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優しい手と冷たい怒り



 リリアの体をしっかりと受け止めたオーウェンは、リリアの姿を見てきつく眉根を寄せた。

 冷たい怒りが、冬を前にした涼しい空気をより一層凍らせていくようだった。


「リリア……無事でよかった。なんて、ひどいことを」

「オーウェン様……もうしわけありません。ご迷惑をおかけしてしまって」

「謝罪の必要はない。こんなときまで、気丈に振る舞わなくていい。リリア、大丈夫だ。私が君を守る」

「どうして」

「君は私の友人だ。友人を助けることに、理由など必要か?」

「……っ」


 オーウェンの手は、力強い。そして優しい。

 エラドの手とも、父の手とも違う。鼻の奥が痛んだ。涙がこぼれそうになるのを堪える。

 安堵から、気が緩んでしまった。緊張の糸が切れたように、涙腺からせきとめていた涙が滲んだ。


「リリア様!」

「イルマさん、大丈夫なの、怪我は……!?」

「私のことなんて気にしている場合ではないのに……私は大丈夫です、リリア様、あぁ、なんてひどい……リリア様、あなたを守れなかった私たちを許してください……」


 イルマがリリアの元に駆けてくる。騒ぎを見守っていた他の侍女や家令、使用人たちもリリアの元へとエラドを押しのけるようにしてやってきた。

 リリアの体をオーウェンから受け取って、あたたかいショールで包み、靴をはかせてくれる。

 イルマや彼らがリリアを庇う姿を見て、エラドは怒りに目を血走らせた。


「お前たち、何なんだ! リリアの味方をするというのか、オーウェンと不貞を働いた最低な女だ!」


 エラドは肩を怒らせながら、玄関の前から右手にある庭に降りてくる。

 頭上ではリリアがバルコニーの手すりに結んだシーツの紐が、風に大きくはためいていた。


「そう思うのなら、もうリリアはいらないだろう。君に彼女は勿体無い」

「それは、僕のものだ。妻をどう扱おうが、夫の自由だろう」

 

 エラドは忌々し気にオーウェンを睨みつける。


「彼女には人格がある。君を支えてくれる家の者たちも、君と同じ人間だ」


 オーウェンの声音は冷静だが、それがかえって彼の強い怒りを感じさせた。


「貴族と庶民は違う」

「君が愛情を注いでいる歌姫も、庶民だ。君は歌姫が庶民である故に、リリアを正妻にしておきたいのだろう。君が恐れているのは、世間体か? 女性は君の虚栄心を満たす道具ではない」

「黙れ! 所詮お前は子爵家の人間だ。何の爵位もないくせに。誰にも相手にされないからと、リリアに手を出したのだろう。僕のおさがりの女を抱けて嬉しいか、オーウェン」


 激高しているとはいえあまりの物言いに、イルマたちが青ざめる。

 王族を敬称もなく呼び捨てにして、あまつさえ──嘲るようなことを言うなど、一昔前なら斬首されてもおかしくない。


 もうそのような血なまぐさい時代は過ぎたが、古い時代の王国は法も何もないような王政であったとリリアは知っている。


 今だって、不敬罪というものはある。エラドは投獄されてもおかしくないようなことをオーウェンに向かって言っている。

 オーウェンは静かにその言葉を聞いていた。

 それから──艶やかな表情で、笑った。


「あぁ。彼女ほど素晴らしい女性はいない。君などより私はよほど、リリアを愛している。癇癪持ちの子供のように暴力で従わせることしかできないのだろう、エラド。可哀想に」


 心底哀れむように、オーウェンは続けた。

 それからリリアの髪を一房手にして、恭しく口づける。


「愛情をそそげば美しく咲く花も、手折れば枯れてしまう。君は花を手折ることしかできないのだろう。子供がそのまま大人になったのだな、エラド。それで侯爵とは、聞いて呆れる。……私はリリアを、美しく咲かせることができる」

「どこまで僕を馬鹿にするんだ……! リリアは僕のものだ、僕の妻に触れるな!」


 エラドは大声で怒鳴りながら、オーウェンに殴り掛かった。

 イルマたちが悲鳴をあげる。リリアも息を飲んだ。

 制止の声をあげる間もないままエラドの拳はオーウェンの頬を殴りつけ──ようとした。

 だがその拳は届かない。

 オーウェンがエラドの手首を捻りあげると、そのまま軸足に長い足をかけて転ばせて、地面に叩きつけた。


「ぐ……っ」


 苦し気な呻き声と共に、エラドは地面に這いつくばった。

 オーウェンはエラドの手を捻りあげながら、その背に足を乗せる。靴底で、背中をぐりっと踏みつけた。


「……これは、正当防衛。罪には問われない。証人もいる」

「くそ……っ、離せ、ふざけるな……!」

「……どこまで、愚かなんだ。素晴らしい女性を妻にしておきながら、何故真っ当に生きることができない? どんな生い立ちであっても、どんな家族の中で育っても……腐らず、折れずに生きていくことができる、リリアのような人と巡り合えたことがどれほど幸運か、君は何故わからない。馬鹿だ」


 オーウェンの言葉に、イルマが涙ぐみながら「本当にそうです……本当に、あなたは馬鹿です、坊ちゃん……」と、悔いるように何度も繰り返した。


「残念だが酒ばかり飲んでいる君に負けるほど、私は弱くない。エラド、これも正当防衛だ。……リリアが傷つけられた分を、かえしておく」


 オーウェンはエラドの上から足をどかすと、そのままエラドの顔を蹴り飛ばした。

 衝撃に、エラドは地面に転がる。うつぶせから仰向けになったエラドは、口から血を流しながら真っ青になっていた。


「これでは足りないな。リリアの顔を殴って、それから何をした? その手が二度と使えなくなるよう、指を折ろうか」


 オーウェンはまるで道端の塵でも蹴るように、エラドの腹を蹴り上げた。呻き声をあげながらエラドは土の上を転がる。

 その投げ出された手を、オーウェンは踏みつけようとした。宣言通り、骨を折るつもりだ。

 咄嗟にリリアは声をあげる。


「待って! もうこれ以上は…! オーウェン様、もう……!」

「私の気がすまない」

「私は、大丈夫ですから。エラド様とは夫婦でした。でも、今日で終わりです。離縁をしてもらえれば、それで私は十分です」


 リリアの呼びかけに、オーウェンはエラドの手を踏み潰さなかった。

 冷酷な瞳で彼を一瞥すると、エラドの腹をもう一度蹴ると、彼から離れた。

 エラドはまるで馬車に轢かれた動物のようだった。

 

「離縁状は後日私が届ける。二度とリリアに関わるな、エラド。リリアはこれ以上はお前の不幸を望んでいない。彼女に感謝を。立ち直るきっかけが、そう何度も与えられると思うな」

「ま、まて……リリア……」


 オーウェンはリリアを再び抱きあげた。

 動くことができないのだろう、エラドがすがるように、リリアに手をのばす。


 リリアは──エラドから視線をそらした。

 もうその手を取ることはできない。


「エラド様、さようなら。……短い間でしたが、お世話になりました」


 ほんの短い間だったが、悪いことばかりではなかった。

 イルマたちと、知り合うことができた。ほんの少しの幸せも、ここにはあった。


 離別の挨拶にエラドは「リリア、待ってくれ、リリア……!」と、何度も繰り返しながら、地面に手を打ち付けていた。



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