研究の助手として
リリアはシャワーを浴びて服を着替えた。
鏡に映った顔には、赤く腫れた跡がある。そこまでひどい傷ではない。明日には腫れもひくはずだ。
唇も少し切れていたが、よく見ないとわからない程度の傷だった。
破けて乱れた服を着替えてしまえば、何も起こらなかったような、いつものリリアの姿がそこにはあった。
鏡の前で笑顔を作る。
もう、散々泣いた。十分だ。
「オーウェン様、ありがとうございました」
浴室から出ると、キッチンで湯を沸かしていたオーウェンが火を止めてリリアを呼んだ。
「リリア、こちらに。傷の手当てをする」
「確認しましたが、手当てをするほどの傷ではありませんよ」
「綺麗な顔に、傷が残ったら大変だ。……あぁ、そうか。リリア、今の君は、男性が怖いだろうか」
「そんなことはありません。オーウェン様のことは、怖くありません。私のために、嘘までついてくださいました」
トランクの中に入っていたシフォンのワンピースに着替えて厚手のショールを羽織ったリリアは、オーウェンの傍に行った。
エラドから離れることができた。色々あったが、もう終わったことだ。
全ての男性がエラドや父のようではないと、リリアはわかっている。
むしろ、こんなに世話になってしまって申し訳ないという気持ちが強かった。
「嘘をついた?」
「その……私との関係について。エラド様を怒らせるために、嘘を」
「あぁ、愛していると言ったことか」
「はい。オーウェン様には本当に感謝しています。明日には出て行きますね、私。迷惑をかけたくありません」
オーウェンはコンロからポットを降ろした。コンロの火を止める。
インスタントコーヒーの粉にポットから湯を注いだ。二つ分のカップを持ってリビングのテーブルに置く。それから、砂糖壺とスキムミルクの瓶を傍に置いた。
「リリア、座って」
「はい」
「飲んで。ミルクと砂糖は?」
「いただきます」
「甘いほうが好き? それとも、苦いほうが?」
「私は……どちらが、好きなのでしょう。あまり、考えたことがありません。好き嫌いは、ありません」
「では、考えたほうがいい。ミルクや砂糖をどれぐらい入れたいのか」
「……はい。……考えたことがなかったです」
時刻は昼過ぎ。ぽつぽつと降り出した雨が、窓に雫を滴らせている。
オーウェンの質問に、リリアは頭を悩ませた。
好き嫌いはないのだ。甘かろうが苦かろうが、どちらでもかまわない。
「今日は、私と同じでいいか? 角砂糖を二つとミルクを一杯」
「ありがとうございます。……美味しいです、オーウェン様。本当に、美味しいです」
角砂糖が溶けて、ミルクが混ざる。珈琲をリリアは一口飲んだ。
ほっとするような甘味が舌に広がり、喉の奥に落ちていく。
そういえば空腹だったことを思い出した。優しい味が、体に染みる。
「私、好きです。あなたと、同じ」
「……それは、よかった。……リリア、君は色々と気をつかいすぎている。私は君を迷惑とは思っていない。行く場所がないのなら、しばらくここにいていい」
「ありがたいことですが、そこまでしていただくわけには」
「私がいいと言っている。部屋がみつかるまでは、時間がかかるだろう。実家に帰ったら、図書館の仕事は続けられないだろうし……私も、君に協力を頼んだ身だ。君がいなくなってしまったら、困る。困るというよりは、寂しい」
オーウェンははっとしたように目を見開いて、やや慌てたように視線をさまよわせた。
「今のは、言いかたがよくなかったな。でも……本心だ。あの図書館で君が働いている姿を見ていることが、私は好きだ。私は君を、見ていた。ミミズクの刺繍をした女性だと、知っていたんだ」
「……どうして」
「深い理由はない。古代文字の刺繍をした君のことが気になっていた。偶然図書館で君を見て、それから……遠くから、見ているようになった。あぁ、でも、古代文字の解読を手伝って欲しいと思っているのは本当だ。共にいれば、より研究がはかどるだろう」
「いいのですか、オーウェン様」
「もちろん。ただ……私は料理が苦手で、家事も得意ではない。君に迷惑を、かけるかもしれない」
「それは、気にしないでください。お世話になる以上、役に立ちたいです。私に任せておいてください」
リリアは明るく笑った。
オーウェンがリリアに優しくしてくれるのは、彼にとってのリリアは研究の協力者だからだ。
世話になっている間に、部屋を探そう。
「……リリア。エラドとの離縁の手続きは、私に任せておいてくれ。君はいつものように、過ごしていい。明日はテネグロ図書館の仕事は休んだほうがいいと思うが」
「働けます。オーウェン様の家から図書館は近いですね。朝はいつもよりもゆっくりできます」
「そうか。……それは、よかった」
「エラド様のことは私が」
「君はもう彼に会わないほうがいい。少なくとも、全てが片付くまでは。私に頼ってくれないか」
「ありがとうございます。オーウェン様、私にできることがあればなんでも言ってください」
リリアは、素直にオーウェンに甘えることにした。
世話になったぶん、彼の役に立とう。
暗い顔ばかりはしていられない。決意の元オーウェンをじっと見つめると、オーウェンは困ったように笑ってリリアの髪をそっと撫でた。
「こうして君がいてくれるだけで、私は十分だ」
研究の助手として、ということだろう。
リリアは「頑張りますね」と頷いた。




