第九章:その28
「何だあれ……?」
避難している最中の客とそれを誘導する係員……皆が足を止め、空に現れた”別の空”を呆然と見上げている。
カメラか何かで撮影してると思しき奴までいるが、これはもう世界が変わっても共通する人間の習性的なものなんだろうか。
ただまあ写真を撮りたくなる気持ちがわからないかと言われれば正直わかる。
色合いから何から超禍々しいのは確かだが、同時にひどく興味を引く演出なのも確か。
SNSがあったら思わず投稿したくなる出来事ではあるだろう。
さすがにこの世界にSNSはないけど。
一方で、アレが何かを知っている俺たちが向けたのは興味でなく警戒。
ヘンリーくんは剣に手をかけ、ウェンディに至っては相変わらずどこからともなくハルバードを取り出している。
完全に臨戦態勢だ。
「俺も”魔法の杖”出しといたほうが良いか?」
「今召喚するのは混乱を招くだけじゃない?」
俺も同じく戦闘態勢になったほうが良いかと思い提案したが、そこは少尉に止められた。
確かに今周囲の人々の視線は目の前で起こる禍々しい異変に釘付けで、露骨に戦う準備を始めた少尉たちのことを見ていない。
少しでも意識が向いてたらさすがにハルバードは見咎められるだろうし。
だがそんな状況でも”魔法の杖”を出したら目立つ、きっと死ぬほど目立つ。
そうなったら目の前の異変より俺……あるいは武器を準備してる少尉たちもまとめて不審者の群れ扱いされかねない。
確かにそれはまずかろうと納得する。
さっさと逃げてくれないかなこいつら。
『どうやら……向こうからお出ましになるようだ』
そのベルガーンの言葉に「何が」と問う暇はなかった。
周囲の人々が息を呑んだのがわかる。
次の異変が起こったのだ。
時空の歪みから何か液体のようなものが流れ出る。
既に日がほぼ完全に隠れたため薄暗く、その色合いは正確にはわからない。
だが恐らく黒だろう、とは思う。
それもインクや墨汁の比ではないほどの漆黒。
そんな不気味な液体がドロドロと地面に垂れ落ち、広がっていく。
まるで徐々に世界を侵食していくかのように。
俺は、この液体にも見覚えがある。
正確に言うなら、この広がり続ける水面に見覚えがある。
”狭間”の、どこまでも続く水面。
それは、星空のないこの世界でも変わらず星空を映しているように見えた。
どうやらこれは空の星々を映しているのではなく、水の中で何かが星のように瞬いているらしい。
刹那、その水面がゴボリと泡立ち何かが現れた。
まず見えたのは手。
人のような、それでいて指の長さや太さが均一でない歪な手。
次に見えたのは頭。
これは一般的な成人男性のものだったが───一同じものが一つの胴体から二つ生えているという大問題があった。
それぞれの頭は焦点の合わない赤く光る目で虚空を見つめ、口は言葉とは思えない音を発している。
そんな怪物としか言いようのない存在が現れ周囲は息を呑んだが、まだ悲鳴を上げたり逃げ出すには至らない。
その手に古びた剣が握られているのが露わになってもまだ、足りない。
もしかすると上げられなかったのかもしれない。
身がすくんで逃げられなかったのかもしれない。
皆、現実感を喪失していたのかも知れない。
いずれにしてもそれで特に事態は動かなかった。
静寂の中、気味の悪い水音だけが聞こえる。
「早く避難を!!」
そんな中響いたのは、ウェンディの凛とした声。
そして言うが早いか、ハルバードを構え怪物の方へと突っ込んでいく。
そして、硬く鋭い音が響いた。
それは武器と武器がぶつかり合った音であり、怪物が得物ごと一刀のもとに両断された音。
僅かな間をおいて、ようやく悲鳴があがる。
人々が我先にと逃げ出し始める。
恐怖したのは怪物の姿にか、それとも突如武器を振るったウェンディに対してか。
いずれにせよ流れが生まれた。
広場から離れようとする流れが。
そしてその流れに逆らい、少尉とヘンリーくんが駆け出す。
目指す先にあるのはウェンディの背中と”狭間”の空。
そして、次々と水から這い出してくる怪物たち。