オーウェンの事情と仕事の話
からっと揚がってケチャップと粒マスタード、レモンが添えられたフィッシュアンドチップスと、泡立てた雲のようなソイミルクに渦巻き状に蜂蜜がかかっているジンジャーハニーコーヒー。
粉砂糖がかかったシナモンロール、ラズベリージャムにクロテッドクリームが添えられたスコーン。
カフェラテには泡立てられたミルクで形作られたウサギが、カップから顔を出している。
テーブルに次々と並んでいく繊細で可愛らしくも美味しそうな食事は全て、マスターの手作りだ。
その太く逞しい腕でこんなに可愛らしいものが作れることが不思議だった。
「それでは、ごゆっくり」
「ありがとうございます、シエンナさん」
「名前、憶えてくれたの? 嬉しいわ、リリアさん。お父さんの珈琲はね、雨の中をずっと歩いているみたいな人の心を癒やす不思議な力があるの。夜の雨宿りカフェは夜明けまで営業中だから、ゆっくり飲んでいってね」
愛嬌のある笑みを浮かべて、シエンナが言う。
シエンナはカウンター奥にある調理場に向かうと、皿を拭き始める。
彼女はリリアと同じぐらいか、少し年下に見える。
雨の中をずっと歩いているような人の心──と、リリアは彼女の言葉を反芻した。
雨の中を歩き続けているのだろうか。
その自覚は、なかったけれど。もしかしたら。
「食べようか、リリア」
「はい。いただきます」
リリアはカフェラテに口をつける。ふわふわのウサギが崩れてしまうのがもったいないなと思いながら。
ミルクの甘味と酸味の少ないコーヒーの深い味わいが舌の上に広がって、リリアは微笑んだ。
「おいしいです」
「そうか、よかった」
シナモンロールを口にする。鼻から抜けるシナモンの香りと砂糖の優しい味わいに、肩の力が抜けていく。
白身魚のフライにレモンを絞って粒マスタードをつけて、オーウェンもぱくりと食べた。
それから、幸せそうに目を細める。
「ここのフィッシュアンドチップスが一番美味しい。私は料理ができないから、マスターにはお世話になってばかりだ。気に入った場所に通う癖があって、テネグロ図書館の窓際のソファと、ここ。最近は二か所を行ったり来たりしている」
「お気に入りの場所があるというのは、いいことですね。素敵なお店です。珈琲もお食事も、とても美味しいです」
「よかった。誰かを誘ったのはこれがはじめてだ。自分の場所が、自分の場所ではなくなる気がして。一人でいるほうが気が楽だと思っていた。だが、君が……そこにいると、まるでずっと前から何度も一緒に店に来ているような気さえしてくる」
「……それは、その、ありがとうございます」
気恥ずかしく感じて、リリアは俯いた。
「私はまた、何か言葉を間違えただろうか。リリア、すまない」
「い、いえ……そうではなくて、違います。嬉しく思います」
「そう……なら、よかった。これから君を口説こうとしているのに、嫌われたくない」
「仕事の話ですよね」
オーウェンは頷いた。窓の外ではいつの間にか、小雨が降りだしている。
「私のことを、話していいだろうか。何者かわからないような男に声をかけられても、判断をすることは難しいだろうから」
「はい。聞かせていただけますか?」
「私は……王とオクタヴィアの間にうまれた。二十六年前のことだ。私の父──今は亡きルドマン・ラファル王は私が生まれた時にはもう、四十を過ぎていた。それでも壮健で、私の異母兄、王太子ハーヴェイにはまだ王位を譲っていなかった。そしてオクタヴィアが男児を産むと、王位を与えると言い出した」
リリアは目を丸くした。それでは王位譲渡の通例に違反している。
王位とは、正妃との間に生まれた一人目の男児に与えられるもの。男児が生まれなければ、側妃との間の男児に。年齢順に優先権がある。
それは古くからの決まりだ。そうしなければ、王位継承権での争いが起こる。
争いが起これば国が乱れる。そういった争いや失敗を繰り返しながら、今のラファル王国は平和を築いた。
それなのに、七番目に妻に迎えた若い子爵令嬢との間の子に王位を譲ろうとするなんて──とんだ、醜聞である。それは秘された事実なのだろう。そんなことが起こっていたとは、リリアは知らなかった。
「……オーウェン様は王位を与えられそうになったのですか?」
「あぁ。当時、私は赤子だ。拒否権もなにもあったものじゃない。母は争いになることを危惧して、王にそれだけはやめて欲しいと懇願し、私をリンハルト子爵家にあずけた。当時から母は他の妃たちから嫌われていてな、私の命が奪われることをおそれたようだ」
「今の時代に、そんなことがありますか……?」
「ないと信じたいが、母の立場というのはそれぐらい危ういものだったのだろう」
静かな空間に、オーウェンの落ち着いた声が響く。雨脚が強くなってきたのだろう、ざぁっと、雨が石畳にぶつかり弾ける音がオーウェンの声の伴奏のようにリリアの鼓膜を揺らした。
「オーウェン様はずっと、リンハルト家に?」
「あぁ。母の兄の庇護下におかれていた。だが、どうにも困ったことに、王の寵愛が母に向けられていることで伯父は野心を抱いた。自分こそが政治の中枢に──と、私を盾にして元老院に入り、ひどく煙たがられた」
「……その時、オーウェン様はおいくつぐらいだったのですか?」
「十歳か、そのあたりだな。やがて母が死んだ。心労が祟ったのだろうと皆は言っていた。父も母のあとをおうように死んで、私の立場を不憫に思ったのだろう異母兄が私が十五の時に城に呼び戻してくれた」
「ハーヴェイ様は、立派な方だと聞き及んでおります」
テネグロ図書館の館長クリストファーは、王家に近しい人間である。
ハーヴェイが文化の保護に積極的なため、テネグロ図書館の運営もつつがなく行うことができるのだとよく言っている。
「あぁ。七人の側妃たちの間にうまれた異母弟妹について、不満が出ないように処遇を決めてくれた。大変だっただろう。立派な人だ」
「オーウェン様は、それからは……何か、困ったことには巻き込まれなかったのでしょうか」
「君と同じ。王都の学園を卒業してから、王都大学に入り、寮生活をしていた。二十歳で卒業して、それから二年程ふらふらしていたんだ」
「ふらふら?」
「ふらふらとしか、言いようがないな。私の存在はひどく、空虚だ。私がうまれたせいで、リンハルト家は本来ならば持つ必要もなかった野心を抱いた。母は死に、父も王道を踏み外した。権力の傍に身を置きたくなかったんだ。……それで、まるで風にあおられて転がる道端の紙袋のように、ふらふらと」
オーウェンはそう言って、肩を竦めた。
オーウェンの身の置き場のなさは、リリアには馴染んだ感情だった。
その空虚さを、理解できる。
「だが、兄に呼び戻されてな。頭だけはいいのだから国のために働けと、王立研究所に入れられた。それならばと、仕方なく歴史編纂室に入って、今ではすっかり失われた過去の歴史の虜になっている」
「古代史のことですね」
「あぁ。ラファル王国が建国する前。古代文字が使われていた時代のことを調べる者は、ほとんどいない。ラファル王国の歴史書さえ穴があるぐらいなのだから、千五百年以上前のことなどはっきりとわかるわけではない。……私は、古代に何があったのかが知りたい。どうして滅んだのか、どんな人々が生きていたのか」
「それで、古代文字の本を読んでいらっしゃる……」
「全て解読できるわけではない。時間もかかるしな。歴史編纂室には私と、他に部下が二人。彼らはラファル王国史をまとめあげる仕事をしている。私の研究について部下たちからは物好きだと言われている」
リリアはオーウェンの話を興味深く聞いたあと、軽く首を傾げた。
「古代史は……私にとっても魅力的なものだと感じます。古代の人々が何を考えどう生きていたのか、書物から読み解けるのだとしたら、興味はあります。ですが、司書の仕事もはじめたばかり。大切に、思っています」
「もしよければ、休日を私と共に過ごしてくれないか。気になっている本があって。それを読み解く協力をしてもらいたい。古代文字を読める者を、私は君以外には知らない。図書館の司書たちだって、読めないままに管理しているだろう。だから、第三書庫の本の並びはぐちゃぐちゃで……」
どうしようかと──リリアはしばらく悩んだ。
コーヒーの上に浮かんでいるクリームのウサギと目が合う。
夜の雨宿り──と、リリアは心の中で呟く。
リリアは今まで雨宿りをしないで雨の中を突き進むような生き方をしてきた。
だが、オーウェンは傘をさしだしてくれているような気がした。
それぐらいに。彼の提案が魅力的というよりは、この店と珈琲が美味しかった。
素敵な店に案内をしてくれたオーウェンに協力をしたいと思うぐらいには。
「わかりました。お手伝いさせてください」
「いいのか? ありがとう、嬉しい」
リリアが承諾すると、オーウェンは安堵したように息をついて、口元をほころばせた。




