プロローグ:その3
とりあえず、何よりここには長居したくないというのが俺の一番強い気持ちだ。
”狭間”はひたすら気持ち悪い。
どっちが上下左右かもよくわからず、地面もあるんだかないんだかわからない。
ベルガーンがいなかったら即刻頭がおかしくなってたのではなかろうかとすら思う。
もしかすると脱出した先、ベルガーンのいた世界は肩パッドを装備したモヒカンで溢れる修羅の世界かもしれない。
だがもしそうだとしても、まず間違いなくここよりはマシだろう。
魔法がある世界らしいので、案外元の世界に帰る方法が見つかるかもしれないし。
「……もしかしてあんまり教えたくない術とかですか?」
ベルガーンにとってもいい話だと思うのだが、返事が返ってこない。
見れば腕を組んで何やら考え込んでいた。
まさか魔王的に、ここは居心地がいいので帰りたくないとかだろうか。
流石にないと思いたいが、もしそうなら最悪である。
「教えるのは構わぬが、間違いなく貴様は呪文の意味を理解出来ぬ」
「あ、そっち」
たぶん、内容をきちんと理解していないと発動しないということだろう。
確かに今ベルガーンには言葉が通じているので教われば反復することはできるだろうが、それで呪文の意味や内容を理解できるかと言われたら甚だ怪しい。
般若心経とかも読めても意味は理解できないような感じだ。
そういえば出会ってからこの方ずっと日本語でコミュニケーションをとっている気がするが、どう見ても日本語話者じゃないのに何故言葉が通じてるんだ。
気になって仕方ないがこれは後で聞こう、話の腰がバキバキに折れる。
「……他人と知識を共有する術がある」
「ずいぶん便利な魔法だな」
テストの前日にあちこちで使われてそうな魔法だ。
というか学生時代に使えたらどんなに楽だっただろう、何とかそれを覚えて生まれ変われないものか。
「行使には余と貴様の間で契約が必要だ、構わぬか?」
「もちろん」
「よし、目を閉じよ」
指示に従い俺は目を閉じる。
「━━━我が意を受け入れよ」
額に指が触れ、詠唱が始まった。
ゆっくりと身体の中に何かが流れ込んでくる感触。
きっとこれが魔力って奴なんだろう。
「━━━魂の鎖を解き放て」
内容が小難しすぎて部分部分しか聞き取れないがずいぶん呪文長いしがゴツいな。
なんか闇魔法とかその辺りの詠唱なんだが大丈夫かこれ。
「━━━我こそが司る者、今や我こそがその身を支配する存在なり」
「絶対違う魔法だろそれ!?」
今こいつ確かにその身を支配するって言ったぞ。
これアレだ、たぶん俺の身体を乗っ取る系の呪文だ。
慌てて目を開けた俺の眼前、ベルガーンの身体が強い光を放つ。
───やらかした。
詐欺に引っ掛かったのがわかったときってこんな感覚なんだろうか。
契約とか言い出した時点で警戒すべきだったんだろうが、なんで二つ返事で了承してしまったんだちくしょう。
後悔してももう遅い。
眩い光に包まれながら他人事のように考える俺の中に、よく分からない何かが激流のように流れ込んでくる。
───終わった。
さようなら俺の身体。
きっと、これから俺の魂は永遠にこの”狭間”を彷徨うことになるのだろう。
本当に最悪だ、俺が一体何をしたっていうんだ……。
果たして、どれほどの時間が経ったのか。
気付けば眩い光も、目の前にいたはずのベルガーンも消え去っていた。
「あれ?」
瞬きを数回、そして手を開いたり閉じたりも数回。
……動くぞ?
何も変わったところはないように思う。
意識もはっきりしているし、身体も普通に言うことを聞く。
頬をつねってみる。
痛い。
普通に感覚も生きている。
予想外の展開だ。
乗っ取られると思った身体は乗っ取られず、変わったことと言えば魔王の姿が見えなくなったことのみ。
辺りを見回してもただ”狭間”の星空が広がるだけ。
「どこ行ったんだ……?」
まさか先程のが例の帰還の呪文で、俺を置いて一人で帰りやがったのだろうか。
いやまあ内容は明らかに身体を乗っ取る系だったので違うとは思うが、それならば一体どこへ───
『まさか失敗するとはな』
その時不意に、声が聞こえた。
そして俺の眼前に、まるで光の糸で編まれるようにベルガーンの姿が形作られる。
「失敗って何が。あとお前なんか幽霊みたいになってんぞ」
『突然無礼になったな貴様』
詐欺師に敬語を使ってやる義理はない。
さておき、ベルガーンの姿は先程までと違い輪郭が随分とぼんやりしている。
空中に投影されたホログラムか幽霊、そのどちらかにしか見えない。
いやまあ幽霊の方は見たことないしこれからも見たくないけど。
『まあ良い。薄々気付いているとは思うが、先程のは貴様の肉体を乗っ取る術だ』
「そうでしょうね」
それ以外のコメントはない。
というかなんで特に悪びれた様子もなく偉そうなんだこいつ、まあ良いじゃねえんだよ。
『よもや逆に余が貴様に取り込まれるとは思いもせなんだわ』
「……はい?」
一言文句を言ってやろうと思った俺は、思いも寄らない言葉にフリーズする。
取り込んだ?
俺が、何を?
まさか魔王を?
「どうしてそうなった!?」
『貴様の魔力は異常というほかないな、余など及びもつかぬしまるで底が見えぬ』
混乱する俺をベルガーンは興味深げに、何ならどこか楽しそうに眺めている。
取り込まれたのに余裕だなこいつ、どういうメンタルしてるんだよ。
『意識こそ残っている故、こうして思念体を作り出し貴様との会話は出来るがそれ以外は何も出来ぬ。安心せよ』
安心できるか。
というか問題はそこじゃない。
超展開過ぎて理解が追い付かないが、どうやら俺は魔王に勝ったらしい。
たぶん偉業も偉業だが、何もしてないので喜べないのが難点だ。
それにしても現実世界では何の役にも立たないが、異世界なら魔王にも勝てる才能とか特殊過ぎるだろ。
もっと普通の才能をくれよ。
「それで禁術の方はどうなるんだ?」
色んなものを心の奥底に押し込めてそう尋ねる。
聞きたいことは山程あるがさしあたっての問題はこれだ。
魔王に勝ってしまったせいで元の世界に戻れなくなるってのはまあまああるパターンだが、こんなもらい事故みたいな状況でそうなったら非常に困る。
『それに関しては問題ない、むしろ余計な手間が省けたと言える』
とりあえず最大の懸念が回避されたことに安堵する。
が、そんな「よかったな」みたいに言われると何か腹立つ。
『余が先んじて詠唱を行う故、貴様はそれを復唱せよ』
「今度は大丈夫だろうな」
『今の余には貴様を騙して出来ることは何もない』
そう言われても、それが本当か嘘かわかんねえんだよ。
「はあ、まあいいわとっとと始めろクソ魔王」
『貴様本当に口が悪くなったな』
どれだけ信用できなくても、どれだけ言いたいことがあっても、今はこの魔王を信じるほかない。
果たして諦めたのか覚悟を決めたのか、自分でもどちらかわからない精神状態で俺はベルガーンに先を促す。
『━━━』
そうしてベルガーンが詠唱を開始した。
ああ、これは本当に何を言っているのかわからない。
耳慣れない音、理解できない言葉。
それでも何とか復唱することが出来るのは、魔王を取り込んだからだろうか。
「━━━」
先程とは真逆、身体の中から何かが流れ出ていく感触。
その何かが詠唱によって意味と目的を与えられ、空間を蝕んでいくのがわかる。
きっとこの何かが魔力なのだろう。
ピシリ、と何かがひび割れる音がした。
星空のような空間に白い亀裂が走り、広がっていく。
「そして、旅人は黄金の道を征く」
詠唱の最後が理解できる言葉であったことを理解するより、記憶するより先。
世界を隔てる壁が砕け散る音とともに、そこから溢れだした“白“が俺たちを飲み込んだ。