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夜の雨宿りカフェ



 夕方近くになると街角の街灯に火が入る。

 点灯夫たちがガス灯に点火をする光景が見られるようになったのも、つい最近のことだ。

 夜の街が明るくなれば、夜半過ぎまで余暇を楽しみむ人が増える。


 テネグロ図書館からしばらく歩いた先にあるトランジエット広場と大通りには、夜まで営業しているレストランやパブ、カフェが立ち並び、夜を楽しむ人々でいつも賑わっている。


 馬車道には着飾った貴婦人や紳士を乗せた馬車がゆったりと行き交っている。

 土曜の夜ともなれば王都劇場やその他周囲の小劇場も観客でいっぱいになる。


 週末のオペラやバレエ、演劇や演奏会を楽しむことは、上流階級の者たちにとって最早常識的な習慣となりつつあった。


 テネグロ図書館からトランジエット広場までの石畳の道を、リリアはオーウェンと連れ立って歩いた。

 トランジエット広場に続くサルバルド大通りに足を踏み入れると、静かな図書館前とは打って変わって賑やかな光景が広がっている。

 街路樹と街灯で馬車道とは隔てられた遊歩道を、腕を組んで歩く恋人たちや、それ以外にも連れ立ってどこにかに向かう男性や女性たちの姿が多く見られる。


 上背があり立派な体躯をした見栄えのいいオーウェンは、通りを歩いているだけでとても目立つ。

 道行く女性たちがちらちらと彼に視線を向けて、その隣を歩くリリアの姿に落胆したような、もしくは訝し気な視線を向ける。


 髪型にも服装にも気を使っていないことが、少し気になった。

 化粧ぐらいはしたほうが──と思ったが、リリアは自分自身に金をかけたことがない。

 図書館の給金が手に入ったら、少し、贅沢をしてみようかと歩きながら考える。


「大通りや広場が賑わっていることは知っていましたが、実際に目にするのははじめてです。オーウェン様、申し訳ありません。あなたと二人で歩くのに、私は適した格好をしているとは思えません」

「私と歩くのに、適した格好があるのか? 君は君のままでいい、リリア。むしろ申し訳ないぐらいだ。仕事をして疲れているだろうに、君を強引に連れて歩いているのだから」

「そんなに疲れてはいません。司書の仕事は楽しいです。あの場所では私語厳禁で、人より本の相手をしている時間のほうが長いので、気が楽なんです」


 人と話すことは、苦手なわけではない。

 ただ──リリアには、人に話すべきではない事柄が多すぎる。

 リリアの人生は、大抵の場合王都を覆っている霧や雨雲のように暗い。

 気軽に人に話せないようなことばかりだ。そうすると結局、何を語ればいいのかわからなくなってしまう。


「私もそうだ。文字を追っている時間、それに没頭している時間は気持ちが安らぐ。人と話すのは苦手だと言っただろう? だから」

「同じですね、オーウェン様。……私に声をかけてくださってありがとうございます。オーウェン様の声や、口調が穏やかで、だから私はあなたともう少し話してみたいと思いました」

「え……っ、あ……っ、あ、ありがとう」

 

 若干上ずった声で、オーウェンは礼を言う。

 それから、中央に女神が瓶から水を注ぎ入れている彫刻のある噴水が置かれた、円形のトランジエット広場の一角にある建物の前で足を止める。

 ガラス張りの店だ。中の様子をを覗くことができる。

 観葉植物とソファセットが置かれていて、鈴蘭型をしたオイルランプが灯っている、居心地のよさそうな空間がそこには広がっていた。

 

 数名の客が中に入っているが、まだ席は空いていた。

 ガラスには『夜の雨宿り』と書かれている。


「夜の雨宿り……」

「静かでいい店だ。入ろう、リリア」


 扉を開くと、来客を告げるベルが静かな空間に軽やかな音を立てた。

 広い店だ。店の奥にはピアノが置かれている。カウンター席の奥には白いシャツを着て黒いエプロンをつけたマスターが居て、ドリッパーで珈琲を淹れていた。


 細口のポットを持つ腕は太い。黒髪をきっちりオールバックにしている彼は四十代そこそこといった程度だろうか。渋みのある顔立ちをした、どこか軍人のような佇まいのある男だ。


「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」


 店に入るとウェイトレス風の服をきた若い女性が、案内をしてくれる。

 瞳が大きくぽってりとした唇の愛らしい女性は、マスターに顔立ちがどことなく似ている。

 彼の娘なのかもしれないなと、リリアは思う。


「ピアノの前の、奥の席でいいか?」

「私はどこでも」


 オーウェンと共にピアノの前の席に座る。オーウェンが軽く手を挙げると、マスターは「よくきたね」と思いのほか優しい口調で言った。


「オーウェンさんが女性を連れてくるなんて。明日の王都は快晴に違いないわ。晴れ渡る青空に、四月の優しくもあたたかい風が吹くでしょう。もう十月で、あとは雪を待つばかりだっていうのにね」


 席に着くと、ウェイトレスがレモンの輪切りが入った水を持ってきてくれる。

 それから明るく弾むような口調で言った。


「……シエンナ、あまりからかわないでくれ。リリアにも失礼だろう」

「ごめんなさい。悪気はないの。ただ珍しいと思ったのよ。リリアさん、いらっしゃいませ。夜の雨宿りカフェにようこそ。おすすめはジンジャーハニーブレンドコーヒー。それから、夜の雨宿りスペシャルも人気。こっちは酸味と苦みが丁度よくて、夜の読書にぴったりの味わいよ」


 それだけ言うと、ウェイトレスのシエンナはマスターの下に戻る。淹れたばかりの珈琲を、他の客に運んでいる彼女の後姿をリリアは目で追った。


「……私がよく来るものだから、名前も顔も知られていて。彼女はシエンナ。マスターの娘だ」

「あぁ、やっぱり。どことなく似ているので、そうじゃないかとは思いました」

「似ているかな」

「背すじがぴんと伸びたところが、似ています」

「確かに、そうかもしれない。私はまさか親子だとは思わなかったが……マスターにあとで伝えておこう。きっと喜ぶ」


 オーウェンはリリアにメニュー表を渡しながら、微笑んだ。

 心地よい空間の中で彼の声を聞いていると──いつもの日常から切り離されたような気がした。



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