第四章:”Dance Partner”
大きく、強く地を蹴る音。
細かなステップを踏む音。
拳と木剣がぶつかり合う音。
あるいは、空を切る音。
まるで舞うように戦い続ける二人が発するいくつもの音が体育館に響き渡る。
他の者は皆静かに、固唾を飲んでその光景を見つめているが……その戦いをまともに目で追うことができている者の数は、実のところかなり少ない。
学生たちにとっては「速い」という感想を抱くのがやっとの、次元の違うとしか評しようのない戦い。
ある者は憧れを、ある者は恐れを抱きながらその光景を見つめている。
数多くのフェイント。
夥しいコンビネーション。
高速で、次々と繰り出されるそれらを多くの者はまともに認識できない。
そして仮に認識できたとしても、その意図や理屈を正しく理解するのは難しい。
故に、多くの者が誤認していた。
二人の実力は伯仲、戦いは互角であると。
これまで聞こえることのなかった音が体育館に響いたのは、その時だった。
軽く硬い音。
それは、拳が訓練用プロテクターの胸部装甲を叩いた音。
浅く、クリーンヒットには程遠いとはいえアンナの攻撃が”入った”ことを示す音だった。
───しくじった。
攻撃を喰らった側……ヘンリーはそんな思考とともに歯噛みする。
彼が失敗と捉えたのは回避しそこなったことではない。
回避を失敗してしまう状況に追い込まれたことに対してだ。
呼吸が乱れる、息が上がる。
知らぬ間に、彼のスタミナは随分と削られていた。
成長途上の肉体故に心肺機能がまだ未熟というのも原因ではあるが、ヘンリーにとって最大の失敗と言えるのはアンナの立ち回りに付き合ってしまったこと。
彼女はずっと、相手に必要以上に大きな動作を強いる立ち回りを演じていた。
自身は適度に息を入れながら淡々と、まるで獲物を誘い込むように。
そしてヘンリーは経験不足と僅かな気負いからその意図に気付くことができなかった。
その結果として今がある。
戦いの趨勢は決まったと言っていい。
もはやヘンリーは、攻撃の全てを捌くことなどできなくなっている。
それでも彼は”殆ど”の攻撃を受けあるいは躱していたし、対処できなかった攻撃もクリーンヒットはしていない。
さらに決して防戦一方にはならず、前に進み剣を振るってもいる。
二人の攻防を正しく理解できていた者たちは一様にヘンリーのことを「技量も精神力も尋常ではない」と評価した。
年齢を考えるならば規格外であるとも。
アンナとしても早々に彼の技量の高さを認識したが故に、これが学びになればと狡猾な立ち回りを選択した訳だが───「予想以上だった」というのが結論になる。
自身を楽しませる程の力量の持ち主だったというのは、彼女にとって嬉しい誤算。
「焦りましたね」
そんな言葉とともに、アンナは半身になりながら前へと踏み出す。
そしてそれを掠めるように振り下ろされる、剣。
剣の間合いから拳の間合いへと、まるで数分前の焼き直しのような光景。
違いがあるとすればそれはアンナの踏み込みが前回よりも速く、深いということ。
そうすれば当然、次に繰り出す攻撃も変化する。
放たれたのは先程のように直線的なジャブではなく、側頭部を狙った左フック。
鈍い音とともにその拳は───肩の装甲に阻まれた。
狙った部位が部位だけにアンナとて手加減はしているが、それは易しい攻撃であることとイコールではない。
間違いなく仕留めるつもりで放った一撃。
それをヘンリーは意図的にか反射的にか、肩で防いでのけたのだ。
もしもアンナの表情筋がまともに動くものであったなら、この瞬間彼女が浮かべていたのは笑みであっただろう。
将来有望と、あるいは末恐ろしいと、彼の尋常でない反応を高く評価する。
───だが、これで終わり。
さらに一歩、彼女は前へと踏み出しながら上半身を捻る。
そうして繰り出された右拳が、体勢を崩したヘンリーの腹部を捉えた。
ヘンリーの身体が浮き上がり、後ろに飛ぶ。
まともに入ったと、多くの者がそう認識した。
そして、打撃音がしなかったという事実に気付かなかった。
「魔法障壁……?」
そう呟いた人物は、意外にも隆夫。
実のところ彼はしっかりと戦いを目で追うことができていた数少ない人物の一人である。
それは魔力によって強化された……とてつもなく強化された動体視力によるものだが、隆夫には知識も経験も少ないが故に二人の動きを理解できていたとまでは言い難い。
そんな彼でも「アンナの拳がヘンリーに届く直前、不可視の何かに阻まれた」というのは正しく認識することができた。
そう、ヘンリーは再びアンナの攻撃を防いでのけたのだ。
それも完全に崩れた体勢で、的確に。
実際彼はしっかりと着地し、改めてアンナの方へと剣を向ける。
それは戦闘続行が可能であるという意思表示に他ならない。
「この辺りにしておきましょう」
だが対するアンナはそれを確認した後、ファイティングポーズを解きながらそう言った。
魔法障壁が受け止められるダメージには、段階的な限界が存在する。
魔法障壁を破砕する程のダメージとその手前、使用者に直接攻撃は届かないまでも衝撃は伝わるダメージという段階だ。
後者は「魔法障壁ごと押される」といった感覚に近い。
そんな”許容量”とでも呼ぶべきものは魔力量や技術によって個人差が生じるが、何にしても今回ヘンリーの魔法障壁が受けたダメージはまさしくこの段階。
そしてアンナには確信がある。
並の人間が展開した魔法障壁ならば今の一撃で破砕していただろうという確信が、だ。
ほぼ無意識に、一撃にそれほどの力を込めてしまった感覚が残っている。
頭部に向けて放った攻撃とは比較にならない、訓練用の防具など何の役にも立たないであろう力を。
このまま戦い続ければ、ギアを上げ続ければ、ヘンリーに大きな負傷をさせてしまう懸念があると彼女は判断し、拳を下ろす。
「ウッス」
対するヘンリーもそれに応じ、剣を下ろす。
そして同時に、大きく息を吐いた。
彼としてはこれほどの全力を出したのも、実力の面でも立ち回りの面でも上回られたのも得難い経験。
「ありがとうございました」
だから開始時より深々と頭を下げる。
しっかりと感謝を伝えたいと、そう思ったが故に。
「頑張ってください」
そしてそう言ってアンナが差し出した右手をヘンリーが握り、二人が握手を交わす。
体育館に満ちていた張り詰めた空気はそこで晴れ、多くの学生たちは呼吸すらも忘れていたことにようやく気付いた。