第三章:その13
来たとき同様、深々とお辞儀をしてサリバンさんが去っていく。
それを見送る俺の笑顔は、きっとひきつっていたことだろう。
『何をそんなに不安がっている』
室内に戻り冷蔵庫からビールを取り出した俺に、ベルガーンがそんなことを聞いてくる。
不安がってるってわかるのかよ、すげえな魔王。
それとも俺が顔とか態度に出し過ぎなのか……たぶんこっちだな。
「次にオレアンダーが来たとき、絶対ろくでもないことを言われる」
特別製の水晶玉を割るほどの魔力量が俺にあったからといって、オレアンダーが危害を加えるとか排除しようとするとかそんなことは起こらないだろう。
モルモットとして利用されるとかもたぶんないと思う。
あるならとっくの昔に、”死の砂漠”かオーレスコの時点で拘束されているはずだ。
だが、奴は絶対とんでもないことを言い出すという確信がある。
そしてそれがどんなことなのか、俺には想像もつかない。
脚置きだの椅子だのになれと言ってくるやべえ奴の思考など、俺には理解しようがないのだ。
『それは楽しみだ』
「なんで???」
『貴様のような奴が怯える相手に興味を持つなという方が無理な相談よ』
ベルガーンの顔に浮かんでいるのは、笑み。
この野郎、他人事だと思って楽しんでやがるな。
でも俺も他人事だったらこうなるだろうから文句が言いづらいのが腹立つ。
『にしてもあの医者、“ヴィンテージ“と言うから期待したが余の姿は見えなかったようだな』
───“ヴィンテージ“
サリバンさんのミドルネームで、元の世界でも度々聞く機会のあった言葉だ。
主にワインだの楽器だのカードゲームだので「価値ある古さ」を示す言葉として使われていたはずだ。
人名に使われているのは聞いたことがない。
いやまあサリバンさんはめっちゃ価値のある年季が入ってそうだけど、エルフだし宮廷医師だし。
「その“ヴィンテージ“ってお前が知ってる名前なのか?」
『ああ、余が魔王を名乗る前から存在したエルフの部族で───待て』
何か説明しようとしたベルガーンが、何故か止まる。
へえ、ずいぶんと歴史ある名前だな……と思っていたところなんだが、どうしたんだろう。
『貴様、まさかクロップにも“ヴィンテージ“という名が入っていることを知らんのか?』
ちょっと待って欲しい。
俺は少尉のフルネームを知らない。
何度聞いても教えてくれないという、とても悲しい事情のせいだ。
セカンドネームがクロップだというのはロンズデイルや他の兵士たちがそう呼んでたので知っている。
だからベルガーンがそれを知っていても不思議に思ったことはない。
馴れ馴れしくクロップと呼ぶのは実に羨ましくて腹が立ったが。
まさかこいつ、少尉のフルネームを知っているのか。
何故だ。
何故俺は知らないのにこいつが知っているんだ。
「ははーん、さてはどこかで資料とか名簿を盗み見」
『本人から聞いた』
「チックショーーーーーー!!!」
俺は今、無性に顔を白塗りにして舞妓さんの格好をしたい気分だ。
何故だ。
何故俺には教えてくれないのにベルガーンにはフルネームを教えてるんだ。
この世の中はおかしい。
ベルガーンが俺を見る視線になんというかこう……哀れみかこれ、そんな感情が混じってる気がする。
何を哀れに思われてるんだろうか。
名前を教えてもらえてないことだろうか。
それとも今の奇行だろうか。
両方の可能性が高いのが最高に嫌だ。
「なあ、ベルガーン」
『本人に聞け』
「言う前に答えるな」
世の中は不条理だ。
というか俺、これまでの人生で「名前を聞いても教えてもらえない」って経験なんてしたことないんだが、何でこんな事になっているんだろう。
俺も少尉の名前、知りたいな……。
そんなことを考えつつ、窓から遠くの景色を眺めながらビールを飲む。
飲まなきゃやってられない。
気付けば俺の思考はそれ一色となり、オレアンダー来訪に対する不安などどこかにカッ飛んで行ってしまっていた。