寄り道
オーウェンはふと気づいたように、掴んでいたリリアの腕を離した。
リリアは掴まれていた右腕を引き寄せて、左腕で手首に触れる。
「つい、焦ってしまって。痛くはなかっただろうか」
「大丈夫です。……オーウェンさんは、王立研究所の研究員の方なのですね。リンハルトというと……」
「王の七番目の妻の名だ」
「……あぁ、やはり。それは失礼をいたしました」
リリアは慌てて頭をさげた。
前ラファル王には、七人の妻がいた。特に七番目の親子ほどに年齢の離れた妻を王はとても可愛がっていたという。
彼女の名は、オクタヴィア・リンハルト。
リンハルト子爵家の末娘で、王女の侍女として働いていたところ王に見初められた。
リリアが生まれる前の話だ。王立大学で習った王国史で、ちらりと教授が触れていた。
当時の社交界では大騒ぎになったのだという。
爵位がなんであれ可愛い娘であれば王に見初められるかもしれないと、皆がこぞって自分の娘を王城で働かせたがり、ちょっとした混乱が起こったのだとか。
「王子殿下でいらっしゃったのですね。私、大変失礼を……名前で気づけないなんて、お恥ずかしい限りです」
オーウェン・リンハルトと彼が名乗った時点で気づくべきだった。
気づける可能性はいくつもあった。例えばリリアがグリーズと名乗っただけで、彼はグリーズ侯爵の妻だとすぐ言い当てた。
それは貴族社会に身を置いている人間だからだ。
一般庶民であれば、貴族のミドルネームになど感心がない場合が多い。
何かしらのスキャンダルで新聞沙汰になるなどすれば、また別だろうが──。
「いや、そんなことはいいんだ。今は重要なことではない」
「ですが」
「……リリア。君の時間を少しでいい。私にくれないか」
「オーウェン様、私は帰らなくては……」
「夕食を、共に。いや、それはまずいか。珈琲でもどうだ。少し歩いたところに気に入っているカフェがあって。三十分……いや、十分だけでもいい。もちろん、奢らせてくれ」
リリアは視線をさまよわせた。三十分。その程度の時間なら、大して問題にはならない。
急いで帰っても、どうせエラドはいない。
明日は日曜。図書館は休み。青空市場で店を開くぐらいしか、リリアには予定がない。
夕方、使用人や侍女たちは家に戻る。そのため、グリーズ家にリリアが帰った時には誰もいない。
だから少し遅くなることは、たいした問題にはならないだろう。
むしろイルマたちには「奥様、夕食をどこかで召しあがってきたらいかがでしょうか。奥様も少しは贅沢をするべきです。遅くなる時は、馬車で戻ってきてください」と言われるぐらいだ。
それに、オーウェンが王子殿下だとわかった以上、無碍に断るのは──。
などと心の中で言い訳をして、それからリリアはそういった言い訳の数々を全て打ち消した。
リリアは、彼の提案に興味がある。
エラドの妻でありながら男性と二人きりで過ごすことはあまり褒められた行動ではないが、そのうち離縁をされることはわかりきっている。
離縁をされないにしても、用意ができたらリリアはあの家を出て行くつもりだ。
オーウェンの提案がリリアの自立した生活に繋がる可能性があるのなら、話を聞くべきだろう。
「わかりました。ご一緒させていただきます」
「やった、よかった……! あ、あぁ、すまない。私はどうにも、人と話すことが苦手で。言葉選びが下手だと、部下にもよく言われる。こうして君を引き留めるのも、とても……その、なんというか、必死だった。だから、嬉しい」
「……ふふ、はい。こちらこそ、声をかけていただいてありがとうございます」
どこか無邪気に微笑むオーウェンは、まだ幼い少年のようにも見える。
見た目は──麗しの貴公子で、高貴な血筋の立場のある人だというのに。
思わず微笑んだリリアから、オーウェンはどこか恥ずかしそうに視線をそらした。
「では、行こうか。三十分だけでいい。君の時間をくれ。君は、急いでいるのだろう」
「いいえ、急ぐことはなにも。家に帰っても、誰もいませんから」
「……そうか? それでは私と同じだ。食事もできるだろうか。珈琲も美味いが、パンケーキや桃のタルト、フィッシュアンドチップスも絶品で」
「私も好きです、フィッシュアンドチップス。それに、甘いものも大好きです。濃いエスプレッソや、レモンのペリエも」
「あぁ、それは私も好きだ。最近店主は、ラテアートにはまっているらしくて。よく、ウサギを描いている」
「可愛いですね、見てみたいです」
二人で並んで歩きながら、図書館の敷地から出る。
鉄門の閂をしっかりはめると、リリアはオーウェンに連れられてカフェに向かった。




