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待ち人は来ない



 ◆


 アプリコットジャムを手に入れたナルヴィラは、嬉しそうに大通りに停めてあった馬車に乗り込んだ。

 ハーヴェイにリリアについての相談に行ったあと、どうしてもリリアに会いたいとナルヴィラが言うので、青空市場に連れてくる羽目になってしまった。


 遠くから彼女を見て、静かに帰るつもりだった。

 だが──思わぬ揉め事に遭遇した。リリアを守ることができてよかった。


「……あの女性。衛兵に突き出すべきだったか」

「瓶を投げつけた件で?」

「はい」

「この程度では、厳重注意といったところだな。もし二度目があれば、そしてリリアが怪我をした場合は禁固刑だ。その時はすぐに衛兵に突き出すといい。オーウェン、リリアを気をつけて見ていろ。思いつめた人間ほど怖いものはないぞ」

「わかりました、兄上」

「リリアは、しっかりとした女性だな。あんな目にあったというのに、泣き言一つ言わない」

「そうですね。……泣いても、いいのに」


 兄と別れて、オーウェンは帰路についた。

 昨日の夜エラドとあの女性、ルイーズの姿を見た時も、リリアは一瞬悲しい顔をしたものの、ただそれだけだった。

 

 彼女はきっと、新しい人生を歩き出そうとしているのだろう。

 それがオーウェンにとっては眩しく、そして同時に切なくもあった。


 もっと、頼ってくれてもいいのに。辛ければ辛いと言っていい。悲しければ悲しいと、言っていい。

 彼女の中で何かが、彼女の感情をせき止めているような気がした。

 勝手な思い込みかもしれない。ただ単純に──。


「私に頼ってほしいと、思っているだけなのかもしれないな」


 自宅に戻り鍋に珈琲の粉を入れて湧かしながら、オーウェンは呟いた。

 リリアは、静かな図書館がよく似合う。土曜日は、子供たちへの朗読会がある。

 リリアの優しい声が物語を紡ぐのを聞くのが、オーウェンは好きだった。


 もちろん朗読会に参加する子供たちに混じり彼女の朗読を聞くようなことはしなかったが、オーウェンの座っている窓辺の席からは、彼女の声が微かに聞こえる。

 春の木漏れ日のような優しい声音がゆったりと絵本を読んでいるのを聞くことは、土曜の楽しみだった。


 明日もリリアに会うことができると思うと、淡々と過ぎていくオーウェンの日常が突然鮮やかな色彩を持ち輝き始めるように感じられた。


 ここ数年はずっと、古代の文字に埋もれるようにして密やかに生きてきた。

 そうして死んでいくのだろうと、漠然と考えていたというのに。


 こぽこぽと沸き立つ湯を眺め、部屋に充満する珈琲の香ばしい香りに包まれながら、オーウェンはリリアの新しい人生について考える。

 リリアとエラドの問題について、オーウェンはあまりにも部外者だ。

 

 ただ一方的に、想いを募らせていたというだけ。

 口を出すことも、手を出すこともできない。そんなことをすれば、余計に拗れてしまうだろう。

 それが、もどかしい。


 せめて、家から解放された時にリリアがこれ以上傷つかないように、傍で支えることができるといい。

 図書館の椅子に座って、遠くから彼女を見ているだけではなく。

 隣を歩くことができればいい。友人として。我儘な願望を叶えていいのだとしたら、できることなら恋人として。


 日曜の朝、オーウェンは身支度を整えて噴水広場に向かった。

 朝の九時はまだ早い時間だ。昼間には人通りが多く賑やかな広場だが、まださほど人がいない。

 どんよりとした曇り空が空には広がり、薄く靄がかかっている。


 噴水広場にある大時計が九時を示しても、リリアが現れる様子はない。


「オーウェンさん、おはよう。珍しいね、こんな時間に」


 夜の雨宿りカフェは、夜はカフェ、昼は食堂を開いている。

 昼の食堂を担当するシエンナが、オーウェンの姿をみつけて駆け寄ってきた。


「シエンナ。おはよう」

「ん。オーウェンさん、その格好。デート?」

「……何か、いつもと違うだろうか」

「気合入っているって感じがする。……なんて、嘘。オーウェンさんはいつも格好いいよ」


 シエンナは明るく笑いながら言う。

 夜はウェイトレスをして、昼は食堂を開くシエンナはいつ寝ているのかわからないほどによく働いている。彼女の話では、午前零時には手伝いをやめて店の二階にある自宅で寝ているらしい。

 夜中中珈琲を飲む人なんてあまりいないから、真夜中から明け方にかけては父一人で十分店をまわせるのだといつか言っていた。


 確かに、オーウェンも日付が変わるまで店に居座ったことはない。


「リリアさんとデートでしょう? オーウェンさん、頑張ってね」

「……デートではないが」

「そうなったらいいと思ってる?」

「大人をからかうのはやめたほうがいい」

「あはは。いつもおじさんたちに囲まれているからさ、自分の歳なんてわすれちゃうよ」


 シエンナはまだ十代だったはずだ。

 オーウェンは嘆息した。シエンナにからかわれるほどに、浮かれているように見えるのだろうか。

 それにしても、リリアはどうしたのだろう。


 約束を違えるような人ではないことぐらい、知っている。

 言葉を交わしたのは一昨日がはじめてだが、この一か月、テネグロ図書館でずっとリリアを見ていたのだから。


 何か、あったのだろうか──。


 ふと、大通りにふらふらと歩いてくる女性の姿に気づいて、オーウェンは立ちあがる。

 それは、青空市場でリリアと共にいた、リリアの侍女らしき中年の女性だ。

 青ざめた顔で歩いている彼女に、オーウェンは急いで近づいていった。


「君は、リリアの侍女か。こんなところで、どうした。ひどい顔をしているが」

「あなたは昨日の……王子殿下……こんなことをお願いするのはおこがましいとわかっております。ですがどうか、リリア様を助けてください……!」


 彼女はオーウェンに、溺れる人が藁を必死に掴むように縋りついた。



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