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エラド・グリーズ



 ◆


 評判の歌姫がいる──と友人たちが頻りに言うので、エラドが王都劇場に歌劇を見に行ったのは一か月前のことだ。

 その時、リリアはどんな顔をしていたのか、何と言ったのだったかと、ルイーズと共に訪れた宿の最上階の部屋で、氷の山の上に山のように並べられた海老とオイスターと輪切りのレモンを眺めながらエラドは考えていた。


 はじめてルイーズの歌を聴いた日。歌姫ルイーズが演じていたのは『氷の女王』という演目の、悲劇の姫サルージャ役。

 氷の女王に愛する夫を奪われて嘆き悲しみながら歌う美しさに、エラドは目を奪われた。

 

 ただ──だからといって恋をしたわけではない。

 確かになんて美しいのだろうと思ったが、それだけで恋に落ちるのならば歌劇を鑑賞するたびに誰かに恋をする羽目になるだろう。


「美しかったな、エラド。ルイーズ嬢の心を手に入れ社交界に連れ歩けば、皆から一目置かれるだろうな」

「エラドの奥方は、あの悪名高き裏切り者の公爵令嬢の娘なのだろう。いつかエラドを捨てて他の男と逃げるかもしれない」

「血は争えないと言うからなぁ」

「本当に伯爵の娘か、あやしいものだ」

 

 付き合いの長い友人たちは、エラドが結婚してからは酒を飲むたびに同じようなことを言う。

 エラドはその度、リリアと結婚したことに羞恥心を感じた。

 グリーズ侯爵家に金がないことぐらい、エラドはよく理解していた。

 それでも侯爵として振舞えと、父には厳しくしつけられた。母はいつも父に怯えるように小さくなっていたことをよく覚えている。


 女は子を産む道具。侯爵家の中では家長の自分が一番偉い。弱みをみせてはいけない。

 などと偉そうにしていたくせに、父はティリーズ伯爵に金を積まれてリリアをエラドの妻の座に据えたのだ。

 ティリーズ伯爵は、妻に逃げられ庶民を後妻にした成金だと、社交界では小馬鹿にされていた。

 その娘リリアは逃げた妻である公爵令嬢の子だが、公爵家は彼女の母を公爵家の面汚しだと縁を切った。リリアについても、誰の子かわからないと言って憚らない。


 伯爵の子ではなく、どこの馬の骨ともしれない男の子かもしれない──などと、皆、噂していた。

 女のくせに王都大学に入学し首席の座にいることも、その噂に拍車をかけていた。


 そんなリリアに、婚姻の申し入れがあるわけがない。だから伯爵は商売で懇意にしていたグリーズ家の内情を知り、金を積む形でリリアの輿入れ先を強引につくったのだ。

 借金をつくったのは父の癖に、息子を売るようなことをした。

 学歴を偉ぶる生意気な女を娶らなくてはならなくなったと感じたエラドの酒量は、日に日に増えていった。


 リリアの顔も見たくなかった。彼女が家にいると考えるだけで気が滅入った。

 友人たちに冗談交じりにリリアについてからかわれるたびに、表面上は笑って受け流していたが、床にショットグラスを叩きつけたくなった。


 けれど──リリアと結婚をしてから、使用人たちの機嫌が今までよりもずっとよくなった。

 家の空気が変わっていくのを感じた。

 いらないもので溢れかえっていた家の中は美しく整理され、庭木の手入れもよくされるようになった。

 パブやシガーハウスで飲んでいると幾度か借金取りに絡まれていたが、それもいつの間にかなくなった。

 ギャンブルに負けて大損することもなくなり、エラドの懐にはいつも十分な金額が入っているようになった。


 全てリリアの采配だ。彼女を嫌うエラドにも微笑を向けて、文句も言わずに働くリリアを、その健気さを愛しく思っていた──思いはじめていた、はずなのに。


 ルイーズの歌劇を見たあと、エラドはすぐに家に帰ろうと考えていた。

 だが友人たちに誘われるままに歌劇場の一室にある、上流階級たちが集まるサロン向かった。


 そこには劇場に出演している若い俳優や女優が集まっている。

 彼らは大抵の場合金に困っている。どれほど人気が出ようと、彼らの給金は劇場の支配人が握っている。その背後には、弱い人間を食い物にするあくどい組織がついている。

 最近では、そういった組織をマフィアと呼ぶようになっている。 

 法を犯すぎりぎりのあくどいことを商売として成り立たせている者たちである。

 

 俳優や女優は彼らの支配下にある。稼いだ金のほとんどを何らかの理由で作ってしまった借金の返済にとられるのだ。

 だから彼らはパトロンを必要としていた。

 貴族たちは見栄えのいい俳優や女優を自分の物にし、彼らもまた貴族の金を求める。

 劇場にあるサロンとは、そういった出会いの場だ。


「エラド様とおっしゃるのですね。ルイーズともうします。あなたのような素敵な人とお会いできてうれしいです。あなたと結婚ができた奥様は、とても幸せですね」


 早々に帰りたいなと考えながら酒を飲んでいると、いつの間にかルイーズがエラドの傍に寄り添っていた。

 腕に細い指が絡められて、長い睫毛に縁取られた大きな瞳が何かを訴えるようにエラドを見あげる。


「私も貴族の家に生まれていたら、エラド様ともっと早く出会えたでしょうか。奥様が羨ましい。きっと、何不自由なく育ったのでしょうね。私のように、食べることに困ったことも一度もなかったのでしょう」

「……君は、困っていたのか?」

「ええ。私は孤児です。幼い頃は……店先の林檎を盗んで、店主に捕まり衛兵に突き出されたこともあります」


 愁いを帯びた瞳が熱心にエラドを見つめる。

 エラドは──美しいルイーズの苦労を思うと、彼女が哀れになった。

 気づけば二人でソファに座り、熱心に彼女の話を聞いていた。


 時間を、忘れるように。ルイーズの甘い香水の香りや、完璧に化粧が施された顔や、よく手入れの行き届いている髪や美しいドレス。

 それら全てが、エラドの五感を刺激した。


 いつしかエラドの心からは、リリアのことなどすっかり消えてしまっていた。


 彼女は運命だと思った。

 リリアよりも先に、彼女と出会うべきだった。


 何故リリアなどという学歴以外になんの取り得もない女と結婚してしまったのだろう。

 

 それからエラドは何度もルイーズに会った。

 劇場の支配人に多額の借金がある彼女を身請けしたいと、望むようになった。

 リリアは道具だ。妻としてグリーズ家を守るのは彼女の役目。

 そして、ルイーズは花だ。

 エラドの隣で美しく咲き、エラドを癒やすのが彼女の役目。


 それでも──リリアの顔を見る度に、うっすらと罪悪感が湧いた。リリアの顔を見ることを考えると気が滅入り、浴びるように酒を飲むようになった。

 友人たちに小馬鹿にされて、はじめてひどく傷ついたような表情を浮かべた後に、困ったように笑っていたリリアの顔が頭から離れない。


「どうされました、エラド様。なにかありましたの?」

「いいや、何も」


 エラドはショットグラスに注いだウィスキーを一息に飲み干した。

 あの男は、誰だ。

 先程見た光景が、何度も脳裏をよぎる。

 もう夜も遅いというのにリリアは見知らぬ男と、一つの傘をさして歩いていた。


 男の顔はよく見えなかった。

 もしかしてリリアは、エラドを裏切っているのか。

 彼女の母が伯爵に行った仕打ちと同じことを、彼女はエラドにしようとしているのかもしれない。


 そう思うと──今すぐ、リリアの元に行き、彼女を怒鳴りつけたくなった。


「エラド様、いつになったら私と結婚をしてくださるのですか? 私、もう今の生活に耐えられません」

「あぁ、わかっている、ルイーズ」


 絡みつく白い腕を取り、エラドはルイーズをソファに押し倒す。

 頭の中では、はじめて花をプレゼントした日にエラドの腕の中で幸せそうに笑っていたリリアの記憶が、何度も反芻されていた。



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