序章:テネグロ王立図書館のリリア
一目惚れ。運命。略奪。燃え上がる恋、禁忌。
二人にとっての激情は、誰かにとっての苦しみだ。
それこそ演劇のような恋の裏側には、表舞台にはあがらない私のような女がいる。
なんてことを考えながら、リリアは驚くほど高い壁の上方に並ぶ女神と天使を模したステンドグラスから降り注ぐ光の中を、両手に本を抱えてゆったりと歩いている。
リリアの肩口で切り揃えたまっすぐなブルネットの髪には、光が当たって天使の輪ができている。
翡翠色の瞳が本のタイトルと、それを返却するための、番号が書かれた書架を忙しなく行ったり来たりした。
品のよい濃紺のロングスカートのワンピースが歩くたびにひらひらと揺れる。
大理石の床を踏んでもうるさくないように、靴はヒールのないものを履いている。
ゆったり歩くのは、それでも多少は響いてしまう足音を極力なくすためだった。
静寂が支配するこの場所に、足音は相応しくないとリリアは考えていた。
ステンドグラスの下には、オーク材で作られた濃い茶色の書架がずらりと並んでいる。
書架には梯子がかけられている。梯子を登らないと、上段には届かない。
そのぐらい書架の背は高い。その書架に、みっしりと本が詰め込まれている。
ラファル文字──ラファル王国で近世使われるようになった文字順に、本は並んでいる。
重厚感のある木材と鉄で作られた扉をくぐった入り口からすぐの第一書庫と呼ばれるこの場所には、活版印刷で刷られ製本された最近の本が納められていた。
膨張する図書館という異名を持つ、王都の中心にある『テネグロ王立図書館』で、リリアは司書をしている。
働き始めて、一か月。まだまだ新人だ。
テネグロ王立図書館が何故膨張する図書館と呼ばれているかといえば、それは王国の古い時代から今までの本が全て管理されているからである。
蔵書の量が膨大過ぎて、それは日々増え続けているために誰も──職員でさえ把握しきれていない。
──というぐらいには、広大な図書館だ。
一日かけても蔵書を全て確認することは不可能なほど、納められている本が多い。
第一書庫の本は、基本的には貸し出し可能だ。
大人から子供まで、王都に住む人々が本を借りに来る。貸し出しと返却の確認、本の管理。
それがリリアの仕事である。
今日の返却分の本を書架に戻して、リリアは図書館の中央に置かれている大時計を見あげた。
そろそろ十六時。図書館を閉める時間だ。
本とは紙である。当然ながら、よく燃える。
基本的には図書館内は火気厳禁。オイルランプが倒れて本に燃え移ったら大惨事になる。
日の高いうちだけ、図書館は開かれる。暗くなる前に閉めてしまう。
図書館を閉める時間が、職員の帰宅時間。図書館員の勤務時間は朝九時から、夕方十六時まで。
火曜日から土曜日までの勤務で、日月は休み。
月の給料は二十五万ファブリス。
王都の都民の一般的な手取りが十五万ファブリスなので、かなりよいほうといえる。
それもそのはずだ。司書になるためには、王都大学を卒業していないといけない。
王都大学は優秀な人材を育てるために基本的には学費は免除されている。だが入学するためには、そして卒業するためにはかなりの学力が必要になる。
とても、狭き門である。
リリアはティリーズ伯爵家の長女として生まれた。
ティリーズ伯爵と先妻の間の子だ。リリアの母はティリーズ伯爵の浮気を苦にして、リリアが三歳の時にリリアを残して家を出てしまった。
そのため、リリアには母の思い出はほとんどない。
父から憎々しげにその話を聞いただけだ。
母の生家は没落しかけていた公爵家だという。その家を救うために結婚してやったのに、恩を仇で返したのだと、父はよくリリアに向かって言った。
母が出奔すると、父は浮気相手を家に呼び後妻に据えた。
この人は貿易商も営んでいる父の部下だ。父が他国に出向く時には、常に同行をして通訳なども務める賢く美しい女だった。
リリアには継母と父に生まれた腹違いの弟と妹がいる。
腹違いの弟がティリーズ伯爵家を継ぐ予定で、妹は今は王立高等学園に通っている。
──特に、彼らからいじめられたというようなことはない。
むしろ後妻は一人残されてしまったリリアを哀れんだ。弟も妹も、リリアを姉として慕ってくれている。
ただ、肩身の狭い思いはしていた。
どうやら母は男を作り出奔したらしい。そんな母の子である自分が、父や継母の世話になるのが申し訳なかった。
だからせめて優秀でいなければいけないと思い、リリアはひたすらに勉強に励んだ。
王立高等学園で優秀な成績をおさめて、金があっても頭脳がなければ入学できないと言われている王都大学に進学をした。
父はリリアの優秀さを喜んだ。
愛情こそなかったが、リリアの成績がよければよいほどに父の機嫌はよくなり、卒業試験の後には相応しい婚約者まであてがわれたぐらいだ。
「リリアさん、今日もお疲れ様。鍵をお願いできる?」
「はい、ジョセフィーヌ先輩。お疲れ様でした、お気をつけてお帰りになってください」
先輩の司書たちが荷物をまとめて、リリアに挨拶をして帰っていく。
テネグロ図書館の職員は十人。その中でもリリアが一番新人で、年齢も若い。
そのため最後まで残って鍵を閉める役割を、自ら望んで引き受けていた。
誰よりも若輩であるのだから、せめてできることはしたいという気持ちからでもあり、同時に早く家に帰りたくないという気持ちからでもある。
リリアの家は、王都にある。
父の選んだ婚約者と、王都大学を卒業してからすぐに結婚をした。
その相手とは、エラド・グリーズ。グリーズ侯爵家の長男である。
エラドはリリアよりも二つばかり年上で、グリーズ家は父の商売のお得意様ということもあり、年頃が近いグリーズ侯爵の息子の妻にリリアはどうかと、父から持ちかけたらしい。
二十歳で結婚をしたリリアは、エラドの意向で王都のタウンハウスで暮らしはじめた。
貴族たちは利便性の悪い領地よりも、若いうちは王都で暮らす場合が多い。
子育てにも社交にも、王都の方が適しているからだ。
地方にも高等学校が建設されはじめているとはいえ、由緒正しい歴史のある王都の学園にはまだ叶わない。
王都の学園に子を通わせるのは貴族たちにとってのステータスでもある。
王家や有力貴族との繋がりを作るために、毎週末のパーティーに男性は参加することが多い。
競馬場で出資した馬を走らせたり、賭け事をしたり、タバコを吸ったり酒を飲んだり。
そういったことを行うのは、貴族男性の仕事のうちでもある。
王国横断鉄道が開通してから貴族以外にも有力な商人などが増えはじめているものの、土地を治めている貴族の力がすっかりなくなったわけではない。
特にリリアの父などは、伯爵家の財力を元手に商売をはじめて幾つかの企業を経営している、近代的な有力者である。
──リリアが輿入れをしたグリーズ家は、どちらかというと保守的な家だった。
エラドは「君は家にいていい。女性とは、家を守るものだ」と言われた。
リリアは働くつもりだった。そのために王都大学を卒業したのだ。
最終試験でリリアは学年一位の成績をおさめた。それは育ててくれた父へのせめてもの恩返しだった。
そして、学ばせてもらった分、働くことで誰かの役に立ちたいと考えていた。
「僕はね、リリア。女性には学などいらないと思っている。僕の母も高等学園を出てすぐに父と結婚をしたが、よく家を守ってくれている。僕は母を尊敬している」
「それは、とても素晴らしいことだと思います」
「君の本当の母親は、男を作って出て行ったそうだね。放蕩な女の娘である君が、貞淑であることを祈っている」
結婚式の時にはじめて顔を合わせて、初夜の前にそんなことを言われた。
そのために、リリアの心はすっかり萎縮してしまい、義務的に行われた初夜はただ、必死に痛みに耐えるばかりだった。
その時のリリアは、エラドとはまだ出会ったばかり。
だからこれからゆっくりと時間をかけて好きになっていけばいいと考えていた。
結婚式もきちんと行ってくれた。会話も交わしてくれる。
初夜だって、王都大学の友人たちは「はじめての時は痛い」のだと言っていたから、そんなものなのだろう。
そう思っていられたのは、結婚してからたった半年の間だけだった──。
たまには、魔法も魔物もない、鉄道や銃のある近世ファンタジー恋愛が書きたいと思いました
お付き合いくださると嬉しいです




