第七章:その26
もう一度、咆哮が響く。
三度目のそれは明らかに俺単体に向けた、威嚇するような声だった。
俺はビビった。
過去最高にビビっていた。
ここが空中でなければ。
オルフェーヴルと同調していなければ。
きっと俺は腰を抜かしてその場にへたり込んでいたことだろう。
具体的に何が恐いのかはうまく説明できない。
それがなおのこと怖い。
これはきっと本能的な恐怖とかいうやつなのではなかろうかと思う。
捕食者にロックオンされた時に感じるやつだ。
視線の先、目をそらしたくてもそらせなくなってしまった闇が徐々に変化していく。
不定形の闇からぼんやりとした輪郭へ、そして明確な存在へと。
「ドラ……」
───ドラゴン。
舌がうまく回らず、最後まで発音することができなかった言葉。
そんな名称で呼ばれる、動く災害みたいな扱いの怪物。
闇は最終的に、巨大な漆黒のドラゴンの形をとった。
顔と思しき位置には、俺の方を向いた光点が二つ。
あれは目だろうか。
俺は、睨みつけられているのだろうか。
「これヤバいんじゃね?」
『最初からそう言っておるわ』
それは確かにそう。
ベルガーンが強めに忠告してきた事実を重く受け止めるべきだった。
すいません甘く見てました。
今からでももう少し弱い相手にならないでしょうか。
『貴様がどうこうできる相手ではない故、ひたすらに逃げ回れ』
きっと始めから、倒すどころか戦うことなど求められていなかった。
それに対して悔しいとかはない。
その程度でいいのか、とも思わない。
そりゃそうだと思うし、それは可能なのかと不安になる。
だが───
「できると思って言ってんだよな?」
『貴様はともかく、オルフェーヴルならばな』
貴様はともかくが余計だが、まあいい。
オルフェーヴルはけっこうなスピードで飛べる。
そして無尽蔵らしい俺の魔力が尽きない限りクールタイムもない、飛びっぱなしが可能だ。
つまり全力疾走のままフルマラソンも可能ということ。
たぶん。
ならば行ける、行けるはずだ。
行けてくださいお願いします。
そう心の中でつぶやきながら、半ば祈りながら俺はドラゴンに背を向ける。
ぶっちゃけ指示されるまでもなく、今すぐに逃げたい。
ここではないどこかへと。
刹那、ドラゴンが再びの咆哮とともにその漆黒の翼を広げたのが見えた。
その胴体ほどの面積はあろうかという巨大な翼が、二枚。
羽を広げ、自身を大きく見せることで相手を威嚇する鳥や虫がいるとかいう話がある。
子供の頃にテレビか図鑑で見た時は「ふーん」としか思わなかったが、似たような現象を実体験した今ならわかる。
だいぶ怖い。
効果は、抜群だ。
「どれくらい逃げ回ればいい?」
『ことが終わるまで、だ』
「いつだよそれ!?」
ひたすら背中に魔力を注ぎ込み、飛ぶ。
ちらりと振り返れば、ドラゴンは既に空へと舞い上がっていた。
「うわ速!?」
飛行速度が想定よりはるかに速い。
というかたぶん、俺より速い。
巨体がグングン近づいてくる。
「死ぬって!これ死ぬって!」
これまで俺が享受してきた、空を飛べるというアドバンテージ。
それが今回は綺麗さっぱりなくなった。
むしろ今回は相手のホームグラウンドでの戦いとすら言えるかも知れない。
これだけ文明の発達した世界で、飛行機とかヘリとかでの空への進出が全くなされていない理由。
それは、空が危険すぎるから。
なるほど確かにこれは危険だ。
今回は極端な例かもしれないが、空を飛ぶというのはもう危険を通り越して自殺行為なのではなかろうか。
もうすぐ走馬灯が見えるんじゃないかってくらい冷静にフル回転する頭でそんなことを考えながら、俺は必死に逃げる。
ドラゴンは、もう間近に迫ってきていた。