた。


「少し、眠れ」

「はい」

「私はここにいる。一人にはしない」

「……ん」


 体の力を抜き、目を閉じる。

 小さく丸まって眠るのがリリアの癖だったが、仰向けのままベッドに沈み込むように、リリアは深い眠りの中に落ちていった。




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