教会前の騒動
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エラドは、帰らなかった。
そのことに僅かに安堵をしながら、リリアはイルマたちと共に青空市場でいつものように小物を売った。
庭木に実ったアプリコットを煮詰めたジャムと、料理人たちと共に作ったスコーンがこの日はよく売れた。
「あぁ、よかった。もう店がしまっているかと思ったわ」
日よけのある帽子で顔を隠した若い女性が、そろそろ店を閉めようとしていたリリアの元に現れた。
ハンカチや小さなバッグはもう売り切れてしまった。
あとは、アプリコットジャムがひと瓶残っているだけだ。
「もうしわけありません、残りはこれだけで」
「では、それをくださる?」
「ええ」
女性に、リリアはアプリコットジャムを売った。
アプリコットジャムを受け取った女性は顔にかかっていた日よけのヴェールを避ける。
現れた美しい顔に、リリアは息を飲んだ。
それは、昨日。雨の中で見た女性の顔によく似ていた。
「あなたは、ルイーズさん……?」
「私を知っているの?」
「え、ええ……」
なんと言っていいかわからずに、リリアは曖昧に頷いた。
彼女は今日、エラドと共にいるのではないのか。
何故、わざわざリリアの元に。まさかただ、アプリコットジャムを買いに来たというわけでもないだろう。
「あなたが、リリアね。エラド様の妻」
「そうですけれど、それが、何か……」
ルイーズとエラドの関係をリリアは知っているが、皆が礼拝に訪れる神聖な教会前で口にするような事柄ではない。
戸惑いながらも言葉を選んで口にするリリアを、ルイーズは潤んだ瞳で縋るように見つめた。
「リリア、お願いよ。エラド様を解放して。エラド様はいつも言うわ、あなたなんかと結婚したくなかったって。私と結婚したいけれど、あなたが金を握っているから私を救うことができないのだと」
「……救うというのは、何から」
「私はね、リリア。あなたと違って恵まれない星の下に生まれたわ。父は誰なのかわからない。母は私を残して死んだ。昔の私は、この小さな瓶詰ジャム一つ買えなかった」
何事かと、教会前広場に集まっている皆の視線がリリアたちにそそがれる。
イルマや侍女たちが不安そうにしながらもリリアを庇おうとしてくれるので、リリアは大丈夫だと彼女たちを制して、まるで舞台の上にいるような仕草と声音で話すルイーズと対峙した。
「でもね、私は美しかった。だから……拾われて、育てられたの。王都劇場の支配人は育ててやった分、金を稼いで返せと言うわ。でも、二千万ファブリスなんて、どんなに頑張ったって返すことなんてできない」
はらりと、ルイーズの瞳から涙が落ちる。
リリアは彼女の境遇を思う。きっと、不幸なのだろう。
舞台で喝采を浴びても、彼女は救われない。彼女の人生は、彼女ではない別の誰かに支配されているからだ。
「エラド様は私を助けてくださると言った。私を閉じ込めている鳥籠から、私を救ってくださると。でも、あなたがいるから……あなたが邪魔をしているから、エラド様にも自由がないの。リリア、エラド様のことは諦めて。彼は私を愛しているのよ」
「何て失礼な女なの。庶民が、軽々しくリリア様の名を呼ぶなど……!」
たまりかねたように、イルマが怒鳴る。
リリアはイルマの腕を掴んだ。そして、静かに首を振る。
「イルマさん、大丈夫です。これは私の問題です。私が対応します」
「ですが、奥様!」
「大丈夫です。……彼女と、話がしたいの」
「……わかりました」
リリアは胸に手を当てて、深く息を吐きだした。
二千万ファブリスという金額は、庶民が一生かけて働いても稼げないほどの大金だ。
つまり彼女を支配している者たちは、彼女を解放するつもりはないのだろう。
ルイーズが誰かにすがりたくなる気持ちは、リリアにはよくわかる。
リリアもエラドに期待をしていた。彼は自分の運命。幸せになれるかもしれないと、甘えたことを考えていた。
「ルイーズさん。あなたの気持ちは、わかりました。ですが、私は邪魔などしていません。する気も、ありません」
「嘘よ!」
「嘘ではありません。エラド様が私を愛していないことぐらい、はじめからわかっていました。けれど、結婚は……義務だと思い、自分ができる仕事を日々続けています。ただ、それだけです」
「嘘つき。あなたがエラド様を縛り付けているのでしょう。全てを持っているくせに……!」
一体何を、持っているというのだろう。
リリアにだって、何もない。居場所も、愛も、自由に使える金も、何一つ。
だから必死に、自分の居場所を探している。
図書館の仕事、夜の雨宿りカフェ、青空市場。少しずつ、少しずつ。
好きなものを増やせるように──怒りと悲しみに心を奪われてしまわないように。
でも──なにもない。
なにも、ない。
母はリリアを捨てた。父は、リリアを愛さない。エラドはリリアを嫌っている。
「エラド様を解放して!」
激高と共にルイーズは、アプリコットジャムの瓶をリリアに向かって投げつけた。
心の中の空虚さに意識を奪われていたリリアは、顔に向かって迫ってくる瓶を避けることができなかった。
顔にぶつかる──と思った瞬間、瓶はその寸前で誰かの手にぱしりと受け止められた。
「……無事か、リリア」
「オーウェン様……」
「叔父様、ナイスキャッチ!」
瓶を受け止めたのは、オーウェンだった。人だかりの中から、愛らしい少女が現れて飛び跳ねながら喜んでいる。
「酷いことをする人ね! お父様、叱って!」
「あまり目立つなと言っただろう。全く、困ったものだ」
「だって硝子の瓶を投げるなんて! それに、私は知っているわ。浮気は、いけないのよ」
「……そう大声を出すんじゃない」
少女の後から、立派な髭をたくわえた身なりのよい男性が現れる。
男性は少女を連れてリリアたちの元にやってくると、胸に手をあてて軽く礼をした。
「はじめまして、リリアさん。クリストファーからもオーウェンからも君の話は聞いている。俺はハーヴェイ、そしてこちらが娘のナルヴィラだ」
「国王陛下……!」
思わず声をあげるリリアに、ハーヴェイはしっと、口に指をあてた。
だがもう手遅れだろう。皆に、ハーヴェイの声は届いてしまったはずだ。
ざわめきが、青空市場を支配する。ハーヴェイはやれやれと肩をすくめて、それから周囲の人々を見渡した。
「今日は、俺の考案した青空市場の視察に来た。賑わっているようでとても嬉しい。今までは商売を一部の商人が独占していたが、多くの人々に広く門戸を開きたいと考えている。皆、何かよい考えがあれば、遠慮なく市民院の目安箱に意見を送ってくれ」
ハーヴェイの言葉に、皆が恭しく頭をさげた。
それからハーヴェイが「今日はお忍びだ、どうかそっとしておいてくれるとありがたい」と、堂々と言うので、集まっていた人々は顔を見合わせると、もう一度礼をしてリリアたちから離れていった。
ルイーズは悔しそうな表情を浮かべると、逃げるように去っていく。
イルマや侍女たちは彼女の背に向けて、しっしと動物を追い払うように手を振った。




