第九章:その16
結論から言うと俺の世界のトマトとこの世界のトマトはほぼ別物だった。
それならば俺と他の面々の感覚の微妙な齟齬も納得できる。
俺の世界のトマトはみずみずしくて甘みと酸味のバランスが絶妙な、様々な料理で主役を張れるような野菜だ。
そのままサラダに入れても、ソースやジュースに加工しても美味い。
何ならそのままかぶりついたって美味い。
対するこの世界のトマトはというと、名前も見た目も同じ。
加えて料理を自分色に染めてくるという点では近しいものがあるが……かなり用途が限定される野菜である。
原因は、辛さ。
この世界のトマトが赤いのは、恐らくリコピンではなくカプサイシンに由来するのではなかろうか。
いやこの世界にリコピンとかカプサイシンがあるのかは知らんけど。
いずれにしてもこの世界のトマトは、辛い。
凄くとかとんでもなくとか修飾語をつけたくなる程度には、辛い。
旨味的なものはあるようなので、俺の世界のトマトが持つ甘さがそっくりそのまま辛さに置き換わったとかそんな感じだろうか。
さて、なんで俺は二つの”トマト”の違いについてこんな言語化できるほど詳しくなったかというと───
「タカオ水飲んで水!」
「どうしてあんなことをしましたの!?」
メアリとウェンディが割と必死な顔で俺の口に水を流し込んでくる。
そしてそんな俺の口は、真っ赤に腫れ上がっている。
そして今俺が感じているのはもはや痛みを通り越して、痺れ。
流し込まれる水も上手く飲み込めない程度には麻痺している。
何をやらかしてこうなったかというと、この世界の真っ赤なトマトにかぶりついてしまったのだ。
みずみずしい刺激物とかいう危険な代物を大量に、ガッツリ口に入れればこうもなる。
街に到着し祭りの現場に向かう途中、露店に並んでいたものがあまりにも新鮮で美味そうだったので購入しそのまま口に運んでしまったのだが……あの瞬間口の中に広がって目とか鼻とか脳まで貫いた激痛は、当分忘れることができないだろう。
マジで三途の川が見えた。
周囲は止めてくれなかったというか、そんなことをやる奴がいるという発想からしてなかったのだろう。
同じ状況なら俺だって止められるか怪しい。
当人が”トマト”について知っているような口ぶりならばなおさらだ。
俺がトマトにかぶりついた瞬間、屋台の店主や通行人も含めてこっちを見ていた者たち全員の時間が止まっていたような気がする。
俺があまりの辛さに苦しみだした時の反応もワンテンポ遅かったし、彼ら彼女らの脳が状況を理解するまでに少し時間がかかっただろう。
俺の一連の行動は、それくらいの奇行だったということだ。
「ふひはいはい」
口が痛いと言ったつもりなんだが、明らかに舌が回ってない。
とんでもなく辛かった、すげえなこの世界のトマト。
これなら侵略者にトマトをぶつけて撃退したとかいう逸話も誇張ゼロだと想像がつく。
もしかすると今でも戦場で武器として使えるんじゃないか。
何をどう考えても別物なのに、俺の世界のもこの世界のも同じく”トマト”と翻訳されるのは翻訳魔法のバグだろう。
いや固有名詞だから仕方ないのかも知れないが、できれば何とかしてほしい。
そのせいで死にかけた奴がいるんですよ。
ともあれ、これならばヘンリーくんが俺の世界のトマト祭りを「物騒」と評したのもわかる。
この世界のトマトを群衆同士が投げ合うのを想像したら当然そんな評価になるだろう。
というか「物騒」もだいぶオブラートに包んでくれた表現のように思う。
俺だったら「殺し合ってんの?」くらいは、言ってしまうかもしれない。
そしてこうなると気になってくるのが、この世界のトマト祭りの実態だ。
俺は確かに「人にトマトをぶつける祭り」と聞いたので俺の世界のそれと同じものを想像していたが、今となってはそんなことはありえないとわかる。
一体どんな祭りなのだろう、興味は尽きない。
『貴様、ついに気でも触れたのか』
ベルガーンの心の底から呆れ返った声が、半分夢を見ているかのごとく思考に没入していた俺を現実に引き戻す。
ひとまずは口と、あとは俺の名誉的な奴の回復に努めよう。
全てはそれからだ。