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オカ吸い

作者: 上代朝哉

 体育の授業のあと、更衣室がいっぱいで窮屈だから二年五組の教室に戻って着替えをしていたら当たり前だけど普通に女子が入ってきて、通りがかった三岬真揺(みさきまゆら)さんが僕の匂いを嗅ぐ。


「あれ? 岡戸(おかと)くん、いい匂いするね」と評される。


 三岬さんは去年の学校祭で二年生三年生を押しのけて芳日高校の『今年の女子』に選ばれるほどの美人で、二年生になっても引き続きムードメーカー的存在で声もデカい。そんな三岬さんが明るく太鼓判を押すもんだから、クラス中が僕の方を見る。僕は慌ててズボンを穿く。


 僕は三岬さんとは正反対の地味で静かなタイプの生徒なので、みんなから注目されると赤面してしまう。「…………」と、うつむくしかない。


 三岬さんは気にせず訊いてくる。「なんか付けてる?」


「え?」なんか付けてる?って何? どういう意味?とフリーズするが、そういえば『いい匂い』だとかなんとかっていう話をしていたんだっけ? でも僕は香水も制汗剤も持っていない。持っているはずがない。なので「何も付けてないよ」と答える。


「え、でもメッチャいい匂いするんだけど?」と三岬さんは僕の傍を離れず、まだ鼻をスンスンさせている。僕は三岬さんが近くにいることよりも、三岬さんが騒いだせいでクラス中から凝視されていることの方に強いストレスを感じる。


「そんなにいい匂いすんの?」と三岬さんの友人達も僕を嗅ぎに来る。やめてー。僕は緊迫の余りに立ちくらみを覚える。しかも「全然いい匂いしないじゃん」と言われる。「体臭だよ、これ」


 それはそうだ。だって僕は何も付けていないんだから。ありのままの体臭だ。体育のあとだから汗も掻いているし、どちらかというと臭いだろう。いい匂いだと思う方がどうかしている。


 しかし三岬さんは譲らない。「えー? いい匂いじゃん」


 他の女子達は訝しげな目をしている。「真揺の鼻おかしいよ。どんな匂いがしてんの?」


(こう)ばしい中にもほのかな甘みを感じるよ」と三岬さんは言う。「かといって主張が激しいわけじゃないし、ずっと嗅いでても平気な、落ち着いた香り」


 みんな爆笑する。三岬さんの友達はもちろん、他の男子も笑っている。三岬さんも楽しそうに笑うが、僕だけメチャクチャ恥ずかしくて高二にもなって泣きそうだ。


 そんないい匂いがするわけない。自分自身で嗅いだってそう思うし、友達に嗅いで確認してもらっても普通に「ちょっと臭い」と言われた。そうだ。臭いに決まっている。ただの根暗寄りの男子の体臭だぞ?


 しかし、その次の体育の授業後にも三岬さんは今度は走ってきて「岡戸くん、嗅がせて!」とスンスンするもんだから、みんなは再び大爆笑で僕は赤っ恥だった。


 三岬さんはウケ狙いでやっているわけじゃない。ネタとしてはくだらなすぎるし、本気で嗅ぎに来ているのだ。「すごくいい匂い」


「真揺、変態なんじゃない?」と三岬さんは友人に言われている。


「いい匂いなんだけどなー。なんでみんなにはわからないんだろ?」


「いい匂いじゃないからだろー!」


 僕は期せずしていろんな人から匂いを嗅がれ、『三岬真揺が言うようないい匂いではない人』認定をされ、三岬さんだけを引きつけることから『フェロモン』という渾名(あだな)をいただくハメになってしまう。ポケモンやくまモンみたいに発音される。


 遺伝子レベルで自身とはかけ離れた相手の匂いを『いい』と感じるらしく、それならたしかに僕と三岬さんはタイプが全然異なるから理論上は正しいのかもしれない。けれど、その説にも議論の余地はあるようで、まあぶっちゃけるなら、よくわからないというのが現状の『匂い論』だった。僕は匂いの話にも三岬さんにもあんまり興味がないからどうでもいいのだった。


 たぶん三岬さんに『いい匂いだ』と言われてスンスンされたら、男子ならそれだけで高校生活が最後まで華やかになるし誇り高くいられるんだと思うんだけど、僕もそこまでは想像できるのだが、しかし僕自身がそうなるかと言われるとまた別なのだった。遺伝子の話じゃないけれど、僕は三岬さんとすべてにおいてかけ離れすぎていて、同じ生き物だとも思えないのだ。容姿も性格も、三岬さんはキラキラしていて眩しい。


 部活を終えて、校内の自販機スペースで飲み物を買って休んでいると、三岬さんに発見されてしまう。僕は一人で、三岬さんも一人で、三岬さんは嬉しそうにする。「わあ、岡戸くんだあ……!」


「…………」

 僕は苦笑する。たしかに僕を見るとき、三岬さんの目付きは少しだけ変態っぽくなる。目は細められ、瞳は潤み、震えるように微動する。


「疲れたー」と三岬さんは言い、僕が腰かけているベンチまで来る。隣に座る。


 僕は静かに動揺しているが、何か言った方がいいのかと迷い、とりあえず「お疲れ様」と挨拶する。


「お疲れ様。岡戸くんも運動部だったんだ? 何部?」


「え、陸上部……」


「そうなんだ。なんか意外」


「……なんで運動部だってわかったの?」

 僕は既に制服に着替えているから、文化部と区別がつかないはずなのだ。


「だって汗掻いてるじゃん」と指摘される。「匂いするもん」


「そ、そっか」

 汗は拭いたのだが、そんなんじゃ体臭までは抑えられないか。


 嗅覚の鋭い三岬さんは辺りをきょろきょろと注意深く窺ってから「ねえ、また匂い嗅いでもいい?」と訊いてくる。


 僕は特に感情を込めず「えー」とだけ返す。


「だって部活疲れたんだもん」と三岬さんは謎の言い訳をし、お尻半分の距離だけ、座ったまま僕に近づいてくる。「いいでしょ?」


 嗅いでいいか確認されたのは初めてで、僕はあまり気が進まなかったけれど拒絶する度胸も気力もなかったので「いいけど」と応じる。僕にはそれ以外の選択肢がない。


「わあ、ありがと」と言うが早いか、三岬さんは僕の(わき)辺りに鼻を近づけて、思いきり吸い込む。ふすうぅぅぅ……との吸う音がはっきり聞こえてくる。「あー、いい匂い」


「…………」僕は『ありがとう』と言うのも変なので黙っている。


「岡戸くん、私のこと、嫌?」


 僕はやっぱり選択肢が少ないので「嫌じゃないよ」と答える他ない。


「私最近、メチャメチャ『変態』って言われること増えたからさ。岡戸くんも絶対嫌がってるよって言われたし。あはは……」


「…………」

 三岬さんだからこそ許されている奇行という気はする。他の生徒が異性に対してこんなことをしていたら一発で干されるだろう。それだけ三岬さんの印象はみんなから良好で、この程度のことならからかわれるくらいで見逃してもらえるのだ。


「岡戸くん、ごめんね。私のせいで、なんか変な渾名つけられたでしょ? ホルモンだっけ? みたいなの」


「フェロモン」


「だっけ。嫌がらせしてくる人とかいない? 大丈夫?」


「それはいないけど」

 フェロモン呼ばわりすることが嫌がらせなんだとしたらけっこうな生徒からされているが、まあそれぐらいなら僕は別に構わない。どうでもいい……といった方が適当なのかもしれないけども。


「嫌がらせするような人がいたら私に言ってね?」と言いながら三岬さんはさらに鼻を近づけてきて、そのまま僕の腋と三岬さんの鼻先が接触する。三岬さんの顔面は僕の腋周辺にほぼくっついてしまっていて、嫌とは言わないけれど、僕的に今まででもっとも困る。


「三岬さん……?」


「部活疲れた」とまた三岬さんは言い訳する。「癒されたい」


 密着したまま三岬さんが僕を吸い、吸ったことで少しだけ涼しい空気の流れが発生し、僕の腋辺りを撫でる。


 僕は耐えきれず「三岬さん、さすがに臭くない?」と確認する。


「全然」と三岬さんはすぐ否定する。「疲れてるときはこれくらいの濃度の方が体にいいよ」


 発言が正常ではないが、僕からは何も言えない。「…………」


「あはは。メチャメチャ吸ってる。猫吸いならぬ、岡戸くん吸い……岡吸いだよね、これ。あはは」


「…………」

 三岬さんは楽しそうだし嬉しそうだが、僕は微動だにできず硬直している。誰も来ませんようにと廊下の方に聞き耳を立てている。


「ごめんね。ホントにキモいしウザいよね」と謝りながらも三岬さんは鼻先を僕の肩甲骨の方へ移動させ、改めて吸ってくる。「でもメ~ッチャいい匂いなんだよ。本当なんだよ? 疲れも取れる」


「うん……」


「はあ」と一息ついて、三岬さんが僕から顔を離す。時間にして十分くらいは嗅がれていたと思う。「ありがとう」


「ううん」


「あの、お礼したい」


「え、いいよ」


「飲み物奢ってあげようか?ってもう買ってるな」三岬さんは僕の手元を見て苦笑する。「もう一本買う?」


「ううん、いらないよ」


「いいじゃん。明日飲みなよ。買ってあげるから」


「大丈夫」僕はゆるりと首を振る。「そんな……匂いを嗅がせただけでお金を取るわけにはいかないよ」


「じゃあ……」


 などと言い合っていると、部活を終えた他の生徒達がわらわらと自販機スペースに集まってくる。二年生の人だ。「あ、ミサフェロコンビじゃん」と言われる。三岬さんの『ミサ』とフェロモンの『フェロ』だ。


「フェロモンって言うなよ」


 三岬さんは軽くたしなめるが、「真揺がクンクンしてるからじゃん?」と返されている。


「でも、勝手に名付けたのはあんた達でしょー? 私、そういう渾名あんま好きじゃないよ」


「わかったわかった。もう言わないから」って言いながらまた言うんだろうなあ。


 三岬さんがベンチからスッと立ち上がる。「じゃ、そろそろ帰ろうかな」


「もう帰んの?」


「帰る。部活で疲れちゃった」


「そっか。じゃあバイバイ」


「ん、バイバイ」


 僕がまだベンチに腰かけたままでいると、「真揺、芳香剤くん置いて帰るの?」と言われる。


「渾名つけんなって」と三岬さんは再度注意するもちょっと笑ってしまっている。「……岡戸くんももう帰るでしょ? 行こ」


「あ、うん」と僕もなんとかその場から脱することができる。三岬さんが一人で帰ってしまっていたら僕はまたしばらくベンチから動けないところだった。声をかけてもらって助かった。


 三岬さんに続いて自販機スペースをあとにし、廊下へ出る。夕方の廊下は薄暗く、その脇に並んでいるどの部屋にも明かりはもうない。


「ごめんね、岡戸くん」と再び三岬さんは謝ってくる。「私にしてほしいこととかあったら、なんでも言ってね?」


「うん?」


「さっきのお礼の話。お金がいらないんだったら、代わりに私が何かしてあげるから、なんでも言っていいよ」


「え、それって」


「あ、ちょっと来て」三岬さんは僕の袖を引っ張り、保健室に入る。放課後で先生もいないから鍵がかかっているのかと思いきや、普通に入室できてしまう。まあ、部活で怪我をしたりしたら手当てしないといけないしな。三岬さんは保健室に何の用だろう?と思っていると、座らされ、正面から胸の辺りを嗅がれる。また吸われる。「ごめん。こんなふうに思いきり嗅げるチャンスあんまりないから。最後の最後に惜しくなっちゃった」


「…………」


「……おかしいんだろうな、私。本当にこの匂い嗅いでると落ち着くんだ」


「芳香剤」


 僕がつぶやくと、三岬さんは胸に顔を埋めたまま「また嫌な思いさせたね」とつぶやき返してくる。「私のこれ自体も嫌かな? 嫌だよね。あはは……」


「…………」


「……だから、お返しになんでもしてあげるよ」


「……なんでもって」僕は呻くように問う。「なんでも?」


「なんでも。岡戸くんが望むこと、私がなんでも聞いてあげる。あ、ただしひとつだけね。とりあえず」


「…………」

 なんでもって、本当になんでもいいんだろうか? いや、それをいま確認したのだ。なんでもいいらしい。でもそれは、僕がどうせ何も言わないだろうと踏んでの申し出なのか、実際に本当になんでもしてくれるのか、どちらなんだろう?


 考えるともなく考えていると「あ」と言われる。「心臓がドキドキしてきてる」三岬さんは僕の胸にくっついているから鼓動を感じ取ることができるのだ。「してほしいこと、何か思いついた?」


 なんでもいいの? 僕は三岬さんに片想いしているわけじゃないけど、でも僕も男子高校生だから女子にしてほしいことくらいたくさんある。けれど、そういうのはナシだよね?普通に考えて。でも逆に、だとしたら何をお願いすればいいんだ?っていう感じだし、三岬さんもそういうことを想定しているんじゃないのだろうか? 三岬さん自身はどう見たって経験がありそうだし……あ、だからこそ僕のお願いなんて取るに足らない難易度なのかもしれない。例えば僕が『キスして』って言ったとしても、僕的にはものすごい大胆な要求だけど、三岬さんからすれば容易い御用なのかもしれない。


 正直、三岬さんが胸に密着している状態で『なんでもしてあげる』などと言ってきており僕はテンパりすぎてまともな思考ができていないんだけど、できていないままで口を動かしてしまったもんだから「三岬さんの匂いを嗅がせて」とのお願いが出てきてしまう。


 いや、でも、その点に関しては少し興味がある。三岬さんが僕の匂いにここまで惹かれ、それが遺伝子レベルの話なんだとするならば、僕の方も三岬さんの匂いに何かしら感じるものがあるかもしれない。ありそうな気がするし、ないとおかしいくらいだ。ちょっとだけ嗅いでみたい。


 しかし、「ごめん」と言われる。「部活のあとだし、たぶん臭いと思う。女子として、匂いは嗅がせてあげられない」


 衝撃だった。僕の匂いをひたすらに嗅いで、体育のあとだろうが部活のあとだろうが関係なしに鼻を寄せてくる三岬さんの台詞とは思えなかった。そして、なんでも聞いてくれるとはっきり言ったはずなのに、さっそくNGだった。


 けっこう残念だった。三岬さんがそこまでハマるような特別な匂いというものを僕も体感してみたかったのに。まあ僕から三岬さんの場合が、三岬さんから僕の場合と同じになる保証はないんだが。でも可能性としては高かっただけに残念だった。遅れて、僕は三岬さんにとんでもない要求をしてしまったと恥じ入る。三岬さんが嫌がる要求を僕はしてしまったのだ。三岬さんが想定していなかった気色の悪い要求をだ。一気にまた赤面してしまう。


 三岬さんは「他のことならなんでもオッケーなんだけど……」と言うが、初回のお願いをあっさり断られて、再トライする勇気なぞ僕にはなかった。


「いや、やっぱりいいよ」と僕は殻にこもる。


「ごめーん」三岬さんは本当に済まなそうにする。「私の匂いなんて、岡戸くんには嗅がせらんないよ。それ以外ならなんでも! ホントに!」


『匂いを嗅ぐ』がダメなんだから他にもたくさんダメなことがありそうだ……と思いながらも僕は既に興味をなくしていて「大丈夫だよ。お礼はやっぱりいらないから」と返す。そろそろ校舎自体が閉まってしまいそうだし、三岬さんにそれを伝えて下校することにする。


 それ以来、しばらく三岬さんから匂いを嗅がれることもなかったのだが、部活中に蓮見初那(はすみはつな)から不意打ちでクンクンされる。インターバルトレーニングを完了させて休憩している隙を衝かれた。

「全っ然いい匂いしないよね」


「あ、ちょっと……やめてよ」と僕は三歩分、蓮見さんから逃げる。


「どれだけいい匂いがするのかと思いきや、汗臭いし」


「汗掻いてるから」


「それをいい匂いだって言う人もいるんでしょ?」


「ていうか、三岬さんだけだよ」

 それ以外に僕の体臭を好んで嗅ぎたがる人間なんていない。


「ふうん」と蓮見さんは笑う。「三岬さんって、岡戸くんのこと好きなんじゃないの?」


 そんなの、他の人からも何度となく言われている。「匂いが好きなだけでしょ」


「匂いが好きだからって、あんなにグイグイ行く?」


「よほど匂いが好きなんだと思うよ」と僕は答える。「だって、僕のことが好きなんだとしたら、そんなの普通に告白すればよくない? 『匂いを嗅がせて』なんて言うよりも、『好きだ』って言う方が遥かに楽じゃない?」


「たしかになあ」と蓮見さんは納得する。「逆に岡戸くんは好きじゃないの?三岬さんのこと。チャンスだよ?学校一の美少女をモノにする」


「ないない」と僕は苦笑。「三岬さんは遠すぎて、好きとか嫌いとかじゃないんだよ。三岬さんが人間だとしたら僕は猫くらいのもんだよ。次元が違う」


「へえ~」蓮見さんはニヤニヤ。「これから先もおんなじことを言い続けられるかな?」


 蓮見さんは走り高跳びの選手で、背が高く足も長い。僕と取り立てて仲良しってわけじゃないけど、同じ陸上部なのでときどき言葉を交わす。僕は基本的に異性が苦手だけれど、部員同士ならかろうじて話せる。でも匂いを嗅いでくるとは思いもしなかった。


 校内で三岬さんが接触してくることがなくなり、学校生活が少し落ち着いてきたと安堵していたら、今度は家に呼ばれる。三岬家だ。三岬さんは芳日第二中学校出身なので絲草の方に自宅があるんだけど、僕んちからさほど距離がなかった。岡戸家まで迎えに来られて、徒歩で連れていかれる。部活も休みで暇だった僕はお断りをする口実も見つからず三岬さんの部屋に上げられ、また匂いを嗅がれる。三岬さんは僕のシャツの裾に頭を突っ込んで僕のお腹に鼻を当てる。


 けっきょく岡吸い……僕吸いだった。僕は三岬さんのベッドに座らされて、いいのかなあと戸惑いながら三岬さんに体臭を吸われている。


 三岬さんの部屋はあまり派手でなく、想像以上に落ち着いていた。置かれているものひとつひとつがシックな色合いで、キラキラした女子の部屋!って感じじゃなかった。僕の部屋なんて、適当なものが考えもなく置かれているばかりで、三岬さんの部屋を目の当たりにしてからだと、僕のあれは部屋じゃないのかもなあと思えてくるほどだ。


 三岬さんに吸われている感覚が、急に変化する。僕は反射的に「わ……!?」と声を漏らしてしまう。お腹の皮膚がめくれたような錯覚に一瞬陥る。ずっと明後日の方向だった意識をお腹に戻すと、三岬さんが僕のお腹を、鼻ではなく口で吸っているのがなんとなくわかる。くすぐったい……というか、ほんの少しだけ痛い……痛痒いような刺激だ。「三岬さん……?」


 恐る恐る呼びかけると、シャツの内側から三岬さんのくぐもった声がする。「キスマ出来た」


「え? なんて?」


「キスマ付いちゃった」


「キスマ?」なに? ロックバンドか何か?


「キスマーク付いちゃった」三岬さんがシャツから顔を出し、イタズラっぽく笑っている。「濃いの付いちゃったよ」


「え、なに……?」

 僕がシャツを捲って確認すると、おへその上に赤茶色い虫刺されの痕みたいなものが浮かんでいる。内出血? あ、三岬さんが強く吸って出来た痕か。ああ……だからキスマークっていう名前なのか。初めて知ったし初めて見た。


「すごーい。意外と簡単に作れた」三岬さんは息を弾ませている。「ぢゅっと吸うだけで出来るんだね」


 僕はどういうリアクションを取ったらいいのかわからず「ふうん」とだけ言う。


「あは……ごめんね? 勝手に付けて」


「あ、ううん。別にいいよ」


「嫌じゃない?」


「うん」

 今さら口で吸われて内出血させられたって嫌でもなんでもない。匂いを嗅がれすぎたことで僕の羞恥心はバグっている。


 僕が頷いて見せると、三岬さんは今回はシャツに潜り込まず、僕の首筋の匂いを嗅いでくる……と思いきや、噛みついてくる。あ、違った。噛みつかれたかと思った。僕の感覚は間違えていて、三岬さんは僕の首筋に二度、口を付けてキスマークを作ったのだった。吸う力が強すぎて噛まれたんじゃないかと驚いた。


「ハートのマークが出来ちゃった」と三岬さんは満足げに笑っている。


「え、どういうこと?」僕からは見えないのでよくわからない。


 スマホで撮影され、見せられる。「ちっちゃいキスマをふたつ付けて、ハートにしちゃった」


「ええ……」


「これで岡戸くんは私のモノね。あはは。なんつって」


「…………」


 僕が思考停止して黙っていると、すぐ「ごめん」と謝られる。「キスマなんかではしゃいじゃって、子供っぽかったかも。ごめん。舞い上がりました」


「いや、いいんだけど……」


「キスマ付けるのすら初めてだし。私処女だから」


「え」

 なんか変な告白された? 僕は三岬さんくらいの美人になると相当な経験者なんだろうと勝手に思い込んでいたからなんとなく力が抜けてしまう。が、冗談だろうが真実だろうが僕には直接的に関係のない話だったので聞こえなかったことにして流す。


 三岬さんは僕を窺うようにしばらく眺めていたが、やがて「ハートのキスマ、ちょっと目立つね」とつぶやく。


「あ、そういえばそうだね……」シャツの下のお腹に付けられたものとは異なり、首筋は露出しているからかなり目立つ。「え、どうしよう……?」


「そのままみんなに見せたら?」


「えぇ……困るよ」ハートマークだし。虫に刺されましたじゃ済まない。


「じゃ、絆創膏かな?」


「あ、そうだね。それがいい」


 三岬さんは机の引き出しから絆創膏を取り出してきて「はい」と僕に寄越す。「でも、帰るまでは隠さないでよ。せっかく作ったハートだし、見てたいから」


「わかった」


 三岬さんは頷く僕を見て、なんか、なんともいえない微笑みを浮かべる。微笑みか? よくわからない。「で、岡戸くん、何する?」


「え? うーん」僕は室内を見回す。三岬さんの部屋は綺麗だけど、遊ぶものがない。「三岬さんがしたいことすればいいんじゃない?」


「私はキスマ作ったから。もう満足」


「え、そうなんだ……?」キスマークを付けることができるか試してみたかったんだろうか? たしかに、首筋のハートマークも上手に出来ている。思いつきで作るのは簡単じゃなさそうだし、事前に方法を調べたりしていたんだろう。すると僕は今日、キスマークの実験のために呼ばれたってこと? 「……用事が済んだなら、僕、帰ろうか?」


「え? あ、そういうことじゃなくって……せっかくだし夕方まで遊ぼうよ。岡戸くん、私にしてほしいこと、いま言ってくれてもいいよ? ほら、この間は私けっきょく何もしてあげられなかったし、しかも今日はキスマまで付けさせてもらったし」


「あ、や、それは別にいいです」と僕は丁重に遠慮させてもらう。「何もしていらないよ」


「え……」


「ホントに。三岬さんもあんまりそういうこと気にしないで」


「なんでもいいのに?」


「うん。特にしてほしいこと、ないし」


「そ、そっか……」三岬さんは珍しく少しだけおろおろし、うつむく。「……私ばっかりになっちゃうね」


「僕はそれで構わないよ」

 全然構わない。何をしてもらおうか考える方が苦痛だ。


 けっきょく何もすることがなく、かといってあっさり帰れる雰囲気でもなく、僕は三岬さんの部屋に置いてあった女性向けの情報誌を眺めて時間を潰す。三岬さんはうろうろしたり、ときどき僕の匂いを嗅いだりしていた。


 いっしょに遊ぼうにも共通の趣味などなく、三岬さんの部屋にはゲーム機などもないため、僕なんか三岬さんに吸ってもらうくらいのことしかできないんだけど、しかしそれでも何度となく僕は三岬さんちに呼ばれて時間を共にする。だいたい鼻で吸われるか口で吸われるかのどちらかをされて終わるのだが、ある日、唇のイラストを見せられ、それを僕のお腹にキスマークだけで描きたいのだと言われる。キスマアート? 黒板アートみたいなものらしい。要するに、人肌をキャンバスとして、内出血の赤茶色のみで絵を描きたいのだとか。


 さすがにちょっと嫌だった。「ええー……」


「お願い」と手を合わされる。「一生のお願い。描かせてくれたら、私、岡戸くんの言うこと、一生聞くから」


「はは」と僕は反射で笑ってしまう。


「ホントに」


「そしたら、僕は三岬さんの体の匂いを嗅ぐよ?」


「いいよ」とすぐ言われる。「ただし、私がキスマアートを完成させてからだよ?」


「…………」本気らしい。「僕の言うことを一生なんて、聞けるはずないよ」


「聞けるよ」


「…………」まあ僕の方にそのつもりはないけれど。「イラストって、どれくらいのサイズなの?」


「描いてもいいの?」


「いや……サイズが知りたい」


「これくらい」と三岬さんは両手の平を広げて僕のお腹に当てる。かなり大きいぞ?


「……時間はどれくらいかかるんだろう?」


「わかんない。あと、描いてるところを動画で撮らせてほしいんだ」


「えええ? みんなに見せる?」


「『私』としてクラスメイトに見せたりはしないよ」


「…………」

 その言い方だと、動画投稿SNSとかに上げるつもりなんだろうか?


「お願いします、岡戸くん」頭を下げられる。


 僕的には、交換条件とか何かの権利をもらうとかよりも、そういうふうに下手に出られる方が弱ってしまう。


 そして、押しに弱すぎる僕はなんだかんだで気力を削られ、あきらめさせられ、流されてしまうのだ。三岬さんのベッドに腰かけて上半身裸になり、お腹を三岬さんに晒し(ゆだ)ねることになる。すごい悲しい、というかむなしい。でも、実際に作業が始まると、僕はもう悟りを開いて負の感情を捨て去るのだ。


 三岬さんはプリントアウトされたイラストを参考に、僕のお腹のいろんな箇所を口で吸う。吸引力の強弱で色合いを変えているようで、なかなか凝っている。僕は何度か三岬さんにキスマークを付けられているが、三岬さんは上手なのだ。付けるのも素早くて、しかもある程度自由に大きさも決められるみたいだった。どうして急にキスマークのアートに目覚めたのかはわからなかったが。


 あまりにたくさんの内出血をお腹に付けられていると、痛いというよりもなんだか気分が悪くなってくるけれど、それは僕の精神的な作用なのだと言い聞かせて、なんとか無心を維持できるよう努める。資料用イラストと、僕のお腹の作品を交互に見比べつつ作業を続ける三岬さんを僕は見守る。その間もスマホによる動画撮影がおこなわれている。


 押し黙って固まっていると、やがて、アートが完成する。時間的には、かなりダレてしまったものの、二時間も経っていないくらいだった。早い。そして、出来映えも良好だった。びっくりしてしまう。イラストチックなふっくらとした唇が、陰影をつけられ立体的に仕上げられている。シワの部分も自然に再現されている。これはすごい。才能があるんじゃないだろうか? 僕は自分のお腹をキャンバス代わりにされたなんともいえない感情よりも、賛美の気持ちの方が強く湧く。たぶん三岬さんには芸術的なセンスがある。


 完成品を動画と静止画の両方に収めてもらってから、三岬さんはかなり疲労している様子だったので僕はシャツを着直して帰宅する。でもこれは動画で撮っておいて正解だったかもしれない。これを記録に残さないのはもったいないと僕ですら思った。ちなみに、三岬さんの匂いは嗅がなかったし、それ以外のお願いもしなかった。今後するつもりもない。


 翌日の部活の時間に、キスマアートの話を蓮見さんにチラッとだけしたら、部活中にも関わらず物陰に連れていかれ、「見せて」と言われる。


「えー……恥ずかしい」僕はシャツの裾をぎゅっと握る。


「じゃあなんであたしに話したの? 三岬さんには見せてたんでしょ?」


「そりゃ三岬さんは作者だから……」


「見せるつもりであたしに話したんじゃないの? 見せてよ」


「えー」


「見たいから。ほら、早く。とろとろしてると部活サボってるのバレるよ?」


「強引」と僕は小声で不満をつぶやきながらも渋々シャツを捲り上げる。


「キモ!」とまず言われる。「うわー、想像以上にデカいね、イラスト。うええ、気持ち悪い」


「はい、おしまい」僕はシャツを下ろす。


「あ、ダメだって。早いよ」蓮見さんはもういっそ自らの手で僕のシャツを捲り上げなおす。「まだよく見てないから。あー……キモい。お腹に唇がドン!てあると不気味だね。いやにリアルっていうか、上手いし」


「上手いよね?」


「キモ!って思うってことは、やっぱそれだけ上手に描けてるってことなんだろうね。うー……それにしても痛々しいね。岡戸くん、これ、痛くないの?」


「痛くはないよ」


「されてる最中も?」


「痛いってほどじゃなかったよ」


「ふうん」蓮見さんは僕のお腹をまじまじと見る。「三岬さんは何回キスしたんだろうね?」


「キスっていうか、吸ってるだけだから」


「それをキスっていうんじゃないの? これ、キスマークなんだから」


「あ、まあそっか」


「キス扱いされてないんだ? 三岬さん可哀想」蓮見さんは忍び笑いをする。「三岬さんは岡戸くんのこと、大好きなのにね」


「や、だから好きとかじゃないって」


「好きに決まってるじゃん。好きじゃなかったらこんなことしないよ? お腹に何十回何百回もキスなんて。岡戸くん、けっこう鈍感」


「匂いが好きなだけだって」僕は以前の会話内容を繰り返す。「僕自身が好きなわけじゃない」


「ふうん。じゃ、岡戸くんは? 三岬さんのこと好きになった?」


「アートの才能はすごいなって思ったよ。普通だったらあんなに……こんなにか……描けないよ。ただ、より遠い存在って感じになっちゃったから、ますます恋愛対象とかそういうふうじゃないよね」


「そうなんだ?」


「うん。蓮見さんは僕と三岬さんをくっつけたいみたいだけど」

 僕は三岬さんとはくっつかない。くっつくとかくっつかないとかいう問題じゃない。三岬さんが僕にくっつけるのは鼻先だけだ。蓮見さんの思い描く展開などにはならない。


「そうじゃないよ」と蓮見さん。「別にくっつけたいなんて思ってない」


「ただただ面白がってるだけ?」


「どうかな」蓮見さんは肩をすくめたあと「岡戸くん、あたしと付き合わない?」といきなり言ってくる。


「!?」僕は無言で二歩下がる。「……からかわないでよ」


「からかってないよ。本当に」


「絶対僕のことなんて好きじゃないでしょ」


「わかんないけど。『絶対』なんて決めつけないでよ」蓮見さんが二歩、近づいてくる。「少なくとも、三岬さんのキスマアートを見せられたとき、ムカついたし」


「え、な、なんで?」


「わかんない。なんでだと思う?」


「……上手すぎるから?」


「あっは」と笑われる。「違うと思うよ? あたしは、岡戸くんが三岬さんにチュウチュウされてたのが気に入らなかったの。岡戸くんが黙って三岬さんにキスされてたのがムカつくの」


「…………」


「……口と口でキスした?」


「いや、してないって。だからそういう関係じゃないから」


「じゃ、あたしとそういう関係にならない?」


「蓮見さん、僕のこと好きかわかんないんでしょ?」


「好きだよ」と言われる。


 僕は目が回る。「さっきはわかんないって言ったじゃん……」


「いま喋ってる内に好きになってきたの。たぶん好き。好きだよ」


「…………」


「岡戸くんはあたしのことどう?」


「…………」


「キスマアートの話、あたしにしかしてないでしょ? なんで?」


「…………」

 いや、ギクッとしたのは、僕もなんだか蓮見さんのことが好きな気がする。蓮見さんは喋っている内にリアルタイムで僕のことが好きになってきたと言っているが、僕も同じなのだ。蓮見さんに今ドキドキしている。


蓮見さんがさらに二歩、接近してきて、僕のお腹を触りつつ体を寄せてくる。キスされる!と身構えるけれど、違い、匂いを嗅がれる。「匂いはやっぱ全然好みじゃない」と言われる。「でも気にはならないし、あたしは岡戸くん自体が好きだから」


「…………」


 ぼんやりしていると、「ん」と言われる。「岡戸くんもあたしの匂い嗅いでみていいよ」


「え、悪いよ」


「これから恋人同士になるんだからいいんじゃない?」と未来を決められてしまう。「いっしょにいる上で、匂いは大事でしょ?」


「女子の匂いを嗅ぐなんて畏れ多くてできないよ」


「あたしは勝手に嗅いだんだから、岡戸くんにも嗅ぐ権利はあるよ? それが対等な関係ってもんじゃない?」


「うーん」


「ほら、嗅げ」


「……あはは」


「あははじゃないよ。嗅ぎな」


「…………」僕は笑ったまま、蓮見さんの腋に鼻を近づける。


「ちょ、いきなり腋を嗅ごうとするってマジ?」笑いながら、蓮見さんは僕の頭をバシ!と叩く。「容赦ないね。せめて肩とかにしてくれない?」


「あ、そう?」三岬さんが僕の腋を嗅いでいた印象が強かったから、つい。「はは。ごめん」


「いいけど」


「僕、そういうところたぶん鈍いから、蓮見さん、怒らないで教えてね」


「え、いいよ。わかった」


「ありがとう」


 三岬さんが仮に僕を好きだったんだとしても、『好き』と言ってくれないと僕はバカなのでわからないのだ。『好き』だし『付き合おう』とはっきり言ってくれる蓮見さんに引っ張られていってしまう僕は単純すぎるのかもしれないが、僕にとってはそういう女の子の方がいっしょにいて安心だし、頼もしいのだ。


「岡戸くん、もう三岬さんとは会わないで?」


「あ、うん。そうだね。わかった」


「もったいないと思う?」


「いや、蓮見さんと付き合うんだったら、三岬さんとああいうことはしてられないと思うよ。それは僕にだってわかる」


「……三岬さんから大事な大事な岡戸くんを取り上げちゃったら、あたしって攻撃の的になっちゃったりするかな……? 干されたりして」


「そ、それは僕が守るよ……!」


 頼りにしてばかりもいられない。僕が蓮見さんに安心感を与えてあげないといけないときだってもちろんあり、そうやって支え合えてこそ対等なのだし、そうして初めて好きだのなんだのと言えるのだ。そう思う。


「あはは。よろしくね」


 蓮見さんの、鼻の奥をそっと撫でさするような香りが、まだ僕の中に残っている。

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