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花屋の二階



 噴水広場で馬車は停まった。

 馬車が入ることができないやや手狭な道を、オーウェンはリリアを抱きあげて進んでいく。

 パン屋の焼きたてのパンのいい匂い、カフェテラスでお茶をする人々、もう開いているパブのテーブル代わりにおかれた樽にグラスを並べて冷やしたエールを飲みながら話をしている人々。

 

 ありふれた日常がそこにはある。その中を、オーウェンは堂々と歩いている。

 服は乱れ、顔にはエラドに叩かれた跡がある。お世辞にも綺麗とは言えないリリアを抱きあげているのに、恥じる様子はまったくない。


 鉢植えの花や切り花が並ぶ花屋の外階段を、オーウェンはあがっていく。

 花屋の店主の若い男が「オーウェンさん、おかえり。今日は綺麗な女の子と一緒? 珍しいねぇ」とにこやかに話しかけてくる。


「怪我をしてるじゃない。大変だ。オーウェンさん、消毒液はある? 包帯は? ガーゼは?」

「これから、買いに行こうかと」

「あとで届けるよ。届けるだけ。何にも聞かないし、邪魔もしないよ」

「助かる。すまないな、シルヴァス」

「気にしないで。俺とオーウェンさんの仲じゃない」


 白いシャツに黒いエプロンをつけた、長い金髪を無造作に縛った細身の男は、明るい声で言ったあと、心配そうにリリアに視線を送った。

 オーウェンはリリアを彼の視線から隠すように、カンカンと音を立てながら鉄製の外階段をあがり二階に向かう。二階には扉が一つきり。

 リリアと腕にかけていたトランクをおろして鍵をあける。

 扉を開くとそこは、アパートメントの一室だった。二階のフロアが一部屋の住居になっている。

 調理場に、浴室、リビングルームに、寝室。家具も調度品も少ないせいで、広い部屋は余計に広く見えた。

 壁におかれた書架にぎっしりと本が詰まり、おさめきれない本が床に積んである。

 

 リリアを抱きあげようとするオーウェンに「たいした怪我はしていません」と言って、リリアは断った。

 馬車に轢かれたのではないかというぐらいにぼろぼろだという自覚はあるが、たいした怪我はしていない。


「こちらに、リリア。医者を呼ぼうか。診察が必要だろうか」

「いいえ、大丈夫です。……本当に、ごめんなさい。ご自宅にまで、お邪魔してしまって」

「私のほうこそ、すまない。他に行く場所を思いつかなかった」


 オーウェンに促されて、リリアはソファに座る。

 リリアの前に膝をついたオーウェンは、怪我を確かめるようにリリアの顔に触れた。


「昨日……エラド様を、怒らせてしまって。離縁届を見られてしまいました。それで、すごく、怒って」

「それだけではないだろう。彼は私と君の関係を勘ぐっているようだった。こうなったのは私の責任でもある」

「そんなことは……勘違いと言いました。オーウェン様とは一昨日はじめて話したばかりなのに、不貞を疑われるなんて。私、よほど信用がなかったのだと思います」


 リリアは苦笑交じりに言った。

 オーウェンは苦し気に眉を寄せる。それから首を振った。


「彼は君を裏切っていた。うしろめたい者は、他者もまた同じだと思うのだろう」

「そうかもしれません。離縁状を見て、余計にそう思ったのでしょう。……教会前広場でルイーズさんに責められて、決心しただけなんです。このままでは、皆が不幸になると、思って……」


 リリアは目を伏せる。言葉が途切れた。

 それ以上の説明が、難しかった。何をされたか、助けてもらった以上は言わなくてはいけないと、震える唇を開く。


「エラド様には、顔を叩かれて、それで……」

「それ以上は言う必要はない」

「大丈夫です。怪我をしたわけでは、なくて……夫婦でしたから、私は、受け入れるべき、ことを」

「リリア。……たとえ夫婦であろうと、それは暴力だ。君は、辛かったと言っていい。苦しかったと、泣いていい」

「オーウェン様、私は……私、は」


 辛かったのだろうか。苦しかったのだろうか。

 

 心が悲しみに沈まないように、大切にできるものを探していた。

 辛いばかりではない、苦しいばかりではない、よいこともたくさんあると、ずっと考えていた。


 それでも。それでも──心を優しく包まれるように、優しく、そして少しの苦悩を孕んだ口調で言われると、はらりと涙がこぼれる。

 肩を震わせて静かに泣くリリアの手を、オーウェンは握り続けてくれていた。


 やがて、とんとんと扉が叩かれる。

 リリアの元を離れて、オーウェンは玄関に向かう。

 シルヴァスが包帯などを届けにきてくれたようだ。玄関先で対応をするオーウェンの声が聞こえる。


 リリアは涙をぬぐった。誰かの前で泣くのは、いつぶりだろうか。

 一人きりのベッドで泣くことは、何度かあった。母が居なくなってしまったあとの、幼い時代のことだ。

 

 やがてそれもなくなった。寂しさも苦しさも全て飲み込んで、生きていくことができると思っていた。

 リリアは不幸ではない。


 リリアよりも苦しい生活をしている者はたくさんいるのだからと。


 それでも、苦しいと思っていいのだろうか。悲しいと、感じていいのだろうか。


「……リリア、もしよければシャワーを浴びるか? 少し、すっきりする」

「ありがとうございます。……着替えもしていいですか? このままでは、恥ずかしくて」

「もちろん、構わない。君はしばらく私と共に暮らす。だから、この部屋は好きに使ってくれ」

「え……」

「何か、問題があるか?」

「い、いえ……あ、あの……」

「リリア、とりあえずシャワーを」

「は、はい」


 突然の提案にリリアは驚いたが、オーウェンの中ではすでに決まっていることらしい。

 もちろんリリアには行く場所はない。どこかに行くための、金もない。


 ありがたい申し出だが、いいのだろうか。


 リリアは何も言えないままに、着替えの入ったトランクを持って浴室に向かった。

 驚きで、涙は引っ込んでしまった。


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