誰かに頼るということ
グリーズ家の家人たちの行動は早かった。
リリアの荷物をトランクに入れて、イルマに渡した。その間、グリーズ家の家令、物静かな壮年の男ハインツは動くことのできないエラドを使用人に命じて部屋に運んだ。
それから彼は疲れに倦んだ表情で、オーウェンに礼をした。
「王子殿下、このたびはとんだご無礼を……エラド様は、罪に問われるのでしょうか」
「それをリリアが望むのならば」
リリアは首を振った。これ以上エラドに関わることは避けたい。彼が罰せられることを望んでいるわけではない。エラドは勘違いをしたのだ。
オーウェンと不貞を働いていると思い込み、乱心したのだろう。
男性の不貞は許さなくてはいけない、だが女性の不貞は罪になる。
そのような風潮が、王国には根強く残っている。一昔前は、女性から離縁を切り出すことさえ許されなかったぐらいだ。
だから──エラドの怒りは、理解できる。
彼のことも今は少し、わかったような気がする。もう手遅れだ。関係を修復することなんてできない。したいとも、思っていない。
それでもリリアは、エラドにわずかばかり同情をしていた。
彼の心にも満たされない何かがあった。リリアと同じ。
「私はもう、十分です。オーウェン様に対する無礼は許されることではありませんが」
「それは気にしなくていい。あの程度の侮辱には慣れている。今回は……君の安否が気がかりで立場を利用したが、私は権力から離れた身だ。権力の行使をしたいわけではない」
リリアは「ありがとうございます、オーウェン様」と礼を言った。
「リリア様。もうしわけありませんでした。長年エラド様に仕えていながら、エラド様を咎めることができなかった。あなたには心労ばかりかけてしまいました」
「ハインツさん、お世話になりました。皆さんと一緒にいられて、私は楽しかったです。悪いことばかりではありませんでした。こんなことになってしまい、もうしわけありません」
「そんな……あなたが謝罪をすべきことなど何一つありません」
ハインツや侍女たち、そして使用人たちはリリアを引き留めることはなかった。
歩き出したオーウェンの後を、荷物を持ったイルマが静かについてくる。
グリーズ家が遠のいていく。
骨を折ってもいい、這いずってでも逃げようと考えていたエラドの元から、リリアはオーウェンに抱きあげられて守られながら、離れていく。
「……オーウェン様、私は歩けます。お世話になりました、もう大丈夫です」
「リリア、今は何も考えなくていい。全て私に任せていろ。会ったばかりの男を信用できないかもしれないが」
「そんなことはありません。……私の事情に、あなたを巻き込んでしまってもうしわけありません。ご迷惑を、おかけしてしまって」
「謝罪の必要はない。君は、きっと疲れている。そして傷ついているはずだ。だから、もう話さなくていい。大丈夫だ、リリア」
オーウェンの低く落ち着いた声で大丈夫だと言われると、本当に大丈夫だと思えてくるから不思議だ。
グリーズ家の前に停めてある馬車の中に、オーウェンはリリアを座らせた。
「殿下、本当にありがとうございました。リリア様、ハインツと共に坊ちゃんを説得して、かならず慰謝料を届けます。リリア様には本当によくしていただいたのに、もうしわけありません」
「イルマさん、気にしないで。短い間だったけれど、イルマさんたちと出会えてよかった。青空市場でお店を開いて、楽しかったわ。皆で一緒にジャムを煮たり、刺繍を縫うのも、とても」
「リリア様……」
「イルマさん、体にきをつけて。私を守ろうとしてくれて、ありがとう」
イルマがオーウェンを呼んできてくれたのだろう。女性の身で、身分の違う主に逆らうなど相当勇気が必要だったはずだ。
人に恵まれたと、リリアは思う。
エラドとはうまくいかなかったが、だからといって全て悪い思い出だったというわけではない。
「殿下、リリア様をよろしくお願いします」
「あぁ。君も、あまり無理はするな。仕える相手は自分で選べる。君にも自由がある」
「はい、ありがとうございます」
イルマは涙ぐみながら微笑んだ。
オーウェンはイルマから荷物を預かると馬車に乗り込む。御者が扉を閉めた。
それからゆっくりと、馬車は動き出した。
小窓からは、グリーズ家がだんだん小さくなっていくのが見えた。
やがて見えなくなる。もうここには二度と、帰らない。
リリアの乗った馬車は、出発をした。どこに向かっているのかはわからないが、この先には自由が広がっている。
そう、信じたい。
オーウェンがリリアの髪に遠慮がちに触れた。
乱れた髪を、優しい指先が撫でる。リリアは目を伏せる。
オーウェンはリリアの体を引き寄せると、優しく包み込むように抱きしめた。
「……もっと早く、君を救えていたら」
悔いるように彼は呟いた。耳に響く鼓動の音に、リリアは今だけだからと、甘えるように頬を寄せる。
今は彼に、頼りたかった。
今だけだからと、自分に言い聞かせた。




