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天駆けるな!

作者: C@CO

 年間を通して数多く設定されているレースの1つと見る人もいるかもしれない。


 でも、スタートからゴールまで懸命になって駆ける馬たちのレースには、馬と馬を愛する人々によって紡がれる、全てを語りつくそうとすると永遠の時を必要とするほど数多の物語がこれから勝負が決するまでわずか2分強の短い時間に隠れている。 


 ガゴン


 太陽の光が差す中、ゲートが開いた。


 栗毛と鹿毛の16頭の馬が一斉にスタートする。


 一瞬遅れて、競馬場に押しかけた大観衆の大歓声が響いた。


 歓声が圧となって押し寄せ、観衆の興奮と熱狂を伝えてくる。


 普段のレースとは段違い。最高格付けの大舞台だ。観衆の人数は8万人。その歓声の圧は凄まじい。


 ――お! 良い感じじゃないか。


 騎手の斎藤隼太は騎乗するスカイウィングの出だしの良さに手ごたえを感じた。スタート前に抱いた悪い予感を忘れるために。


 ゲートから出るタイミングは一際良かった。おかげで、他の馬に揉まれることなく、前に出られた。


 ――もしかしたら、掲示板も狙えるんじゃないか?


 観客席正面前に設置されている着順掲示板に掲示されるのは、上位5着。


 ちょっとした欲も出す。初めて出るこの大レースへのプレッシャーを踏み台にするために。


 隼太にとって、このグレードのレースに出た経験はキャリアの中でほんの数回だ。


 彼が騎乗するスカイウィングにいたっては初めてだ。


 ――ははっ! やっぱり、こいつは大物だよ!


 初めてなのに、8万人の大歓声に気圧される様子を見せない馬に賛辞を贈る。そうすることで己の気を引き締める。


 レース前に逃げ宣言した馬が前に出て行く。


 このレースに出走するには、スカイウィングの成績ではぎりぎりで、同様に成績がギリギリの他の馬との抽選の末、出走権を獲得した。単勝馬券は16頭中11番人気。


 それでも、デビューの時から何度もコンビを組んで、一緒に走ってきたから知っている。


 ――いい素質、持ってんだよな。


 難点はムラっ気があること。調子が良い時悪い時のレース結果が極端。後続を引き離してぶっちぎりで勝つこともあれば、最後の最後まで走る気を出さずにドンケツになることも。もっとも、そうしたところも愛される所以であったりもする。


『手のかかる子供ほどかわいい、と言うじゃないですか』


 スカイウィングのオーナー(馬主)の武藤正平の言葉が思い出された。


 同感だった。今乗っている競走馬の中でも、それどころか、これまで乗った馬の中でも、隼太にとってスカイウィングは特別だった。隼太だけではない。


 スカイウィングに関わったことがある誰もがスカイウィングを愛している。


 隼太は思い出す。正平がスカイウィングの首筋を優しい目で見つめながら撫でていた様子を。スカイウィングに自身の白髪をモシャモシャ甘噛みされていた。馬が甘噛みをしてくるのは信頼の証である。もちろん、引っ張られたり毟られたり、と危険な場合もあるが、スカイウィングの場合、絶妙な力加減で正平に甘えていた。こんなことをするのは正平にだけ。普段スカイウィングを世話している厩務員にもしない。馬の気持ちを誰よりも汲み取ることが出来る隼太にもしない。


 だから、みんな正平に嫉妬した。


 でも、どうして、スカイウィングがそんなに正平に懐いているのかは誰にも分からなかった。単純に馬が合うのか、それとも競走馬の仔馬として買い手がつかず処分される寸前に正平に買われた恩義を感じているのか。


 父馬は中央競馬で重賞勝ちしたことはあれど、その程度は山ほどいる。父馬の父馬が超が付く有名馬だったから、血統を残すために種牡馬とされた。もっとも今は行方不明。より優秀な成績を残した異母弟が種牡馬になったから、用済みとされた。母馬も似たようなもの。


 スカイウィングも、仔馬の時は馬体が細く、性格も繊細で臆病で、競走馬としての将来性に疑問符がついていた。なにより、血統主義の競馬世界で父母の評価は仔馬の評価に直結する。


 それでも情を入れてしまった生産牧場の牧場主が買い手を探し回って、


『いいですよ』


 頼み込まれた正平が引き受けた、と隼太は人伝に話を聞いた。


 正平の馬主歴は長いが所有した競走馬の数は多くない。その馬が競走馬としての馬生を終えてからも維持し続けるからだ。競走馬として活躍できるのはせいぜい10歳まで、最盛期は3歳から5歳くらいのわずかな時間しかない。でも、馬の寿命は約25年。競争馬が自ら活躍して、自らが寿命を迎えるまで生きていけるだけの金を稼げるのは、その世代の中でごくごく一握りだ。


 走れない馬はさっさと見切り、新しい馬を買う。そういうやり方は正平は大嫌いだった。自分の手のひらから零れ落ちるのが圧倒的多数というのは分かったうえで、それでも手に入れた馬はその寿命が尽きるまで面倒を見た。ホースクラブを立ち上げ、競走馬から引退した馬を受け入れた。だから、所有する競走馬はホースクラブで受け入れられる数だけ。


 正平がスカイウィングの購入を頼まれた時、ちょうど、彼のホースクラブに空きが1頭分だけ出来ていた。


 


 *


 


 レースが4分の1の地点を越えた。スタート直後の各馬のポジション取りも終わり、隊列が出来上がった。


 先頭はスカイウィングと同様に抽選で出走権を得た6歳牝馬のラメゾンが走っている。栗毛の牝馬が刻んでいるペースは平均より少し早い。


 5馬身くらい離れて、3歳牡馬のチュイルチュイルが走る。クラシック戦線で二冠を達成して、このレースでは単勝2番人気。この栃栗毛の馬の勝利の方程式は、先頭馬を見据えられるポジションで平均より少し早めのペースに走り、ラストでスパートをかける。前を走る馬をとらえ、後ろから追ってくる馬は根性でねじ伏せる。乗っている騎手は若手トップ。今日これまでのレースで3勝していて絶好調だ。


 その横を1馬身ほど遅れてスカイウィングが走る。


 4番手以降は少し離れている。


 ――お! よしよし。これで悪いなりでもベストを走れる。


 進路を塞ぐように前を走る馬もいない。横からかぶさるように馬体を寄せてくる馬もいない。


 調子が悪い時のスカイウィングは、進路を塞がれれば走る気を失くし、横からかぶさられるとバランスを崩してスピードが出ない。


 だから、ベストを走れる保証は整えられたのだが、鞍上の隼太の胸騒ぎは治まらない。


 なぜなら、スカイウィングの声が聞こえないから。


 騎手「斎藤隼太」は乗っている馬の声が聞こえる。聞こえるだけで会話が出来るわけではない。それに、聞こえると言っても大したことは出来ない。


 大抵、聞こえてくるのは、


(かったるいなー)


(あ、あの子(牝馬)、カワイイな)


(この男がつけている香水、嫌い。臭い)


 そんなことばかりだ。たまに、


(蹄鉄が外れそう)


とつぶやくのを耳にした時があれば、反応する前に、馬の蹄に蹄鉄を打つ装蹄師が近寄ってきて馬から下ろされ、その場で新しい蹄鉄を打ち直された。


(ハミが気持ち悪い)


と耳にした時があれば、手綱を引いていた厩務員がハミの状態を調整した。


 それでも、聞こえることで役に立つこともある。


(あーあ。砂被るの嫌なんだよな)


 こんなことを呟く馬に乗った時のダートレースでは、馬を先頭に導き、見事に勝利に導いた。


(今日は後ろからゴボウ抜きしてやりたい)


 こんな時は、後ろに付けて、ゴール手前からスパートをかけさせ、ゴボウ抜きさせたりもした。順位は2着だった。


 だけど、こんな風に上手くいくことは多くない。同じレースを走る、より速い馬に力でねじ伏せられることの方が圧倒的に多い。


 馬の声が聞こえるようになったのは、競馬学校に入ってから。本当に幼い頃に乗馬体験で馬に乗った時に「聞こえた」と言っていたこともあったらしい。記憶に無かったが、その時の写真を見ていた母親に教えられた。このことがなくても、馬に関わる仕事がしたい、と考えていた。だから、競馬学校に入った。騎手になろうとしたのは、コンプレックスだった小柄な身体が応募要項の体重制限をクリアしていたことと、騎手が格好良く見えたから。


 馬の声が聞こえることは誰にも話していない。普通にはあり得ないことで、話しても妄想扱いされると思っている。


 けれど、「自分は特別だ」と勘違いしてしまった時もあった。若気の至りも加わって、「自分が馬を勝たせてやっている」と思い違いをしてしまった。


 つまり、天狗になった。


 報いはすぐにやってきた。競馬のイロハを教えてくれる師匠で所属していた厩舎の調教師からは特大の雷を落とされ、可愛がられていた有力馬主からは愛想をつかされた。


 狭い業界だから悪評はすぐに広がった。


 結果、騎乗依頼が激減した。依頼が無くなれば、競走馬に乗れない。レースに出られない。レースに出られないと勝負勘も鈍くなる。レースに勝てないと強い馬の騎乗依頼は来ない。弱い馬にばかり乗っていたら、レースに勝てない。勝てないと……。悪循環。


 隼太は不貞腐れた。「どうしてこんな目に合わないといけないんだ」と。


 そんな彼にでも騎乗を依頼する馬主はいた。単純に他の騎手の都合がつかなかったから消去法で、もあったが、


『若いんだからこんな失敗もするさ。まあ、頑張りなさい』


と見捨てずにいてくれた馬主もいた。その一人が正平だった。


 一つの転機が来た。未勝利戦に出る正平の持ち馬、芦毛のスカイグレーに隼太が乗ることになった。未勝利戦とはデビュー後一度も勝利していない競走馬が出るレース。


(走りたい! 走りたい!)


 スカイグレーはスタート前から気合十分で、なだめるのに周りが一苦労するほどだった。スタートしてからも前に行きたがるから折り合いをつけるのに苦労した。とはいえ、手ごたえも十分。隼太にとってもスカイグレーにとっても念願の勝利も夢ではない、と思えた。


 異変が起きたのは4コーナーを曲がり終えて、ゴールまでの直線に入った時だった。


(……苦しい。胸が……。なんで? 胸が痛い)


 馬体と接している両足からは何も伝わってこない。だが、


「後ろ、空けろ!」


 隼太はパッと後ろを振り返って叫んでいた。スカイグレーの後ろには何頭もの馬がひしめき合っていたが、ザッと後ろまで続く馬1頭分のスペースが開く。そして、あっと言う間もなく、スカイグレーを追い越していった。


 手綱を引いて、なおも前に行きたがるスカイグレーをなだめながら、スピードを落とさせる。


 否、もう走れなくなっていた。


 心室細動だった。一時的に心臓から全身に血を送れなくなって、走れなくなる。多くの場合、しばらくすれば問題はなくなるが、どれだけレース前に健康状態のチェックを重ねても、今の医療技術では防ぐことはできない。スカイグレーもレース前のチェックでは異常はなかった。馬から降り、スカイグレーをクールダウンさせる。


 でも、これで済めば幸運な方だった。


 最悪、心不全を起こすと、命を落とす。


 しばらくして、異常を察して駆けつけてきた競馬場の関係者にスカイグレーに委ねたが、その間も幾度となく、ゴールの方を向くスカイグレーの様子が目についた。


(あーあ。勝てなかったなー)


 隼人が下馬する前に聞こえた呟き。


 このレースの後、スカイグレーは競走馬として引退した。馬体に問題があったわけではない。理由は勝てなかったから。


 1年の間に生まれた7000頭の内、競走馬としてデビューできるのは5000頭。この段階で2000頭が脱落している。病気をしたり、ケガをしたり、買い手がつかなかったり、etc。


 ここからさらに勝ち残れるのは3分の1。勝てなければ、残される道は競走馬からの引退。


 スカイグレーもそんな1頭に過ぎなかったが、


 ――俺が勝たせているんじゃない。

 ――勝たせてもらっているのは、俺の方だ。


 そんなことをスカイグレーの姿を見て、隼太は考えていた。


 違う。ようやくそう考えるようになった。


 引退したスカイグレーは正平のホースクラブに移って、乗用馬となった。正平をその背に乗せているところを、隼太は見たことがあった。


 背から下りた正平に、スカイグレーは親し気に顔を寄せて、じゃれついていた。時折、正平の髪を甘噛みしていた。


 とても幸せそうだった。スカイグレーも正平も。


 でも、スカイグレーは数年前に天国へと旅立った。


 ホースクラブに来た心無い客がしたことによって、パニックになり足を骨折。500kg以上の身体を支える細い足を折ることは、馬にとって致命傷に等しい。結局、安楽死の処置がとられた。


 ホースクラブの敷地の一角にある墓が色とりどりの鮮やかな花々で今も囲まれているのを、毎年会いに行く隼太は知っている。


 でも、この死によってホースクラブの枠に空きが1つできた。その枠に入る予定なのが、スカイウィング。


 


 *




 レースの半分を過ぎる。


 スカイウィングは賢い。


 デビュー前の調教の段階から、「教えることがないくらいだ」と隼太の師匠で調教師の菊澤康次が口癖にしていたほど。


 デビューした新馬戦でも、力を入れるところ抜きどころをその場で察していた。騎乗していた隼太がやったことは、ゴールが近くなったからスパートをかけろ、という合図をしただけ。


 簡単だった。


 そして、後続をぶっちぎりに引き離して快勝した。


 騎乗していた隼太も、調教師の康次も、オーナーの正平も、スカイウィングの未来に期待した。


 でも、第2戦ではボロ負けした。


 スタートするまでは落ち着いていて、前走との違いはほとんどなかった。


 でも、スタートのゲートが開いて、走り出しても気合が入らない。途中でムチを入れても、全然ダメ。結局、ドンケツ負けだった。


 敗因は誰にも分らなかった。


 その後も勝ったり負けたり、走ったり走らなかったり、を繰り返した。


 そういう馬を「気まぐれ」「ムラっ気がある」と呼ぶ。人間も同じだ。


 そんな中、隼太は1つのことに気が付いた。


 パドックでの周回を終えて、本馬場に入る際、スカイウィングが誰かを探すそぶりを見せることを。


 そして、オーナーの正平を見つければ、


(行ってきます!)


と上機嫌な言葉を発していることを。


 見つからなければ、


(ふーん。今日はいないんだ)


と力ない言葉を発することを。


 表面上の雰囲気は変わらない。でも、レース結果は全く違う。


 正平がいた新馬戦は快勝した。正平がいなかった第2戦はボロ負けした。


 正平が見ている前では懸命に走り、正平がいない時は手を抜く。


 でも、これは人間の見方。だって、人間だって、大好きな人の前では100%以上の力を発揮しようと懸命になる。いなければ、その時のベストを尽くす。スカイウィングも同じ。それだけだ。


 だから、スカイウィングの言葉を抜きにして、隼太は気が付いたことをスカイウィングの世話をしていた康次に話してみた。プライドを傷つけるのではないか、と恐る恐る。


「やっぱり、お前もそう思うか」


 康次も気付いていた。隼太が予想していたネガティブな反応はなかった。


「俺の調教師としてのプライドが傷ついているんじゃないか、って余計なことを考えているんじゃねえよな」


 逆に、スカイウィングのブラッシングをしていた手を止めて、睨みつけられた。そして、鼻を鳴らすと、


「馬が人間様の気持ちを忖度するわけなんかないだろ」


 再び、ブラシを動かし始める。


「それに、気まぐれで奔放で美人なお嬢ちゃんをどうにかして振り向かせるのも、良い男ってもんだろ」


 でも、康次の表情が変わる。


「もっとも、こいつはさっさと引退して乗用馬の道に入った方がいいかもな」


 寂しげな彼に向かって、隼太はあえておどけてみせた。


「スカイウィングは賢いですからね。大好きなオーナーを背中に乗せられるって特大の人参が目の前にぶら下がったら、再調教もすました顔して楽々クリアするんじゃないですか」


 競走馬は気が荒い。負けん気が強くなければ、レースに勝てない。その気の荒さゆえに、馬への騎乗経験が少ない一般人を簡単には背に乗せられない。だから、乗せられるようにトレーニング(再調教)が必要。


 賢いスカイウィングなら十分にありうる話に、「だな」と康次は笑顔を見せた。




 そして、今日。


 競馬場に正平は姿を見せなかった。


「明後日は必ず見に行きますよ。なにせ、スカイウィングの一番の晴れの舞台ですから。何があっても行きます!」


 2日前には、隼太と康次の目の前で笑顔で言っていた。


 でも、姿を見せなかった。


 パドックから本馬場に移動する際、スカイウィングの鞍上から必死に正平の姿を探しても見つけられなかった隼太は心の中で嘆いた。


 スカイウィングの手綱を引く康次もキョロキョロしながら探していた。


 スカイウィングの足が止まる。


 スカイウィングが力ない言葉を発するのか、と隼太は身構えたが、


 ――別にそれならそれで構わないか。

 ――いつものことだから、無理はさせない。騎手として力が出ないなりにレースを組み立てればいい話だ。


 と思い直した。


 けれど、スカイウィングから言葉が聞こえなかった。


 こんなことは初めてだった。


 ただ、一瞬、天を見上げたような気がした。


 嫌な予感がした。


 


 *


 


 隊列が動く。後方にいた馬が1頭、前に出てきた。


 気配を感じた隼太が少しだけ振り返って確認すると、1番人気の馬のカグヤノナミダだった。黒鹿毛の毛並みが一際艶やか。


 昨年の年度代表馬で、今年も海外のトップレースで首差の2着、前走の国内レースでは完勝している。誰もが認める現役最強馬だ。このレースでも断然の一番人気に推されている。


 騎乗しているのは浜口利一郎。今年の騎手リーディングトップ3の一人。そして、隼太の同期でもある。


 真横に来て、馬体を寄せてくる。


 スカイウィングの調子が悪い時の悪癖が出る。寄せられると逃げようとして、結果、体のバランスが崩れて、スピードが落ちてしまう。


 ――ヤバい。


 と隼太は思ったが、スカイウィングは崩れない。むしろ、張り合うかのよう。


 カグヤノナミダの目の力がみなぎっている。


 隼太が利一郎にちらっと視線をやれば、目が合った。ニヤッと笑いかけてきた。


 彼がレース前、取材で周りを囲んでいた記者たちに向かって、口にしていたことを思い出す。


「ライバルはスカイウィングだよ」


「スカイウィングは11番人気ですよ」


「人気なんか関係ないさ」


 カグヤノナミダとは格が全然違うと指摘する若手記者の言葉に真顔で、だけど、真剣味の欠片も感じさせない軽い口調で利一郎は返していた。


 飄々として雲をつかむような性格から、誰も真に受けないことを口にして、記者の取材をはぐらかすのはいつものことだった。でも、時々、本当のことも漏らす。


「あーあ、煙に巻かれちまったよ。やっぱり、あれはいつものことかね」


 はぐらかされて散ってゆく中で、顔馴染みの記者が偶然近くで利一郎の取材の様子を見ていた隼太のそばに寄ってきた。そして、声を潜める。


「それとも、本音かな」


 心当たりが無かった隼太は訝しげな顔をするしかなかった。


 一癖ある利一郎の本音は同期であっても分からない。競馬学校で共に学んでいた時から、変わらない。変わらないのは、馬への騎乗技術、技術向上への飽くなき探求心、勝利への貪欲さも。どれを取っても敵わなかった。せいぜい、隼太が勝てたのは馬の気持ちを汲み取ること。


 競馬学校卒業してすぐ、隼太の騎乗成績が利一郎を上回った時期もあった。そのせいで、天狗になって、長くなった鼻はボキリと叩き折られたわけだが。


 以来、天と地ほどの差がある。利一郎はトップジョッキーの道を常にひた走り、隼太は2.5流のポジションに甘んじる。


 その飄々とした性格に隠れがちな、利一郎の競馬に取り組む姿勢の真摯さには、


 ――到底、敵わない。トップジョッキーに相応しい。


 そう思っている。


「だって、そうだろ。カグヤノナミダの国内唯一の負けた相手がスカイウィングだ。あのデビュー戦の」


 記者から言われて、隼太は思い出した。


 カグヤノナミダは海外レースで土がつく前、ずっと連勝で、国内では敵無しだった。


 でも、無傷だったわけではない。新馬戦では2着に終わっていた。騎乗していたのは利一郎。そのレースで1着だったのが、隼太を乗せたスカイウィング。


「カグヤノナミダの陣営はスカイウィングを高く評価しているぞ。今度のレースも強く警戒している」


とも囁かれた。首を傾げるしかなかった。


 あの時から2頭が歩んできた道は全く違う。カグヤノナミダは強敵をバッタバッタとなぎ倒してきたが、カグヤノナミダが戦った強敵よりはるかに劣る弱敵にスカイウィングは勝ったり負けたり。積んできた経験も実力も違う。


 カグヤノナミダの陣営が、このレースを勝って有終の美を飾り、満を持して種牡馬入りさせる。そんな未来図を描いていることは、誰もが知っている。


 だから、結局、利一郎の言葉が取材を誤魔化すものであっても、逆に本音であっても、隼太が思うことは1つだけ。


 ――勝てるわけなんかないだろ。


 


 *


 


 3コーナーからの下りの坂道を一気に駆け下り、4コーナーに入る。


 8万人の大観衆が集まる観客席が隼太の視界に入ってくる。


 カグヤノナミダに騎乗する利一郎が馬にゴーサインを出す。1番人気の馬(現役最強馬)のギアが一段上がる。


 隼太は何もしていないにもかかわらず、スカイウィングもギアを一段上げて、加速する。


 こんなことは初めてだった。調子が良い時でもこんな動きを見せたことがない。


 直ぐに、少し前を走っていた2番人気のチュイルチュイルに並び、追い抜こうとする。


 チュイルチュイルも負けることなく、ギアを上げる。


 3頭並んで走る。1番人気と2番人気の馬に挟まれても、スカイウィングの勢いは負けない。止まらない。


 先頭を走るラメゾンとの差がみるみる詰まっていく。


 3頭がラメゾンのすぐ後ろに付いた。ラメゾンはカーブの一番内側を走っている。チュイルチュイルのすぐ前。横を走るスカイウィングとカグヤノナミダが外に膨らむことはない。


 チュイルチュイルの進路が塞がる。スピードを落とすしかない。


 スカイウィングとカグヤノナミダの2頭がラメゾンの横を駆け抜け、置き去りにする。


 カーブが終わる。ゴールまで残り500m。


 観客席からの8万人の大歓声がスタート時よりももっと大きくなる。


 あとは、ゴールまでは直線。ここからキツイ上りの坂道。


 利一郎がステッキ(ムチ)を振るった。カグヤノナミダが加速する。上り坂にもかかわらず、半馬身、スカイウィングより前に出る。


 加速する一瞬前、カグヤノナミダが注意をスカイウィングに向けたことを、隼太は気付いた。


 カグヤノナミダがデビュー戦でスカイウィングに敗れたことを覚えていることも。負けた屈辱を晴らそうと意識していることも。


 利一郎もカグヤノナミダと一緒に雪辱を果たそうと本気でこのレースに勝とうとしていることも、気配だけで感じ取ることができた。


 そして、スカイウィングは前だけを見ている。


 カグヤノナミダを追いかけるために、レースに勝つために、隼太もステッキを振るわなければならない……が、まだ持ったままなのは、勝利よりももっと大切なことがあったから。


 ――お前は何を見ているんだ?


 スカイウィングに問いかけても答えは当然返ってこない。


 隼太の身体にはさっきから嫌な予感が悪寒になって盛大に走り回っていた。


 その悪寒がレース中に心室細動を起こしたスカイグレーのことを思い出させる。その記憶が、ここまでのレースではたから見れば絶好調だが、知る者であれば異例、どころか異常な走りを見せるスカイウィングにステッキを振るうことを躊躇わさせた。もちろん、レース前のチェックでは異常は全くなかった。


 スカイウィングの声が聞こえない。その初めての事態も、万が一ではあるけれど最悪の可能性を隼太の頭にちらつかせ始める。


 ――止めるべきか。


 レースを中断する。その選択肢が隼太の頭に浮かんでくる。


 瞬間、スカイウィングの横に並び追い抜こうとする芦毛の馬があらわれた。


 ――は?


 先程追い抜いたチュイルチュイルとラメゾンの毛色はそれぞれ栃栗毛と栗毛。少し前を走るカグヤノナミダは黒鹿毛。そもそも、このレースに出ている馬はみな栗毛か鹿毛で、芦毛の馬は一頭もいない。


 なにより、その芦毛の馬には騎手が(またが)っていない。それどころか、鞍もハミも馬具を何ひとつ付けていない。


 ありえない光景に目を疑う。


 けれど、少し前を走るカグヤノナミダも騎乗している利一郎は何も反応していない。視界には入っているはずだ。


 ――は?


 頭がパニックになりそうになる。


 その時、声が響いた。


(先に行くよ~!)


 スカイウィングの声では無い。でも、聞き覚えがあった。


 ――スカイグレー?


 芦毛の馬はスカイウィングを追い抜いて、坂の向こうに消えていった。その馬には影が無かった。


 スカイグレーの声に反応したかのように、スカイウィングが加速する。


 カグヤノナミダに並ぶ。


 利一郎が隼太の方をちらりと見て、さらにステッキを振るう。


 隼太は迷う。


 馬体を挟む両足からは異常は何も伝わってこない。


 スカイウィングの様子を見ても、異常は見当たらない。


 でも、明らかに普通ではない。


 止めるべきか、走り続けるか、止めるべきか。


 もしも、止めなければ、この走りであればレースに勝てるかもしれない。


 最高峰のこのレースでの勝利。栄冠を戴いたことがない者にとっては、喉から手が出るほど欲しい栄誉。一度でも手にしたことがある者にとっては、勝利の美酒をもう一度味わいたいと夢に出るほど。この栄冠は隼太も正平も康次も戴いたことはない。


 でも、無事にレースを走り切ることが大前提。馬の命が最も大切。


 決して、人間の栄誉ではない。


 ――決めた。


 手綱を引き絞り、レースを中断することを。


 落としていた視線を前に向ける。


 スカイウィングが坂を上り切る。


 ゴールが見えた。あと200m。ゴールを最初に駆け抜ければ、勝利の栄冠はスカイウィングと隼太たちのもの。


 手綱を握りしめ……。


(待って! 待って! ボクも一緒に行くよ!)


 スカイウィングの声が聞こえた。


 同時にありえない光景も。


 決勝線を示すシンボルとして設置されているゴール板の前に人がいた。


 ――……オーナー(正平)


 いつも浮かべている彼の優しい目が、200m離れていても、隼太には見えた。


 その足元に影がない。


 影が無かったスカイグレーの姿とダブル。


 ありえない光景が1つの可能性を隼太の中に浮かび上がらせる。


 馬たちが愛している正平の死。


 だから、天国に行っていたスカイグレーが戻ってきた。そして、スカイウィングも……。


 ――パドックでお前が天を見上げた時。あの時にはお前は分かったんだな。オーナーが死んだことを。


 隼太の心の中でストンと落ちるものがあった。


 残ったのは、今、騎乗している馬(スカイウィング)の気持ちを案じる心。


 スカイウィングが加速する。


 カグヤノナミダに跨る利一郎がさらにステッキを振るった。


 カグヤノナミダも加速する。


 スカイウィングのギアがさらに一段上がる。


 スカイウィングがカグヤノナミダの前に出る。


 後ろからステッキを振るう音が隼太の耳にいくつも聞こえてくるが、隼太は振るわない。手綱は……。


 ――絞る! たとえ、人間のエゴと言われようとも、(スカイウィング)には替えられない!


 でも、


(待って! 止めないで! ねえ、ボクの声が聞こえるんでしょ! 聞こえるんなら、止めないで!)


 思わず、絞ろうとした手を止めてしまう。


 スカイウィングに伝わらないとは分かっているが、


 ――なあ、なんでだ? なんで、そこまでして走ろうとする?


 隼太は心の中でそう思ってしまう。けれど、


(なんでかって。簡単だよ。だって、ボクはあの人のことが大好きだから!)


 隼太の目が驚きで大きく丸くなる。馬から返事が返ってきたのは初めてだったから。


 手綱から伝わったのか、鐙から伝わったのか、背に乗っているからなのか、スカイウィングが賢いからか、だから伝わったのかは分からなかった。


(あの人と一緒に天国に行けるのはこのタイミングだけ。あの人をボクの背に乗せられるのもこのタイミングだけ。ねえ、だから、止めないで)


 どうしてそんなことが分かるのか、と問い詰める時間も余裕もない。それでも、隼太はこう思うのを止められなかった。


 ――知っているか? 俺もお前のこと大好きなんだぞ。俺だけではない。お前のまわりにいるみんな、そうだ。


 それだけではダメか? オーナーの代わりにはなれないか? そんな問いかけも込めていた。


(えへへっ。知ってるよ)


 嬉しそうな返事が返ってきた。次いで、照れくさそうに、


(ボクもみんな、大好きだよ!)


 ――だったら……!


(でもね、あの人はもっともーっと大好きなんだ!)


 それは、打算なんか一切ない、純粋で無垢で一途すぎる思い。


 ――……ずるいな。あの人が羨ましい。


(えへへ。ごめんね)


 隼太は決意する。心がねじ切れそうなほどの悲しい痛みとともに。


 ――もういい。分かった。……だったら、走れ! お前が行きたい所まで走れ!

 ――天まで駆けていけ!


(うん!)


 スカイウィングがさらに加速する。


 背中に感じる気配が遠くなっていく。


 1馬身。2馬身。3馬身。


 スカイウィングが正平の幻の横を駆け抜けた。


 その瞬間、隼太には、正平が駆け抜けるスカイウィングを追うように振り返ったのが見えた。


 彼の口が動いたのも。口から紡がれた言葉が「ありがとう」だったのか「おめでとう」だったのか、は分からない。それ以外だったかもしれない。


 それを見て、隼太の心の中に正平への妬みと憎しみが入り混じったものが浮かんできてしまう。一緒にスカイウィングも連れて行ってしまうことへの。


 ゴールを1着で駆け抜けたスカイウィングの走る速さが落ちていく。


 馬体を挟む両足からスカイウィングの心臓の鼓動が伝わってくる。レースを駆け抜けた直後のバクバクと激しい、だけど正常な鼓動ではない。


 異常な心臓の鼓動が伝わってくる。


 同じレースを走った15頭がスカイウィングを次々に追い抜いていく。


 隼太はスカイウィングから下りた。


 締め付けている腹帯を緩め、鞍を外し、スカイウィングが少しでも楽になるようにする。


 寄り添うように、ともに歩く。


 横から生気がみるみる消えていくのを感じていた。同時に、死の気配をまとっていくことも。


 ポツリ ポツリ


 雨が降ってきた。


 そして、その瞬間が来る。


 馬体が揺れ、地に崩れ落ちる。


 生気がなくなったその姿を、隼太は呆然と見ることしかできなかった。


 カグヤノナミダが戻ってきて、スカイウィングの顔にその頬をこすりつける様も、騎乗している利一郎から声を掛けられたことも、気づかなかった。


 気がつくと、辺りは真っ暗になっていた。


 雨がしとしとと降っている。


 遠くで落ちた雷の音が聞こえた。


 周りには競馬場の関係者たちが取り囲み、慌ただしく動いている。


 スカイウィングのかたわらには調教師の康次が膝をついて、その体を愛おしそうに撫でていた。隼太には背中を向けて、顔は見えない。


 けれど、後悔しているのが彼の背中越しに伝わってくる。スカイウィングに病気が潜んでいなかったのか。レースが始まる前、異常は本当に無かったのか。……。


 隼太もそうだ。


(待って! 待って! ボクも一緒に行くよ!)


 ――スカイウィングの背中を押してしまったのは、本当は間違いだったのではないだろうか。

 ――もしも、スカイウィングの声が聞こえなかったら、自分は手綱を引いていたか。

 ――手綱を引いてレースを中断していたら、目の前のこの結果は避けられたのだろうか。


 彼らの後悔は人間の感傷に過ぎない。馬には関係ない。


 康次が、後ろを振り返ることなく、ポツリと言葉を口からこぼした。


「武藤オーナーが亡くなられたらしい。ここに来る途中、交通事故で」


「……ゴールを駆け抜ける前、オーナーの幻が見えました」


「……そっか」


 康次の身体が震える。


「……そうか。こいつはオーナーを背中に乗せたのか」


 雨が強くなる。


「背中に乗せて天国に駆けて行ってしまったんだな」


 隼太は天を仰ぎ見た。


 いくつもの雨粒が頬を垂れて流れていく。


 稲光が光る。まるで天へ昇っていく龍のように。


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