第十章∶その9
貴族軍の兵士が血相を変えて口にした「緊急事態」という言葉。
果たして何事かと思えば───思ったより緊急で、かつヤバいことが起こっていた。
アーヴィング河の向こうに生きる種族、オーク。
長らく武力衝突自体は起こっていないにも関わらず、辺境伯と帝国軍が共同で防衛線を維持し続けている程度には帝国にとっての脅威であり続けている連中。
それが今現在武装した状態で、明らかに渡河の意図を持って大規模に集結しているのが確認されたらしい。
これらの情報はコーカー中尉らが急いで調べてくれたものだが、状況としてはかなり良くない。
既に辺境伯領内の帝国軍基地は元より周辺貴族も厳戒態勢に入っているとのこと。
「少佐は皆様を早急に退避させたほうが良い、と」
いまだにバーゴイン男爵領に居るロンズデイルの耳にも入り、向こうから緊急で連絡を寄越した程度には非常事態だ。
「キミは本当に……」
少尉は俺に呆れと同情が入り混じった視線を向けてくる。
俺としては「俺のせいではない」と断固として反論したいところだが、事前に「キミが領地にいるうちに河を渡ってこないといいね」と言われていたせいもあって反論しにくい。
少尉としても間違いなく冗談で言ったことなんだろうが、何故か冗談が「想定されていたトラブル」になってしまった。
いや本当に何でだよ。
何でこうも行く先々で特大のトラブルが起きるんだ。
「退避には賛成です、そして急ぐべきだと思います」
アンナさんの言葉に反論はない。
俺たちの方針は辺境伯領からの退避でほぼ決まりだ。
急ぐべきだというのも間違いない。
「ウェンディさんは……どうするんスかね……?」
そんな中でヘンリーくんが恐る恐る、といった様子で口にした懸念。
この場に……ベルガーンやセラちゃん、精霊さんたちまでもが集合している場に、ウェンディの姿はない。
コーカー中尉が情報収集をしてくるより前、訓練場に兵士が駆け込んできた直後に「何があったのか聞いてくる」と言ってどこかに向かったまま戻ってきていないのだ。
『あれの性格的に、ここに残ると言い出すだろうな』
恐らくこの場にいる者は皆、ベルガーンと同じ予想をしている。
少なくとも俺はそうだった。
ウェンディは辺境伯家に連なる者だ、俺たちとは立場が違う。
そんな彼女が「ここに残って戦う」と言い出すのは自然な流れだし、本人の性格的にもそれ以外の選択肢を選ぶことはないだろう。
とはいえそれを辺境伯や周囲が受け入れるかについてはわからない。
「お前は戦場に出るな」と言うか「それでこそヨークシャーの娘」と言うか、辺境伯の人となりや家の雰囲気を知らない俺には見当もつかないことだ。
だがそのどちらの答えが返ってきたとしても、ウェンディがこの地で戦うのはもはや確定事項となっているように思う。
あいつがこの状況で意見を曲げる姿など、全く想像できない。
きっと、拒絶されても戦いに赴くだろう。
「何かいい方法、ないのか?」
半ば助けを求めるようにベルガーンに問いかける。
俺には何も浮かばないし、他の皆も恐らく同様。
こうなるともう、こいつに期待するしかない。
いやこいつに期待できるだけ恵まれてると言えるか。
『ウェンディめを連れ帰るのはまずもって無理だろうな』
水を、期待を向けられたベルガーンが浮かべたのは苦笑。
そしてある程度予想はしていたことだが、いい答えは返ってこなかった。
室内の空気が一回り重苦しくなったような気がする。
「よろしいでしょうか?」
そして沈黙が流れかけた時、口を開いたのはコーカー中尉だった。
彼もロンズデイルやダブルジョンと同様に、ベルガーンやセラちゃんの姿を見ることはできないし声も聞こえないはずだ。
つまりこれまでの俺たちの会話内容はほぼ把握できていない中で、今「終わったっぽいな」と判断して話しかけてきたということになる。
そしてそれがちょうどいい。
「流石ロンズデイルの副官だな」と感心してしまった。
「実は少佐からベルガーン様に、オークの南下……戦闘を止める手段に心当たりはないかと問うように言われています」
ベルガーンがどこにいるのか正確に把握できていないせいだろう、コーカー中尉は俺の方を向きながらそう告げる。
他に視線を向けるべき方向がないというのは分かるが惜しい、もうちょっと右に行けばベルガーンがいる。
さておき、散々都合のいい助言を求めてきた俺が言うべきことではないだろうが、正直それは無茶振りが過ぎるだろうと思う。
ベルガーンとて全知全能ではなく、問いに対する答えを持ち合わせていない場面も、少ないながらもそれなり存在する。
とはいえ質問者であるコーカー中尉がそれを分かっていないとは思わない。
何しろ本人もあまり期待はしていないような表情を浮かべているのだ。
『なくはない』
だが意外にも、返ってきた答えは俺たちに希望を抱かせるものだった。
『オークどもの思想が過去と変わっていなければ、という前提条件がつき───』
一瞬全方向から向けられた、強い期待の込められた視線。
それに対して釘を刺すようにベルガーンは言葉を続ける。
『やるなら命懸けとなる方法だ』
口ぶりからするに、本当に危険な方法なのだろう。
言外に『勧めはしない』と言っているようにも聞こえる。
それでも、俺たちは期待してしまった。
希望を抱いてしまった。
戦いを止められるのならそれに越したことはない、と。
「その方法、是非教えてくださいまし!」
そしてそれは、ドアの向こうにいたウェンディも同じだったらしい。
勢い良くドアを開けて入ってきた姿に、全員の視線が集中する。
「え、えーと、ただいま戻りました」
会話が完全に止まったことで、ウェンディの勢いが段々弱まっていく。
そしていい加減落ち着いたところでようやく始まる、状況と事情の説明。
これまでのウェンディの行動はこうだ。
まずオークに関する情報は即座に把握できたらしいのだが、その後こいつは俺たちのもとに戻ってくるのではなく辺境伯への直談判のため執務室へ直行。
そこで「ヨークシャーの者としてここに残り戦う」と高らかに宣言したらしい。
だがその言葉を受けた辺境伯が喜ぶことはなく、彼の口から発されたのは「他の方々と共に学園に戻るように」という割と強めの命令。
そして当然ウェンディがそれを簡単に受け入れるはずがなく……最終的には母や兄からも長い長い説得を受け、結局お互いに主張は平行線のまま今に至ったと、そんな感じだそうだ。
「お前本当にすげぇな」
「おかしいですわね、褒められている気が全くいたしません」
「そりゃ褒めてないからな」
前にも思ったことだが、こいつは猪の擬人化か何かなのではなかろうか。
いくら何でも猪突猛進が過ぎるだろう。
「それでベルガーン様、方法というのは」
ただベルガーンに教えを請う姿は、表情は真剣そのもの。
ふざけている訳でも何でもなく、心からこの地と家族のことを想っているというのは容易に読み取れる。
正直、志は立派だと思う。
そしてそのせいでご家族も説得に難儀……というか失敗したのだろう。
仮にウェンディがメアリのように戦う力のない令嬢だったなら、泣く泣く命令に従い領地から退避するしかなかったかもしれない。
だが困ったことにこいつはだいぶ戦う力に溢れている。
それは「自分も戦う」と思うには十分過ぎる理由になってしまうのだ。
『余の時代のオークには各々が勇者たらんという意志と、他種族であろうと勇者を称え尊重する価値観があった』
それを汲んでか、ベルガーンが説明を再開する。
そして「まずは」といった感じで始まったオークという種族に関する解説を聞きながら、俺は「なんか随分俺の知っているオークと違うな」という感想を抱いた。
俺が知っているオークは、ほとんどがそういう高潔な精神を持ち合わせていない。
敵で出てくる種族だから仕方ないことだとは思うが、だいたいが下劣。
そのあたりのイメージのせいで、この世界のオーク像が全く想像できない。
一体どんな連中なんだ、と内心首を傾げる。
『使者を立てよ、強い者が良い』
「まさかオークの縄張りで力を示してこいってことか?」
『貴様がこれの意図を理解するとは実に意外だ』
推測を述べたところ、本気で感心したような視線を向けられた。
そりゃ「勇者を尊重する」って前置きの上で「使者は強い者がいい」とか言われたら俺だってわかるわ。
「いくら何でも危険過ぎないかそれ」
だが意図が理解できるからといって納得はできない。
戦争中、あるいはその一歩前の相手の所に行かされる使者はだいたい命懸けというイメージがある。
歴史モノのドラマや漫画で抱いたイメージだが、現実で酷くなることはあっても緩くなることはないだろう。
そんなただでさえ危険な役目に「力を示す」という要素が加わったら、それはもう死にに行くようなものではないか。
それに「行きました、力を示しました、無駄でした」という流れも十分にありえる。
あまりにも分の悪い賭けのように感じてしまう。
だがウェンディは俺の言葉に同調しない。
むしろ前向きに考え込んでいると、そんな様子で黙り込んでいる。
今の提案ってそんな検討に値するものだったのか?
『エイブラム・ヨークシャーの伝説ですね』
そしてその反応の理由は、本人ではなくセラちゃんが解説してくれた。
エイブラム・ヨークシャー。
辺境伯としてのヨークシャー家初代当主であり、武人としての逸話に事欠かない人物。
彼は最初から貴族だったわけではなく一兵卒から成り上がった人物なのだが、辺境伯領を預かることになった理由がまさしく「オークの勢力圏へ単独で向かい、そして不可侵の約束を取り付けてきた」という手柄によるもの。
数百年前までオークはとんでもない脅威だったらしい。
時折思い出したように河を渡ってきてはその時々の辺境伯家を壊滅させたり帝国軍に大きな被害を与えたりと暴れ回り、そして帰っていく。
無論オーク側の被害も大きかったがそこを気にする様子はなく、むしろ大きな被害が出るような戦いを求めている節すらあったそうだ。
実際略奪や陵辱の類は一切起こらず……いやまあ”破壊”は凄かったらしいが、人的被害はほとんどが戦闘員。
非戦闘員は無視されるか、何ならさっさといなくなるように促されていたらしい。
なら戦闘員を配しなくても大丈夫、むしろいないほうがいいのではないかと言う話になるが、そういうわけにもいかない事情がある。
そもそもこの地に辺境伯領が置かれたのは、オークという種族がどこまでもどこまでも南下して戦いを挑んでくる無茶苦茶な連中だから。
何度も襲撃を押し返した末に、半ば防波堤のような感覚で引かれた防御線がこのアーヴィング河沿いの地域なのである。
そしてオークを殲滅するのも難しい。
彼らの生息域である河の向こうは辺境伯領よりさらに極寒、さらに雪のない時期は酷い泥濘地帯となるというとんでもなく攻略の難しい場所なのである。
その上待ち構えるオークがそもそも強いとなれば遠征はとんでもないハイリスク、下手をすれば国が傾くと討伐隊が編成されることはなかったらしい。
さらには友好関係を築こうと使者を派遣しても、殺されこそしないまでもけんもほろろに追い返される有様。
そんなかなり絶望感漂う状況で独り、誰に強要されるでもなく自発的に河を渡ったのが当時辺境伯領に配備されていた部隊の指揮官を務めていたエイブラム・ヨークシャーである。
彼は彼なりにオークについて調べた結果「力を示してこそ、オークとの対話が可能になるのではないか」という結論に達した。
そしてそれを実証するために、誰に何を告げるでもなく夜闇に紛れて河を渡ったんだそう。
ちなみにエイブラムがそんな結論に達した理由の一つが、大英雄ワードプラウズ。
どうやらワードプラウズは”グラヴォサール”がオークの縄張りにのみ生息していると知り、それこそ単独で話を付けに行ったらしい。
そして当時のオーク族の中で最強の戦士と戦い、それに勝利したことで狩猟許可を得たとかそんな話だ。
エイブラムも同じようにオーク最強の戦士と戦い、勝利することで「お前とお前の子孫が在り続ける限りは戦のために河を渡らない」みたいな約束を取り付けたらしい。
その功績に免じ、また約束の条件を満たしていることを示すためにこの地に封じられ生まれたのがヨークシャー辺境伯家と、そんな結末の逸話だ。
セラちゃんの時代にはもうオークは”潜在的脅威”に格下げされ、その危険性は遠い昔の話となっていた。
遠く離れれば離れるほど、帝都や南部に行けば行くほど実感は薄れて行く。
にも関わらず帝国は今現在も辺境伯領周辺に軍を配して警戒を向けているあたり、オークによる脅威が相当なものだったことは容易に伺える。
そしてエイブラム・ヨークシャーという人物が成し遂げたことが、まさしく偉業であることも理解できる。
……ただなんというか、無茶苦茶である。
ワードプラウズも大概だが、そこに着想を得たエイブラム・ヨークシャーもだいぶおかしい。
そして同時に「びっくりするくらい”血筋”を感じるエピソードだな」とも思う。
性別すら違う別人の話なのに、河を渡るイメージ映像がウェンディになってしまう程度には二人がダブって見える。
「……父に、提案してまいります」
真剣な顔で強く告げるウェンディを見ながら、俺は「ああこれは自分が行く気だな」という確信を抱いた。




