離縁の覚悟
わかっていたことなのに、実際に目にしてしまうと──土砂降りの雨の中でうずくまっているような気持ちになった。
エラドの連れていた女性は化粧にも服にも気を使っていて、美しく輝いているように見えた。
あの女性がルイーズかと、リリアは心の中で呟く。
エラドがリリアのことを貧乏くさい女だというはずだ。
リリアが路傍の石ならば、彼女は晴れた日の満月のようだ。
二人を乗せた馬車がどこかに去っていく。リリアは何も言わずに、帰路を急いだ。
オーウェンは黙ったまま、リリアに傘をさしだし続けてくれていた。
「……お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました。もうしわけありません」
「何も、恥ずかしいところなど。……聞かないほうが、いいだろうか。君の個人的なことは」
「あなたは私に教えてくださいました。きっと、話したくないことも」
「いや。私の場合は、隠すことなど特にない。だから、私が何を語ろうと、君は口を噤んでいていい」
「私も、隠しているわけではないのです」
ただ──誰かに話すようなことでもないと、思っているだけだ。
家までは遠い。
見られてしまった以上、オーウェンには事情を伝えてしまってもいいのかもしれない。
「半年前、エラド様に嫁ぎました。エラド様は……」
リリアは記憶を辿る。
エラドは──思えば、はじめから。
「エラド様は、私を疎ましく思っているようでした。オーウェン様もティリーズ家の醜聞はご存じでしょう。母は私を捨てて出て行き、父は浮気相手を妻にしました」
「ある程度は、嫌でも耳に入ってくる」
「……そんな、醜聞に塗れた私をエラド様は仕方なく娶ってくださったのです。父がグリーズ家にかけあったのでしょう、王都大学卒業間近に嫁ぐことが決まりました。でも、愛はなかった」
「エラドは浮気を?」
「きっと、そうなのでしょう。運命の人をみつけたのだそうです。だから……私は、離縁をされても生きていけるように働くことにしました。お給金をいただけるのは来月ですから、そうしたら家から出て行こうと考えています」
エラドに離縁を切り出されたら──と、思っていた。
だが、もう終わりにしたい。
愛しいと思ったこともあった。愛される喜びを感じたことも。
けれど、エラドに何かを命じられることも、顔を合わせる度に苛立っている彼を見ることも。
体に触れられることも、もう。
あんな光景を見てしまった以上、耐えられそうにない。
リリアは彼にとっては、ただの道具でしかない。
ルイーズに向けるような眼差しを、リリアは向けられたことが一度もない。
「私は、エラド様の運命ではなかったのです。母も父に浮気をされました。親子揃って、幸せな家庭というものに縁がないのかもしれません」
リリアは作り笑いを浮かべる。あまり、深刻にはなりたくなかった。
もう割り切っている。図書館の仕事は楽しい。悪いことばかりではない。
悪いことよりも、いいことのほうがずっと多い。
今日も、いい日だった。珈琲は美味しくて、オーウェンが隣にいてくれる。
リリアが一人きりの時にあの光景を見ていたら、もっとふさぎ込んでいただろう。
「話を聞いてくださってありがとうございます、オーウェン様」
「……リリア、笑わなくていい」
「え……」
「傷ついている時に、笑う必要はない」
思わぬ指摘に、リリアは作り笑いを消して俯いた。
降り続いている雨のせいで、石畳には所々水たまりができている。
「大丈夫です。私は……大丈夫。オーウェン様、私の事情などお気になさらず。エラド様の浮気現場を見ることができて、むしろよかったです。やっと、決心できました。家から出て行く、覚悟も」
「……行く場所は、あるのか?」
「これから探そうと思っています」
「家には戻らないのか」
「はい。ティリーズ家には私の居場所はありません。再び誰かに嫁ぐことになっても、同じことが繰り返されるかもしれませんから。だとしたら、一人で生きていくほうがずっといいと考えています」
父は怒るだろうか。
リリアには興味のない人だ。新しい嫁ぎ先を一方的に決められるだろうとは思う。
それは避けたい。相手が誰であれ同じような思いを味わうのは、リリアにはとても耐えられそうにない。
「そうか。……リリア、もし困ったことがあったら、私を頼っていい」
リリアは驚いて、思わずオーウェンの顔を見あげる。
「オーウェン様を?」
「あぁ。……一人暮らしには慣れている。女性が一人で物件を探すのも大変だろうし、何か、危険なことがあるかもしれない。だから」
「ありがとうございます。……こんなことを誰かに話したのははじめてです。なんだか、心が軽くなりました。それにとても、心強いです」
今度は作り笑いではない笑顔を、リリアはオーウェンに向けた。
グリーズ家の前にやってくると、リリアが家に入るまでオーウェンは傍にいてくれた。
「それでは、月曜に。噴水前広場で待っている」
「はい。今日はありがとうございました。おやすみなさい、オーウェン様」
「あぁ。遅くまでつきあってくれてありがとう。おやすみ、リリア。いい夢を」
玄関先で挨拶をして、手を振って雨の中を歩いて行くオーウェンをリリアは見送る。
その背中が小さくなっていくのに、ほんのわずかな寂しさを感じた。
リリアは胸に手をあてる。それから、オーウェンの背に向けて頭をさげた。




